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服を着替えた後、王妃様に腕を組まれたまま、色々な衝撃で頭の中が真っ白になりながらも移動した。
首筋の横を隠すように髪を一纏めに縛り、呆然としたまま、歩いて豪奢な湯浴み場を後にする。
王城の廊下に繋がる長い通路を歩く間、王妃様は私を観察しながら何やら思い出し笑いをしていた。
楽しそうで何よりだ。
侍女が扉を開けて、王城の廊下の絨毯に足を乗せたところで、少し離れた先にフェリクス殿下が壁に背を預けて待っていた。
それとルナが彼の足元にお座りしていた。
ルナは私が体を清めている最中は気を使って離れていてくれる。契約したての頃に頼み込んだ習慣は今も続いている。
ルナがトコトコと私の側までやってきて、影の中へとすうっと入り込んだのを見届けてから、件の犯人に目をやった。
「…………」
痕は付けないって言ったのに。
まず彼の顔を見て込み上げてきたのは、様々な羞恥心だ。
二人きりなら、多少恥ずかしくてもまだ良い。
だけど、これは公になったも同然なのだ。
ニコニコ顔の王妃様は、殊更に上品な微笑みを浮かべてフェリクス殿下に話しかけた。
「おはよう、フェリクス。物言いたげな顔をしてこんなところに立ってどうしたのかしら?」
優雅な佇まいなのに、にやにや顔が全てをぶち壊している。
それに対し、フェリクス殿下はいつもと変わりのない綺麗な微笑みで自分の母に挨拶を返した。
「おはようございます。母上。今日は朝から執務と伺っておりましたが、何故ここに? 母上の執務室とは正反対では?」
「ここを使いたくなる時もあるのよ。女性だもの。おかしくはないわよね?」
「そうでしたか。まあそれは良いとして、レイラの腕を離してください。顔が真っ赤なので」
「あら良いの? 離して」
パッと腕を離されたのを見ると、フェリクス殿下は私に向かって微笑んだ。
軽く手を差し出されて、彼の方はいつもと変わりない。
うう。今日も素敵な笑顔だ。少しぐらいなら許したくなるけど、許す訳にはいかない。
じーっとフェリクス殿下の顔を見上げた後、私は王妃様の背中にサッと隠れた。
「えっ?」
呆気に取られて、きょとんとしたフェリクス殿下の顔は珍しい。
そして行き場のない手が宙を彷徨っている。
「あっはははは!『えっ』ですって。『えっ』って!レイラちゃんにフラれたら貴方もそんな顔をするのね! これは傑作だわ! 行き場のない手がまた哀愁を誘っているところも、面白いわ」
王妃が爆笑しながら手を叩いている。
呆然としていたフェリクス殿下は我に返ると、王妃様に苦言を呈した。
「母上。人前で手を叩くのは、いかがなものかと。それ、身内以外ではやらないでくださいね」
真面目くさって忠告するフェリクス殿下に王妃はつまらなそうに口を尖らせた。
「レイラちゃんにフラれたのに、動揺したのは一瞬だけなの? 立ち直りが早いわ。相変わらず反応に面白みがないわね」
このお方はフェリクス殿下に何を求めているのだろうか。
「……動揺する必要はないんです。何かの間違いですから。おいで、レイラ」
「…………」
私は王妃様の背中に隠れ、恨みがましい視線を送ってみた。
ふっ……と吹き出した声が間近から聞こえたが、とりあえず聞かなかったことにしよう。
「えっ……? レイラ、どうしたの?」
どうしたもこうしたもない。
王妃様の後ろに居る私に手が伸ばされて、思わず避けようとした瞬間。
パシリとその手を叩き落とす手があった。
「母上? 何を……」
「貴方がそういう顔をするなんて、面白いものが見れたわね! 随分とまあ、必死になって」
フェリクス殿下をによによと見つめる王妃様に、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
母の言葉を聞かず、彼女の後ろの私に声をかけ続ける。
それはそれは心配そうな声で。
「どうしたの? レイラ。さっき会った時と様子が違う。何か母上に弱みでも握られたの? 言ってくれないと分からないよ?」
『自分の母親に対する解釈が酷い件』
ルナがぽそりと呟くので、思わず吹き出しそうになったのを堪える。
「自分の母親にそれは酷いんじゃないかしら? こんな善良な私を捕まえて、諸悪の根源みたいに言うなんて……私、悲しいわ……!」
およよ、と鳴き真似をする王妃様に、フェリクス殿下が一瞬冷たい視線を向けて、それから麗しく完璧な笑みを浮かべた。
傍目から見たら、微笑み合う仲の良い親子。
「母上。執務室へ戻ってはいかがでしょうか?」
「あら、酷い。ここからさり気なく追い出そうとしているわね。この状況を放置するなんて勿体な──薄情なこと出来ないわよ」
「今、勿体ないとか聞こえたのですが、母上。それから、そのキラキラした目を隠してからそう言ってくださいませんか? どう見てもからかう気満々じゃないですか」
はぁ……とフェリクス殿下は疲れたように溜息をつくと、私の後ろから回り込んで、手首を優しく掴む。
『強硬手段に出たな』
「……」
チラリとフェリクス殿下を見上げれば、宥めるように微笑むフェリクス殿下。
何故私が怒っているか分からないのに、宥めようとするなんて。
「レイラ。私たちには何か誤解が生じてるんだよ。話せば分かる」
私が元いた世界では、それを言って話を聴いて貰えなかった人が居るんだけど。
腕の中に抱き込まれ、肩をなでなでと摩る手。
王妃様がいらっしゃるのにとか、こんなに必死なら許しても……とか思ったが、私は毅然とした態度を取ることにした。
駄目だって言っても聞かなかったフェリクス殿下が悪いのだから。
少し、私は怒っている。
「そうやって目を逸らされると悲しいな……。ねぇ、私のことを見て」
悲しそうな声を出しても今の私は揺らがない!
それに今ここで顔を見たら許してしまう気がした。
「レイラちゃん、絆されちゃ駄目よ。フェリクスは悲しそうな声を出して同情を誘って、あわよくば!なんて黒いことを考えているんだから!!」
「……余計なことを吹き込むのはやめてくれません?」
「あーら。満面の笑顔ね。笑顔で逆ギレ出来るのは良い才能だと思うわよ」
そんな応酬の中、私は思わず口を開いていた。
「王妃様は私におかしなことを吹き込んでなど居ません。緊張している私に明るくお声をかけてくださった優しい方です」
王妃様は、からかったりしているけれど、根底にあるのは、愛や真心といった気遣いに満ちたもの。
おかげで緊張しきっていた私も思いのほか楽しい時間を過ごすことが出来たのだ。
さり気なく気を使えるこの方を私は尊敬している。
「……母上。レイラに何をしたのですか?」
「やだ、もう。何もしてないわよ。仲良く話をしただけで」
「洗脳したりしてないですよね?」
「フェリクス。貴方本当に私のこと何だと思っているの?」
真面目くさったように王妃様がそう問いかけたのだが、彼女は肩をふるふる震わせて。
「っふ、あっははははは!! 傑作! これは良いものを見たわ!ここまで来た甲斐があると言うものよ!」
「……母上。だから手を叩いて笑うのは止めてくれと……」
「やるべきところではしっかりやってるじゃない」
確かに王妃様の猫かぶりは神がかっている。
民衆の前に姿を現した王妃様は、神々しくも見えたし、仕草も楚々としていた。
フェリクス殿下は私の方へと向き直ると、頬を包み込み、あやすように撫でる。
わざわざ王妃様の前で子供扱いをしないで欲しい。
内心むくれたのが伝わったのか、フェリクス殿下は困ったように小さく微笑む。
「本当にどうしたの? もしかして、私が何かやってしまった?」
「フェリクス殿下」
「何かな?」
名前を呼ぶと、彼は掴んでいた手首をくいっと優しく引っ張って私の肩を抱いた。
何やら期待するような声なのが申し訳ないが、私は言わなければならない。今後のためにも。
「フェリクス殿下。ご自分のなさった行動のうちで思い当たることなど、ございませんか? もしくは今の私の姿で」
「思い当たること? 私が何かしてしまったのかな? ……あまり思い当たらないけど……。レイラの今日の髪型がいつもと違うことと関係あるのかな? ……そういう横に垂らすのも可愛いね」
「女性を褒めることで怒りを逸らす作戦に出た我が息子。ああ、涙ぐましいわ……!」
王妃様が実況者のように呟く。
『この母親、煽りおる……』
ルナがそう言っている通り、煽られたフェリクス殿下が自分の母親に向ける眼差しは冷たい。
「滅多に怒らないフェリクスがこんなにイラついているなんて……これは、面白いネタを発掘してしまったわ」
機嫌良さそうな王妃様の今の言葉は聞かなかったことにしよう、うん。
私は囁いた。あまり王妃様に聞かれることでもないのだ。
「フェリクス殿下。私の首のここ、痕があるんです。……貴方が付けた痕です」
「あっ」
前世風に言えば『あ、ヤベ』みたいな顔をしたフェリクス殿下。
「付けないと、約束してくださったのに。殿下にとっては、私との約束などそれ程重要ではなかったと、そういう解釈でいらしたということでよろしいでしょうか?」
フェリクス殿下の顔がサッと青くなったのを見て、少し気が晴れた。
「ち、違う! そうじゃない!」
「あら、必死!」
ワクワクテカテカと言わんばかりの王妃様をフェリクス殿下は無視した。
それどころじゃないのか、私の両肩をがしっと掴む。
「わざとじゃないんだ。付けてしまったのは申し訳ないけど……その、つい……付けてしまって」
「つい?」
「ごめんね! あの時は、そこまで冷静だったという訳でもなく、その──」
あの時のことを王妃様の前で語りそうな勢いだったので、私は顔を真っ赤にして、ぴしゃりと言った。
「王妃様の御前では、お止めください!」
「あっ、うん。はい」
何故かフェリクス殿下はタジタジの様子だったが、すぐに復活した。
「とにかく、次は勝手にしないから!」
「次はしないと仰って、今日というこの日を迎えたのですよ、殿下。それに気付かないまま私は過ごして、王妃様もお気付きになって……。私がどのような思いなのかお分かりですか?」
「もしかして、ものすごーく怒ってる?」
『今の会話の流れでそれを聞くか』
ルナの言う通り、ごもっともである。
声を出さずに大爆笑する王妃様に、私を宥めようと話しかけてくるフェリクス殿下。
この状況はどういうことなのか。
「あ! それなら、私の首にレイラが似たような痕を付けて、私が一日過ごせば!」
名案と言わんばかりに手を叩くフェリクス殿下だったが、そういうことじゃない。
むしろ私の方も恥ずかしい。
「それ、貴方がして欲しいだけじゃないの? フェリクスって、思春期少年特有のむっつりスケベだったのね!」
分かるわ!と訳知り顔でフェリクス殿下を見て頷く王妃様にフェリクス殿下が食ってかかった。
「そういうことをレイラの前で言うのは、デリカシーに欠けますよ。少し気を使うことは出来ませんか?」
「これは真面目な話なのだけど。レイラちゃんは恥ずかしい思いをしていっぱいいっぱいだっていうのに、貴方だけが平然としているのは不公平だと思うのよ」
「どこが真面目ですか……。聞いたらロクな理由じゃなかった……」
頭を抱えるフェリクス殿下。
「とにかく貴方だけが最終的に良い思いをするのは不公平だからナシよりのナシよ!! もちろん、からかいたいだけでは決してなく!」
と、そこで言い放ち、さらにからかおうとニヤリと王妃様が微笑んだところで。
その瞬間、ガシッと王妃様の首根っこを掴む手があった。
一瞬呆気に取られた王妃様だが、すぐに復活した。
「あ! 陛下。私の娯楽を邪魔するのは、お止めになってくださいな。今日はいつもと違って特別なのです」
陛下!?
ぐりんと顔を向ければ。
そこには苦悩に顔を顰め、憂いを帯びた美しい男の人が居た。
フェリクス殿下の髪とそっくりな金髪は見事で、その翠色の瞳は宝石のように煌めいているが、今は疲れ切って濁っていた。
「父上」
フェリクス殿下がぽつりと呟くので、私は慌てて淑女の礼を取ろうとしたのだけど。
国王陛下は首を振ると苦笑する。
「気にしなくて良い、レイラ嬢。それからすまなかったな。朝から王妃が迷惑をかけた。私はこれを回収しに来ただけだから、気にしないように」
「もう! せっかく面白い玩具──コホン、からかいがいが──でもなくて、コホン。楽しい話をしていたのに!」
王妃様は国王陛下にズルズルと引きずられて行く。
「本音がダダ漏れだぞ。お前はもっと取り繕え」
「取り繕ってるわよー!」
夫婦の仲の良さそうな言い合いが遠ざかって行く……。
フェリクス殿下が耳打ちした。
「国王陛下が王妃を引きずって行く光景は時折見られるから、すぐに慣れると思うよ」
どういう状況!?
『強烈だな』
ルナの一言に私は大いに頷いた。




