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カーニバル七日目の昼間。
フェリクス殿下の婚約者としての仕事として儀式をこなしたりする以外はフェリクス殿下の部屋で、持ち帰った医務室の仕事をしているうちに終わった。
カーニバルなので本当は休暇扱いになっているはずなのだが、いかんせんやることがなかった。
今の私が問題を起こすのも迷惑なので、大人しくするのが私の仕事だと思って、閉じこもっていた。
思えばカーニバル期間中、引きこもりの日々な気がするの。
最終日、窓の外を見ながら黄昏ている私を気遣ってか、フェリクス殿下が時折部屋に戻ってきて、孤児院で作られていたというケーキを差し入れてくれたりする。
あからさまに目を輝かせた私にフェリクス殿下は目を細めて、それから名案だとばかりにこんなことを言い出した。
「食べさせてあげようか?」
『目が悪戯めいている時点で絶対にろくでもないぞ、ご主人』
「……」
思わず無言でいる私に殿下は近寄ってくると、ふわりと甘いお菓子の香りがした。
「紅茶のパウンドケーキ!」
「正解」
差し出されたそれを手に取ると、それは私が訪問した孤児院のものだった。
あの子たち、元気にしているかしら。
「筋肉姫によろしくーって言っていたよ」
「も、もう……あの子たち、まだ私をそう呼ぶのですね」
僅かにむくれてしまうのは仕方ない。
私は筋肉がすごいのではなくて、一時的に身体能力などを上げているだけなのに。
「むくれるレイラも可愛いね。ちょっと抱き締めても良い?」
「えっ……? あっ、えっと」
『既に抱擁しているではないか』
ちなみに、むくれるレイラも、の時点でぎゅっと抱き締められて彼の腕の中にいた。
「ちょっと色々あって忙しくて。レイラ成分を補充しないと、私は衰弱して死ぬ」
「え、ええ!?」
『ご主人、大袈裟に言っているだけだ、気にするでない』
「今日もレイラが居てくれるから、私は立っていられるのだと思う」
髪に軽く口付けられ、丁寧な手つきで髪を梳いてくれた。
フェリクス殿下は壊れ物を扱うように私に触れてくれるけれど、監禁事件の後はその傾向が強くなった気がする。
ゆっくりと顔を近付けると顔を傾けて、私の反応を観察しながらゆっくりと唇を合わせてくる。
優しく触れて、皮膚の表面を軽く擦り合わせるみたいな浅いキス。
すぐに離れた唇の代わりに吐息が触れて擽ったくて仕方ない。
唇を僅かに離して、鼻先が触れ合う。
「……可愛いな。キスは何度もしているのに、これくらいで赤くなるんだもの」
たとえキスに慣れても、それが恥ずかしくないかって言ったらそれはまた別だと思うの。
フェリクス殿下は身動ぎする私を解放して、クスクス笑っている。
微笑ましそうに笑っていらっしゃいますが、本当に殿下は年齢を誤魔化していらっしゃいませんかね?
サッと距離を取って、白銀の狼の後ろに回り込むと、『私を巻き込むな』とルナに微妙な顔をされた。
それから、付き合ってられんとばかりに部屋を出ていくルナ。
うう……。ルナの前でキスされた……。今更だけど。
実は、ふと思い出して恥ずかしくなることがあるのだ。
「これから少し忙しくなると思う」
「今日ですか?」
「うん。これから間もなく騒ぎになると思う。メルヴィン殿のおかげで邪魔者を一掃出来たからね。…………随分と彼も動きやすくなったことだろう」
最後の方は何を言っているのか分からない。
ただ、お兄様が怪しげな人物を摘発したことでフェリクス殿下が動きやすくなったことは分かった。
「人の感情を利用したり、付け込んだり、自分が最低な人間であることは自覚しているんだ。……それを止めるつもりはないけどね」
昏い闇を孕んだような無機質な声の後、自嘲するように彼は息だけで笑った。
後ろを向いているから彼の顔は見えない。
彼がそれに対する答えなどを求めていないと分かってしまい、私は口を噤むと、彼の背中にそっと抱きついた。
そっと頬を背中に擦り寄せると、彼は驚いたように肩を揺らし、顔だけ振り向いた。
「どうしたの? びっくりした」
「何でもありません。……なんとなくです。本当に何でもないのです」
「……レイラ」
何でもないのだと私が強調すると、彼は嬉しさと愛しさを滲ませて、ふわりと無邪気に笑った。
涙は出ていないけれど、泣き笑いの表情に似ている。
そっと背中に手を添えていれば、堪えきれないとばかりに振り向いたフェリクス殿下に抱き竦められる。
「……私に寄り添ってくれて、ありがとう。レイラ」
大したことはしていないのに、フェリクス殿下は私を離さないとばかりに、まるでしがみつくように、私を腕の中へと閉じ込める。
髪を指に絡めながら、私の後頭部を引き寄せる手。
頬に優しく唇が触れた後、唇を指でなぞられて、私は自然な仕草でそっと目を閉じた。
暖かな吐息が唇に触れて、今にも触れ合いそうになった瞬間、フェリクス殿下がピタリと動きを止めた。
「……フェリクス殿下?」
そっと目を開ければ、ハッとしたように目を見開くフェリクス殿下が視界に入った。
間近で見つめ合う形になり、今にもキスする寸前という状況だったが、フェリクス殿下は邪魔をされたとばかりに不機嫌そうな表情を浮かべている。
私の後頭部を引き寄せていた手を離すと、こちらの肩に手を置いて自分自身から引き離した。
これは、もしかして念話?
フェリクス殿下は何かの報告を聞いていたようで、軽く頷くと。
「カーニバルのどさくさに紛れて事件発生……かな? 理由は怨恨。サンチェスター公爵家の屋敷に賊が侵入。どうやら魔術爆弾をしかけられたらしいね?」
「ええ!?」
フェリクス殿下は何でもないことのように、そんな衝撃的なことを口にした。
これから忙しくなるとは、このこと?
フェリクス殿下はどうやら全て織り込み済みのようだった。
「ふふ、……さすがに行動が早いな。さて、忙しくなるね?」
彼の表情は執務室のものへと変わっていた。




