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 フェリクス殿下の部屋にはもちろん洗面所がついていて、私は自分の顔色が確認していた。

 すごく青白い。こんな顔をフェリクス殿下に見せる訳にはいかない。

 叔父様は、フェリクス殿下が狂うと言っていた。

 不安定ならば尚更。

 少しでも刺激を与えないように心を配るのは婚約者としての役目だ。

 一番傷付いているのは、フェリクス殿下だ。

 鏡に映る己の姿を眺めている最中、ルナから念話が入った。

『ご主人、逃げられた』

 追跡のための魔術をかけるところまでは出来た。

 私が発動して、それをルナが代わりにかけてきたのだ。

『だが、魔術は成功している。あの女、私が精霊だと知ってから及び腰になった。おそらく、精霊について詳しく知らないからだろうな。光の精霊も何故か戦意喪失していたしな』

 ルナの話によると光の精霊は、彼を見て呆然としていたようだ。

『ルナ。とりあえず、リーリエ=ジュエルムをもう一度捜索した後、ノエル様や叔父様と接触を図って欲しいの。予定通りに手配をしてくれる?』

 精霊のルナの顔を知っている二人に頼んで、リーリエ=ジュエルム捜索隊を組織してもらうように決めていた。

 リーリエ=ジュエルムの影武者を務めている彼女のことも連絡しておいて欲しいとルナに伝える。

 間違えて追跡されては困るのだ。

『承知した。ご主人、そちらはどうなった』

『よく、分からないわ。精神干渉系の魔術をかけられて、フェリクス殿下は叔父様の新薬を服用することになった』

 経緯を説明した後、ルナは改まってこう言った。

『ご主人、そなたが動けない状態になったとしても、指示さえくれれば全て私が代替わりする。そなたは王太子のことに気を配れ』

『どうしたの? ルナ、改まって』

『……いや、何でもない』

 いくつか言葉を交わした後、念話は終わった。

 ただ、少し気になることをルナは報告してくれた。




『現場を少し探ってみたが。リアムという男の

 痕跡が全くなかった。死んだ痕跡も、逃げた足取りも。死んだならば、その痕跡が残っていてもおかしくない。切断魔術で細切れにされたとしても痕跡が残らないことはないからな。その場を去ったなら足取りが残る。それがないのはおかしいのだ。瞬間移動でもしない限り……な』



 精霊であるルナは微細な魔力にも敏感だ。

 ルナが現場を調べてきたならば。

 まだ希望はあるということだ。


 ふと顔を上げてもう一度鏡を見た瞬間、私は思わず悲鳴を上げそうになった。

 鏡に映る私以外の存在と目が合ったからだ。

「っ……!? あっ! フェリクス殿下……!」

 いつの間に真後ろに立っていたのだろうか。

 心臓がバクバク鳴り響くのを感じながら振り返る前に、後ろから抱き竦められた。

「レイラ……、っ……レイラ、」

 それから首筋に彼の唇が吸い付いた。

 首に添えられた彼の手にそっと触れる。

 私が居ることに酷く安堵したような声だった。

「フェリクス殿下、もう体を起こしてもよろしいのですか?」

「……うん。問題ないよ。少し、直前の記憶が曖昧だけど」

 後ろからぎゅうっと抱き締められて、その締め付けがだんだん強くなる。

「あの……? フェリクス殿下? 少し痛いです」

「……ごめんね」

 トントンっと彼の腕を軽く叩くと、すぐに腕を緩めてくれる。

 しばらくフェリクス殿下は、私を抱き締め、体を撫でていくが、私はされるがままになっていた。

「レイラに何もなくて、良かった」

 普段の彼とは違った怯えたような声に心配になってしまう。

 こんなところで話し込むのも彼の体に悪いので、フェリクス殿下をベッドへと連れて行く。

 自傷行為もしないし、普通に話も出来るということは、叔父様の新薬は効いたのだ。

 とはいえ、無理をさせるつもりは毛頭ない。

 副作用のこともあるし、様子を見なければ。


「まだ、安静にしていてください。ショックが大きいと思いますから……」

 フェリクス殿下は、ベッドに腰かけると私を正面から無言で抱き締める。

 それから暗い声で話し出した。

「レイラ。迷惑をかけてすまない。あの時あったことを分かる限り、話そうと思う」

「フェリクス殿下が、無理をされないのでしたら……」

 あれっ?って思った。叔父様の話だと、『満月の狂気』を服用すると狂うという。

 もしかして、フェリクス殿下は抵抗力が強いとか?

 彼の口振りはしっかりとしていて、何が起こったのかを記憶の限り、順番に話していった。


 リアム様と殺人鬼を追い詰めていた際に突然現れたリーリエ=ジュエルムが何か魔術を使い、それから記憶が曖昧らしいこと。


「あの殺人鬼。あれを私の魔術でトドメを刺したことだけは覚えてる。死なない程度に加減したが、おそらく再起不能になったと思う。自由に動き回ることはもう出来ない」

 フェリクス殿下が、例の殺人鬼に対して行った魔術はえげつなかった。

 死なない程度に全身の水分を沸騰させる魔術を使い、さらに炎の霧で表面を焼いたらしい。

「あの時、あれ以上手加減できなかったんだと思う。記憶が曖昧だけど」

 周囲の惨状を思い出す。

 地面がボコボコだった。水蒸気にならないように調整しつつ水分を沸騰させるという魔術を使った結果、周囲も巻き込んでしまったのかもしれない。

「リアムがどこに行ったのか分からない。記憶が曖昧で気付いたら、リーリエ=ジュエルムが傍に居た」

 縋るように抱き締める腕は僅かに震えていた。

 昔からの付き合いなのだ。フェリクス殿下が心配していない訳がない。

「ごめん、あの時の記憶が曖昧で正直自分が何をしたのかも、ちょっと」

 フェリクス殿下の背中をそっと摩り落ち着かせてから、ありのままを伝えた。

 遺体が見つかった訳ではないこと、行方不明になっているから捜索をしているということを。

「ルナがそういうからには、無事なはずです」

 フェリクス殿下は生きていると告げた瞬間、ほっと肩を撫で下ろした。

「リアム……。正直、死んでしまったのかと思っていたから……。あの切断魔術は、厳密には分解して物体を引き裂いているんだ。だから危険だった」

 フェリクス殿下が手加減出来なかった理由が分かった。

 フェリクス殿下の様子が思っていたよりも普通でしっかりと会話が出来ることに私は少し気を抜いてしまった。

 叔父様に、『満月の狂気』の副作用があまり出ていないことを報告するつもりでもあった。

 だからそれは何気ない一言だった。

 兄であるフェリクス殿下が意識を失ったことをそろそろ、ユーリ殿下も知る頃だと思ったから。

 本当に何気なかった。

 今日の任務で魔獣召喚陣を破壊することになっていたが、滞りなく任務は達成されていると情報が伝わって来ていたし、終了予定時刻にも近付いていたから。

 今の時刻は昼頃で、皆が帰還する頃で。

 フェリクス殿下の身に何が起こったのか多くの人が知る頃だったから。

 だから私から直々に伝えようと思っただけで。


 まさかそれが地雷なんて思っていなかった。

 念話で伝えれば良かったのだと後悔してももう遅い。




「フェリクス殿下。皆様に少し報告して参りますね。ここでお待ちくださいね」



 そうして、部屋の扉に手をかけた瞬間だった。



 私の背後──フェリクス殿下の纏う空気が氷点下まで急速に下がっていった。

 その瞬間、彼の気配が変わったのを私が背中越しに察して、慌てて振り返った時には、もう何もかも遅かったのだ。



 それは綺麗な笑みだった。

 美しくて、魅力的で、凄絶で、紳士的で、男の色気を垂れ流していて。

 それと同時に。

 何故なのだろうか。




「レイラ?どこへ行くの?」




 何故だったのだろう?

 素敵な微笑みだというのに、本能が逃げろと叫ぶくらいの恐怖を覚えた。


 私は振り返ったものの、口が上手く動かなくなった。

 今のフェリクス殿下は、いつもと違うと本能的に悟った。

 今更、悟った。

 遅ればせながら、悟った。


 扉に手をかけた私の腕をフェリクス殿下は、ぐいっと引っ張った。

「痛……っ」

「ねえ、レイラ。どこへ行くの? まさか、この部屋から出ようだなんて思っていないよね? 外は危険だというのに、わざわざ自分から出ていこうだなんて思っていないよね? 私の目の前からいなくなろうだなんて考えてもいないよね? 駄目だ、駄目だよレイラ。外に出てはいけない。貴女を見る者たちが善良とは限らないんだから。私からレイラを奪い去ろうとしているかもしれないのだから」

「そんなつもりは……」

「なら、なんでここから出ようとしたの?」

 私の目の奥まで、ひたりと見据えるような昏い瞳。

 まるで深淵のごとく、無を体現しているような、ハイライトを失ったような瞳。

 その瞳に囚われて思わず動けなくなった。

 壁に押し付けられて、そのまま荒々しく口付けられた。

「やっ……んっ、んんっ……」

 叔父様は、私に言った。

 この薬を飲めば一日狂うのだと。

 心の奥の本音が表層化するのだと、確かに。

「っ……、レイラ、……っ」

 突然のキスは、普段のフェリクス殿下とは思えない程に乱暴な触れ方だった。

 まるで感情を爆発させたみたいな。

 いや、感情を爆発させていた。


「レイラ。ここから出るのは許さない。ここから出たら貴女は他の男に拐われるに違いないんだ。貴女は魅力的だ。ここに居れば、命を狙われることもないし、他の男の目も向けられない」

 また唇を彼のそれで奪われる。


 壁に貼り付けにされるみたいに肩をぐっと押し付けられ、おとがいを掴んで私と唇を合わせると無理矢理、食んでくる。

「っ……んん──!」

「っ……! 抵抗するつもり?」

「違っ──んぅ……」

 唇を深く貪った後、私は手首をぐっと引かれ、ベッドへと連れて行かれ、そのまま強引に押し倒された。

「フェリクス殿下?」

「何?」

 いつもと違う乱暴な仕草。

 地雷を踏んだことは明らかで、その瞳は怒りに燃えていた。


 押し倒されて覆いかぶさってくる彼は、私を間近に見下ろしながら続けた。

 息のかかりそうな距離でフェリクス殿下は今度は優しげに微笑んだ。

 このタイミングで微笑む? 何故?

 私に言い聞かせるようにも、独り言でも呟くようにも聞こえる口調で彼は囁いた。

「レイラ。ここに居てくれるよね? ここに居てくれれば、貴女を他の男に奪われる心配などない。レイラは可愛いから、いつ奪われるか分からない。ここから出ることさえしなければレイラは私としか会えないのだから安全だよね。最初からこうすれば良かったんだ。これなら、クリムゾンに会う心配もない。あの男に奪われることもない」

「クリムゾン?」

 ここで彼の名前が突然出てきたので、思わず復唱したところで、フェリクス殿下の目には昏い光が宿った。

 唇には酷薄な笑みを浮かべて。

 あ。間違えたかもしれない。

「ふーん、レイラはあの男のことは気安く呼ぶんだね。私よりも」

「……」

 蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていると、フェリクス殿下は私に覆い被さって噛み付くようなキスを仕掛けてきた。

 息を奪い尽くすようなキスは強引で容赦がない。

「んっ……ん、んんんっ…!」

 くちゅ、くちゅっ……と水音がいやらしい。

 あっという間に咥内へと侵入した舌が、歯列をなぞり上顎を探っているのだ。

 無理やり捩じ込まれた舌が私の舌を探り当て、強引に絡められて、じゅうっと強く啜られた。

「っん……!」

 ぎゅっと目の前の彼に縋り付くと、その瞬間彼の雰囲気もすぐに柔らかくなった。

 ゆっくりと舌を抜かれて、絡み合ったそれが解けた。

 透明な糸……私たちを繋ぐものを目の当たりにして、顔が赤らむのが分かった。

 無理やり重ねて吸った私の唇は、しっとりと濡れていて、フェリクス殿下の親指が労るように撫でた。

 びくりと震えそうになるのを我慢する。

 何をされるのか分からないこの緊張感。

 うっそりと微笑む彼が何を考えているのか分からない。


「ここに閉じ込めてしまえば、あるいは」



 物騒な発想に思わず首を振った瞬間、フェリクス殿下の神経を逆撫でしてしまったことを知った。

「レイラを奪われたくない。渡したくない。貴女は私のものだ。誰にも触れさせない」

「奪われるなんて……そんなことは」

「自覚がないんだ、レイラは」


 もう一度唇に彼のそれが重なり、そのまま執拗に口付けられる。

 フェリクス殿下はキスが上手くて、その手管にこちらは思わずぼんやりとしてしまった。

「ぁ……んっ、……ふ」

 ちゅっ…ちゅ……と繰り返されるキスは優しいけれど、執拗にも感じる。


 うっとりとしている間に手首がまとめられて、上に一纏めにされていた。

「え?」

 フェリクス殿下は、柔らかなハンカチで私の手首をきゅっと縛っていたのだ。

「痛くない? 柔らかい布だし、きつすぎないように縛ったから安心して」

 それから、魅惑的に微笑む。

 抵抗してはいけないと本能的に思った。

 抜け出す抜け出さないの話ではなく、縛られたそれを解こうとしたら駄目だ。

 きっと、逃げようとしたと勘違いされる可能性だってある。

 縛るっていうことはそういうことだ。

 きゅっと手のひらを握り、柔らかなハンカチの感触が生々しく伝わってくる。

 あっという間に私の膝を割り開いて、のしかかってきた。

「レイラ。足……開いて」

「えっ……あっ」

 私の股の間に彼の腰が陣取って、私の穿いていた靴を脱がせると、床に放り投げた。

 部屋用のドレスの裾から潜り込んできたフェリクス殿下の手が素肌を探る度、ビクリと身体を震わせる。

 太腿から付け根まで愛撫するように手を這わせると、フェリクス殿下は私の反応を見て満足気にしていた。

「可愛い、レイラ。そんなに恥じらって」


 手を上の方で一纏めにしているので抵抗はあまり出来ない。

 何を今からされるのか、それが分からない私ではない。

 恍惚としたように見下ろすフェリクス殿下の様子はやはりいつもとは違った。

 それから恐ろしいことを言い出した。


「ここから逃がしたくないなら、動けなくすれば良いんだ」



 まるで、天啓でも授けられたみたいに。

 それが名案だと言わんばかりに。


 彼は己の下唇を軽く舐める。

 これは、美しくしなやかな獣の舌舐めずりだ。


 本能的な怯えに体を竦ませていれば、フェリクス殿下は自嘲したような笑みを浮かべた。

「こんなことをする私が受け入れられない? ……ふふ、生憎だけど、もしそうだとしても逃がすつもりはないから」

 フェリクス殿下の想いは確かに狂う程に深かった。

 叔父様の言う通りだった。

 これがフェリクス殿下の狂い方なのだ。

 私を逃がしたくないという彼の本音。

 歪んだ形で表出したフェリクス殿下からの恋慕。

 一身に向かってくる一途過ぎる愛情はまるで鎖のようで、私を丸ごと絡み取ろうとしていた。

 おそらく、もがけばもがくほど食い込む類の。

 どこか病んだようにも見える目つきで私を標的に定めながら、幸せそうに微笑む姿は矛盾している。

「怖い? でもこの部屋から出してあげない」

 そう言うフェリクス殿下の声には喪失の怯えのようなものが含まれている。

 だけど……。フェリクス殿下は私を見くびっている。勇気を振り絞って目の前の彼の瞳を見つめて言った。

「フェリクス殿下は勘違いをされています。いつ、私は貴方を怖いと言いましたか?」


 叔父様も言っていたではないか。

 これもフェリクス殿下の一部だと。

 むしろ、一瞬でも怖いなんて思ってしまった私が薄情だ。

「私は知っています。今も貴方は貴方ですから。フェリクス殿下、私は貴方に何をされても良いのです」

 だって、フェリクス殿下は私を傷付けるようなことはしない。

 私が一番よく知っているもの。

 拘束する時も、私の手首が傷付かないように気遣ってくれている程で。

 こういう些細な部分に彼の優しさや気遣いが現れていること、私は最初から知っていた。


「……そう。じゃあ、好きにさせてもらうね、レイラ」

「……はい。私は貴方のものですから」

 フェリクス殿下にされて嫌なことなんて何もない。


 カーニバル三日目、昼になる少し前の時間の出来事だった。


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