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「…………レイラ?」
「…………」
「レイラ? やっぱりすごく怒ってる?」
湯に浸かってゆっくりした私は、フェリクス殿下の部屋に戻ってきた。
その頃には朝餉の時間になっていて、部屋に美味しそうな朝食が運ばれてくる。
甲斐甲斐しく使用人たちが、食事を用意してくれて、それをゆっくりと頂いた後、食後のティータイムの時間。
貼り付けた微笑みを浮かべながら、彼から目を逸らしている私と珍しく焦っているフェリクス殿下。
ルナはこの光景を見て、ぽつりと『妻を怒らせて実家に帰られそうになる夫』などと呟いた。
まだ結婚はしていない。
「フェリクス殿下。貴方も今の私と一緒に居るのは酷く気が詰まるはず。やはり、同室なのは止めませんか? 空き室があれば、後は私が手続き等しますので貴方にご面倒はかけません。一考されてはいかがです?」
「レイラがものすごく怒ってる……」
『基本、ご主人は温厚なのにここまで怒らせるとは、この王太子……やるな』
ルナ。たぶん褒めるところ違うと思うよ。
「フェリクス殿下。これは貴方のためでもあります。私が居なければ、重要機密事項の書類を部屋に持ち込むことが出来ますし、殿下だってお一人で過ごしたい時もあるでしょう?」
「重要機密事項は執務室でやれば良いし、レイラがこの王城に居るのに、一人で過ごしたい訳がない! それともレイラがそうなの? 私が居て鬱陶しいとか……」
そこで不安そうな顔をするのは反則だと思う。
どんな仲の良い恋人同士でも、プライベート空間は持つだろうに。
ただ、私が殿下を鬱陶しいなんて思うことはない。
今日のことは許せないけど。
「べ、別に……そうは申し上げておりません。ただ、純粋に一人の空間もあった方が良いと申し上げているだけです」
「じゃあ、私の自室から繋がる奥の小部屋。レイラ用になんとか空けて一人用の空間も作るから! そこを用意するから! 私の部屋から出て行くのだけは!」
『この男、必死すぎないか?』
「…………」
どう反応すれば良いのか困っていれば、テーブルを挟んで向かい側に座っていた殿下は、紅茶を置くと私の横へと移動する。
「お願い。今日のことは許せとは言わないから。どんな形でも良いから傍に居て欲しい」
「……ええと」
フェリクス殿下は顔を真っ青にして懇願して来るけれど、私は激怒していた訳ではない。
別にネチネチ怒り続けるつもりはなかった。
逆にここまで悲壮感溢れていると、どうしたら良いのか分からなくなる。
別にそこまで迷惑をかけるつもりはなかった。
そこまでしなくても良いと伝えようと思ったところで。
『ご主人、ご主人。小部屋はもらっておいた方が良いぞ。基本、この部屋以外で着替えさせてもらっているようだが、王太子の部屋で着替えることになる可能性もなきにしもあらずだ。用意出来るならあった方が良い』
「奥に個室を頂けるなら、ここに居ます」
即断即決だった。
確かに、ここで着替える可能性もある訳だ。
今まではフェリクス殿下が早起きのため、時間差があったし、何も問題はなかった。
彼は身の回りのことは全部自分でやってしまう。
私も前世の記憶があるから自分でやりたいところだけど、女性と男性では扱いも少し違うらしく、私は高位の貴族令嬢らしく大人しく世話をされなければならなかった。
「ありがとう! なら今日中になんとか対応するから!」
とりあえず話し合った結果、基本的に私が寝起きするのは今まで通り彼の隣ということになり、何かしら事情がある時のみ、私室から繋がる小部屋で寝起きするという話に落ち着いた。
『こうしてご主人は、個室を手に入れた。喧嘩をしても逃げ込める部屋を手に入れたのだった』
それ以前にあまり喧嘩はしたくないけれど。
私は少しのことなら怒りが持続しないタイプなのだ。
どうしても許せないことはもちろんあるし、負の感情もあるけれど、元々怒ることはあまり好きではない。
怒ることも恨むことも自分の魂がすり減っていく気がする。
私の中で続いている怒りは……と思い浮かべ、ふと前世のことが頭の中に浮かんだ。
あれは、怒りではなくてむしろ怨みと呪いの類だ。
恨むことは自分の魂を苛むのだ。
前世の記憶を持っているのは、もしかしたら自分を取り巻いていた世界に対しての強い怨みのせいかもしれなかった。
こうしてこの世に前世の業を持って生まれてきたのも怨みを抱えたせいかもしれない。
ある意味では世界を呪った罰なのかもしれない。
「フェリクス殿下。今日のことは忘れずに覚えておきますが、私はもう怒っていません。ずっと意地を張るのは嫌ですので、もう仲直りしませんか?」
好きな人と居るのにずっとギスギスしたままなのは嫌だった。
それにそこまで意固地になる必要はない。
忘れるつもりはないけれど。
早く仲直りをしたいのは私も同じなのだ。
だから、大事になる前に私から切り出した。
喧嘩をしたつもりはないけれど、仕切り直しのためにこの台詞は必要だ。
「レイラ……!」
感動に打ち震えたように私の名前を呼ぶと、横からぎゅうっと抱き締めてきた。
「あの……少し痛いです、殿下」
「ごめんね。恥ずかしい思いをさせて。次からは見えないところに付けるから……!」
『この会話がおかしいと思うのは私だけだろうか』
細かいことは気にしないことにして、私も彼の背中に手を回したところで、私たちの喧嘩もどきは終幕した。
『短い痴話喧嘩だったな』
ルナ。痴話喧嘩とかいうのは、恥ずかしいから止めよう?
「殿下、私。今日は王城を見て回ろうと思います。身の回りの場所を把握しておくことが急務だと思いますので」
「うん、そっか。そっか」
フェリクス殿下は先程からニコニコと嬉しそうに私の話に頷いている。
ただ会話をするだけなのに、何故こんなにも幸せそうなのだろうか。
「レイラ。私が王城から出ていないから、昨日からユーリも学園に行っていないんだ。昨日から用事で外に出てるけど、そろそろ帰ってくる頃だから、案内してもらうのはどうだろう?」
「……ユーリ殿下が良いのなら。フェリクス殿下は今日も執務ですよね」
残念そうに彼は苦笑して、ソファまで私を連れていくと膝の上に乗せて抱え込んだ。
「レイラが許してくれたから、執務も頑張れる気がする……」
後ろから髪に顔を埋めて、そんなことを仰る殿下。
大袈裟だなあと思ったけれど、特に突っ込むことはしなかった。
「そうだ。私の首筋に痕を付けてくれる話だけど」
「その話、棄却されたのではなかったのですか?」
どうやらこの件に関してはまた別らしい。
恥ずかしいから嫌だと物申していれば、フェリクス殿下はピタリと動きを止めた。
「ユーリが帰ってきたみたいだ。今、念話があった。レイラの準備が終わり次第、ユーリを呼ぶね」
よくよく考えてみれば、帰ってきて早々私の相手なんて疲れるだけではないだろうか。
「ユーリ殿下も仕事終わりですよね? 疲れているのでは……?」
「それがよく分からないのだけどユーリはね、私に仕事は他にないかと頻りに聞くんだよね。どうしよう? まだ若いのに仕事中毒になったら。私の言うことを何でも聞くのってマズくない? 自由意志とかあった方が良い気が……」
それはきっと、ブラコンだからだと思うの。
何とも言えずにいたら、フェリクス殿下はぽつりぽつり。
「いっそのこと、仕事を減らしたら……。いや、でもユーリは私からの仕事を減らすと、面倒だからなあ」
フェリクス殿下は遠い目をしていた。
どうやら自分の弟がブラコンなことにひっそりと頭を悩ませているらしい。
ユーリ殿下は誰にでも人懐っこいように見えて、主人にしかしっぽを振らない子犬のようだ。
実際、兄上至上主義なのだけれど。
それにしてもフェリクス殿下の周りって濃いなあ……なんて。
本人も大分濃いとは思うけど。
それはもちろん言わないでおこう。




