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 一晩中感じていた安心出来る香り。

 私の大切な人の香り。

 朧げな意識で、まず嗅ぎ取った。

 それは意識の覚醒。

 次に抱き締められていることを知って、ようやく私の目蓋が開いていった。


「……」

 窓の隙間から外の明るさは分かるけれど、まだ太陽は出ていない、そんな時刻。

 早朝に目を覚ました私は、己の婚約者に抱き締められて寝ていたことに気付いた。

 本能的に、彼の胸元に擦り寄っていたらしく、かなり密着していた。

 近い……。

「……っ」

 今だに彼の近くに居ると心臓は早鐘を打つし、不整脈になる。

 抱き合っても、キスをしても、夜を共にして肌を重ねても、それは変わらなかった。

 自分の魔力量を確認してみると、またほんの少し魔力量が増えていた。

 昨日、フェリクス殿下は避妊薬を飲ませてくれたし、念には念を入れたのか中にも出さなかった。

 王家の避妊薬は百パーセント確実な効果だと聞いていたけれど、フェリクス殿下の場合、そういった部分をしっかりとしてくれる真面目な性格なのかもしれない。


 そうっとフェリクス殿下を起こさないように胸元から顔を上げて、間近から眠っている彼を観察する。

 彼は珍しく眠っていた。

 サラサラとした高級な金糸のような髪。目蓋を縁取る金色をした長めの睫毛が影を落としている。

 すっと通った流麗な鼻筋は完璧な造形をしているし、その凛々しく美しい眉も、形が良く薄い唇も、一つ一つのパーツが完璧に配置されている。

 私が好きなのは、彼の目。美しい蒼をした瞳は見つめていると吸い込まれそうになる。

 今は閉ざされているけれど、その雄弁な瞳は、私に熱を向けてくれる。


 綺麗で美しい人。人ならざる上位存在が贔屓をして作り上げた一級品のように。

 私を好きだと、綺麗で可愛いと、仰ってくれるけれど、正直フェリクス殿下の方が綺麗だし、かっこいいし、可愛いところがあると思う。

 可愛いって言ったら気を悪くするかもしれないから言わないけれど。


 おそるおそる頬を手のひらで包んでみる。

 どんな手入れをしているのか、女性を敵に回しそうな程に綺麗な肌は、触り心地が良くてスベスベしている。

 サラサラとした髪に指を差し込んで、こっそり梳いてみる。

 おや?これは。もしや起きない?

 ここぞとばかりに頬を撫でたり、鼻をつついたりしていたら。


『ご主人。王太子に悪戯か』

「っ……!?」


 今確実に心臓が止まった。


 フェリクス殿下を起こしてしまうので、なんとか息を止め、口を手のひらで押さえて声を出さずにすんだけれど。

 心臓に!悪い!

 見られていたことか恥ずかしくて顔が真っ赤になった。

『ルナ!驚かせるのは良くないと思うの!』

 念話で文句を言ってみるが、ルナはそんな抗議にも何のその。

『ご主人。照れることはないぞ。何しろ、この男はそなたのものだ。そなただけが好きにすることが出来る』

『悪役っぽい言い回しはやめよう、ルナ。さすがにフェリクス殿下の許可なく変なことをするつもりはないもの。今のは悪気のないほんの小さな悪戯で……!』

『逆に王太子の方は好き勝手やっているのだから、少しぐらいご主人が羽目を外しても構わんだろう?』

 フェリクス殿下、私が寝ているうちに何かしたりとか……。まさかね?


『もう少し寝ているか?ご主人。私が居ることで落ち着かないようだからな。また周囲の巡回を行ってくるとしよう』

 人に見られていると落ち着かない私に気付いたのか、ルナは部屋から出ていった。


 部屋に取り残されたのは、私と眠っているフェリクス殿下。


 と、とりあえずフェリクス殿下は珍しく爆睡しているようだし、私が先に起きるのも良いかもしれない。


 そうっと抜け出そうと思って、私の体に巻き付く腕をどかそうと四苦八苦する。

 は、離れない……。

 なるべく動かさないようにしながら、抜け出すことが出来たら一番だけど……。

 殿下の腕の間から顔を抜いて、少しずつ離れて、音を立てないようにベッドを下りようとすれば、相変わらずズキリと腰が痛む。

 そっと手のひらで擦りながらベッドの端に座り、絨毯に素足を乗せようとしたところで。


 ふわりと後ろから目元を塞がれる。

「ひゃっ……!!」

 視界が真っ暗になり、そのまま後ろに引っ張られて、ぽすんと何かにぶつかる。


「おはよう、レイラ。どこ行くの?」

「あっ、おはようございます。フェリクス殿下。あの……いつからお目覚めですか?」

「たった今」

 ああ、やっぱり起こしてしまったんだ。

 後ろから私を抱き締めていたフェリクス殿下は、そのまま私の体ごとベッドに沈んだ。

「朝なんだからもう少し微睡んでいようよ。私はレイラとくっついていたい」

 この人にも羞恥心という機能がないのだろうか。

 臆面もなく真っ直ぐと想いを伝えられるのは尊敬出来るけど、こちらとしては顔から火が出そうなので勘弁して欲しい。切実に。

 後ろから抱き竦める形で彼の腕の中へ逆戻りした上に、先程から髪の隙間から首筋に小さなキスを繰り返している。

 私の素足には彼の足も絡められているし、捕らえられたとしか思えない。

 お互いに寝巻きなので、布が薄くて非常に困る! えっちだ! 破廉恥だ!

「フェリクス殿下! どこを触っていらっしゃるのですか!」

 するすると腰を撫でられ、脇腹に到達した手は、ちょうど胸の下辺りに彷徨い始めている。

「レイラの体だけど?」

「それは分かっています!」

 器用だが、とても悪戯な指先を上から押さえ付けれていれば、フェリクス殿下は嬉しそうに息だけで笑う。

「手を握ってくれてるなんて、嬉しいなあ」

「どう考えても、手を抑えているように見えませんか、殿下!?」

 先程から絶やさずに突っ込みを入れているが、追いつけそうにないし、そもそもこのお方、分かってて言ってるんだけど!?

「ダメ。逃げるのは禁止」

「逃げるも何も! やんっ……!」

「やらしくて可愛い声だね」

 変な声が出たのは殿下のせいだ。

 私を腕の中に閉じ込めるみたいに手を交差して拘束するし、しかも耳にそっと唇を這わせてきたのだ。

 ちゅっ…ちゅっ……と軽いキスを耳たぶから耳の後ろまで繰り返す。

 やだ……。くすぐったい。

 さっきみたいな、いやらしい声というか、刺激に感じてしまうみたいな敏感な反応を見せたくなかった。

「レイラ、朝からどうかと思うんだけど、昨日の続きをしたくなっちゃったな」

 私の薄い腹を後ろから撫でながら、指先でつつっとなぞられて、私は思わず腰を揺らした。

「やっ……嫌です。朝からなんて……」

「あんなに可愛く鳴いてくれたのに?」

 太腿の辺りをフェリクス殿下の指がくすぐるように撫でている。

 ど、どこを触ってるの!!

「そういうのは、また夜に……。あっ! 明日は二日ぶりの仕事ですから、今日の夜はナシですからね!!」

「残念。引っかからなかったか……」

 全く残念ではなさそうな声なので、おそらく……というか絶対に私の反応を見たくてからかったに違いない。

 思わず顔を覆っていれば、後ろから声を殺して笑う気配がした。


「私、湯浴みに行ってきます!」

「ここにもバスルームはあるよ?」

「フェリクス殿下が途中で乱入して来るような気がしますので、遠慮します!」

「レイラったら、私のしそうな行動に詳しくなっちゃって、ふふ」

 はむり、と耳を甘噛みされたので、私は悲鳴を上げた。


 朝っぱらからどう見ても上機嫌なフェリクス殿下のからかいから逃れつつ、私は王城の中に造られているという大理石の湯浴み場へと向かうことにした。


 部屋を出ると、親切な侍女たちがニコニコ顔で世話を買って出てくれた。

「ありがとうございます、わざわざ」

「そうですよね。朝から体を清めたいと思うのは当然ですよね」

「ええ、分かりますとも。女性ですからね」

 何やら訳知り顔で頷かれ、案内され、大理石で出来た湯船に張った花の香りのするお湯につかるまで、侍女たちが数人ついてきた。

 何から何まで甲斐甲斐しいというか、段差があるところまで指摘してくれるというか、私を労わってくれている?

 髪を洗ってくれたり、髪の手入れを手伝ってくれるのは分かるけれど、体をマッサージしてくれたり、アロマまで焚いてくれたりと、いたれり尽くせりだ。

 しばらくリラクゼーションを受けた後は、バスローブを着せてくれて、足湯にも案内してくれた。

 この世界にも足湯があるのかと感動しつつ、連れて行ってくれた先は、ホカホカと湯気を立てている。

 まるでテラス席のように開放的で、椅子と台がセットになっていて足元は湯が張ってあるという何とも不思議な空間。

 どうやら、足湯をしながら食事をしたり、読書をしたり出来るようになっているらしい。

 本棚が端にあるけれど、どうやら魔術で湿気ることのないように工夫しているらしい。

 女性に人気の雑誌が置いてあって、『淑女の友』のバックナンバーが目に入ったので、最新号を手に取って着席した。

「姫さま──コホン、レイラ様、スムージーなどはいかがですか? アイスティーもご用意出来ますよ」

 今、姫様とか聞こえたけど、気のせいだと信じたい。うん、気のせいだ。

「ええ、ではアイスティーを……!」

「レイラ様! ホルモンバランスを整えるためには、こちらのスムージーの方が!」

「え。ええ。ならそちらで……」

 勢いに負けて頷けば、侍女の後ろからスムージーを持った侍女。

 えっと……?選ばせる気なくないですか?


 何故だか生温い視線を向けられる。

 気にしたら負けなやつだと、私は最新号の『淑女の友』を開いて──。


 すぐに閉じた。


 待って。

 ちょっと待って。


 見間違いかもしれないと思ったけど、もう一度開いて絶望した。


『恋知らぬ王太子と麗しき令嬢のラブロマンスついに紙面デビュー! 最近話題の作家エミー=べノンの贈る恋する乙女のためのバイブル』


 待って。

 何故、公式にデビューしてるのでしょうか?

 いつの間に!?

 エミー=べノンってエミリー=ベネット様よね?

 どう見ても。


 しかもパラパラとめくってみると、挿絵がどこかで見たことのある姿をしている。

『この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません』とか書いてあるけど、王太子の名前がフェリペで令嬢の名前がレイナという時点でお察しである。

 暗黙の了解というやつだ。

 第一回らしい今回の物語は、二人の幼少期から始まっているらしい。

 羞恥心に顔を真っ赤にしつつ、とりあえず読んでみる。


 え。なんで、幼少期からこの二人は遠慮し合ってるの?

 お互いに一目惚れしたのに、相手はそういう目で見ていないだろうって家族のような関係で満足しようとしてるの?

 あっ……辛い。この二人、根底に劣等感を抱えて……。


 ハッ。私が引き込まれてどうする。


 どこからどう見ても私たち二人の背格好なのだけど、ギリギリアウトではないだろうか。

 いや、セーフだったから出版されている?

 よく検閲通ったなあ、これ。

 ああ、でも恥ずかしい。学園のエピソードがアレンジされている。

 医務室にいるレイナは、何故か生徒の中から助手として選ばれているし。

 というかエミリー様、詳しすぎやしませんか?

 悶々としていた時だった。



「これ、面白いでしょう!? うふふ、絶対に流行ると思ったのよ! 今回の『淑女の友』は過去最高の売上らしいわよ」



 私の隣にいつの間にやら座っているご婦人。

 二十代か三十代か、年齢不詳な綺麗な女性。

 ゆるふわな髪は色素の薄いブラウンで、女性らしく美しく、彼女の蒼の瞳も神秘的なのだけれど、神秘的なはずの目はらんらんと輝いているし、何やら悪戯を企む子どものような表情なので神聖さは霧散していた。


 どこかで見たことがあるような気がする。

 おや?と内心首を傾げつつも、習慣からか私は自然に挨拶をしていた。


「御機嫌よう。私はヴィヴィアンヌ侯爵家のレイラ=ヴィヴィアンヌと申しま──」

「ああっ! 実物はやっぱり可愛いわ!」

 突然間近に居たご婦人が抱き着いてきた。

「っ……!」

 悲鳴を上げる訳には行かず、ぐっと堪える。

 お互いバスローブ姿なのだけど、彼女は私に抱き着いたまま、スリスリと頬擦りをしてくる。

 状況が掴めないながらに呆然として、ハッと姿勢を正す。

「可愛い反応ねぇ! やはり、男ばかりでなくて、娘も欲しかったところよね! ……男ばかりが悪い訳ではないのよ?子どもが元気に成長していってくれるなら、男も女も関係ないのよ?」

「そ、そうですね?男の子も女の子も可愛いですよね」

 状況が分からないながらも、笑顔で返す。

「ああっ! 可愛い! やっぱり女の子は良いわねー! うちの息子たち……特に長男は可愛げがなくてね。『母上、お願いですからボロを出さないようにしてください』ってそればっかりで。心配してくれるのは嬉しいけど、もっと可愛かったら、からかいがいが……コホン、可愛い反応をしてくれても良いと思うのよ」

 今、からかいがいが……って聞こえたんだけど。

 無理矢理抱き締められて苦しそうにしている私に気付いたのか、パッと腕を離されて、私はようやくホッと胸を撫で下ろした。

 距離を普通の距離に保つ。

 ご婦人は満面の笑顔でにじり寄る。

「それでそれで! うちの可愛くない長男が、珍しく面白い反応をしたの。この小説の初版本をこっそり集めようとしていたから、何かと思って探ってみたら、うちの長男ったら健気だったのよー!」

 とにかくテンションが高くて要領が掴めない。

 というか、この方の長男?は、可愛くない連呼されているけど、どういうお方なのだろうか?

 どことなく、苦労人気質っぽいような……?

 ……というか、何故、小説の初版本をこのご婦人の長男が集めるの?

 あれって、確か令嬢の中で人気だった気がするのだけれど。

「うちの長男は、自分と好きな子が題材となった作品をじっくり読みたかったのね。表立って集めることが出来ないから手間暇をかけて裏のルートを使ったりと健気で、それはそれは面白──コホン。だからいっそのこと、こうやって雑誌で読めるようにしてしまえば手っ取り早いかと思って、デビューさせてみたの」


 はい?

 何か今、非常に大切な情報が紛れ込んでいたような?

 え?


「あらあら。驚いちゃって。レイラちゃんの驚く顔は可愛いわ。息子がからかいたくなる気持ちも分かるわー!」


 えっ? え?


 いや、待って。確かにどこかで見たことがあると思っていたけれど、私の知る彼女はもっとこう、高嶺の花のようなイメージで有能そうな出来る女の雰囲気を醸し出していたはずなのだけど。

 目を白黒させていた私に、彼女は一瞬ニヤリと淑女らしくない笑みを浮かべた後。


 パチリとスイッチが切り替わった。


「申し遅れました。私は、エリーゼ=オルコット=クレアシオン。一応この国の王妃として十数年程前から努めさせていただいております。そなたのことは息子からよく聞いているので、よく知っていますよ。緊張せずに、どうか楽にしてくれて構わないのですよ?」


 その場に居るだけで気圧されるような凛々しさと、気高さ。


 ハッとした私はその場に跪いた。

 ドレスも纏わないこの状態で淑女も何もないので、臣下としての礼を。

 どうやら、エリーゼ王妃は、完璧な猫かぶりだったらしい。

 才色兼備で公務を完璧にこなす完全無欠な王妃様の素顔。

 これって、王家の重要機密なのではないかしら?


 表情も完全に王妃のものなのに、彼女の目だけが面白そうに笑っているのが、どこかアンバランスだった。


 それにしても、フェリクス殿下。

 貴方はいつでもどこでも苦労人だったのですね……。


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