127
「……あの男、ブレイン=サンチェスターの口振り、もしかしたら奴は敵の敵かもしれないね。余罪はありそうだけど、少なくとも己の主の意向には反対しているようだ」
固い声でフェリクス殿下がクリムゾンのことを語ったのは、就寝前のことだった。
王城へと連れられ、食事を済ませ、湯浴みで身を清めた後、私は何やら話があるらしいフェリクス殿下に自室へと呼ばれた。
ナイトドレス姿だったので、上にショールを羽織って訪問したのだ。
婚約者同士とはいえ、少し恥ずかしい。
何のことかと思えば、「ブレインのことだけど」と切り出されたのである。
そういえば、と私は思い出す。
クリムゾンは子どもたちを被害に遭わせたくないように見えた。
私は内心それに安堵する。
あの光景は子どもたちを思うが故の行動だったのだろうと思うから。
実際、孤児院長との会話が終わった後に、子どもたちに聞いて回ったところ、ブレイン=サンチェスター令息に対するイメージは悪いものではなく、むしろ子どもたちは彼に好感を抱いているようだった。
ただ、好感を抱かれているのは、サンチェスター公爵もだったので、真相を知る私としては、微妙な気持ちだ。
フェリクス殿下が言うように、人は簡単に仮面を被ることが出来る。
ソファに案内されて、ショールを引き合わせながら、私は頷いた。
フェリクス殿下も隣に座り、私の肩を抱いた。
「そうですね。サンチェスター公爵はともかく、ブレイン様には悪意など感じられませんでした。逆に子どもたちのことを心配していたような……」
「……確かにブレインのあれは嘘ではないと思うよ。相当表情筋が鍛えられているから分かりにくいけど。だけどね、レイラ。何故、貴女があいつの表情を読めるの? 何故、今、納得したの? あの男のこと、よく知っているみたいだ」
フェリクス殿下の顔が強ばっている。
……私とクリムゾンの関係は、きっと彼にはおかしなものに見えるのだろう。
私の彼に対する無意識の信頼をどう伝えれば良いのだろうと思い、即座にそれは伝えてはならないものだと第六感が伝えている。
肩に回る手には、僅かに力を込められていた。
藻掻いてもきっと離してはくれないくらいの。
『ご主人。そなたがあの紅の男を信頼してたとしても、それを正直に伝える真似はしない方が良いぞ。良くないことが起こる気がする』
静観していたルナがそれだけは、とアドバイスしてくれた。
ルナもそう思うんだ……。
なら、私の危機感は的外れでも何でもない。
「いえ、なんとなくです。表情筋を読んだ訳ではありません。子どもたちと接していた時、公爵や私たちから離れていましたし、影でそんなことをする理由が他に思いつきませんでしたから」
当たり障りのないことを言えば、フェリクス殿下は眉根を寄せつつも、「そう?」ととりあえず納得する姿勢を見せた。
彼は言うのを億劫そうにしながらも、更に情報を追加した。
「あからさまに怪しい言動をしているブレイン=サンチェスターだけど、あの男自体には表向き罪はなく、真っ白だ」
「……あ」
ある種の期待に、私は僅かに声を上げた。
敵の敵とフェリクス殿下が認識するなら、協力することも可能なのではないかと。いわゆる利害の一致だ。
完全な味方にはならなくても、突破口があるかもしれない。
「レイラ、なあに?」
彼は敏感に反応してくれた。
「あの、提案なのですが……。フェリクス殿下とブレイン様が協力してみるというのは──ひっ……」
フェリクス殿下の眦が釣り上がり、私を見る目には憎々しげな色があった。
こんな目を向けられるのは初めてで。
「……やはり、か。理由は知らないけれど、レイラはあの男を無意識に信頼しているようだね。それもかなり。その口振り、仕草から嫌でも分かってしまう。よりにもよって、あの男を貴方が」
「ぃやっ……でん、か」
首筋に軽く歯を立てられる。唇から僅かに開けて、ちろちろと柔らかく熱い舌が皮膚を舐めた。
喉元に食いつかんばかりに唇を這わせ、時折、歯を立てられる度に私は身を縮める。
「殿下……待って……その、私はただ」
すごく怒ってる。
私、間違えたの?
ルナの魔力が波立つ気配を感じる。ルナも何か警報を発しているくらいだ。
相当なのだ。この怒りは。精霊ですら戸惑う。
「残念だけど、レイラには近付けるつもりはないよ」
「待ってください。私は近付きたいなどとは……思っていません」
「……あの男のことを信用している癖に?」
「それは、その……」
クリムゾンは私を殺すことはないと知っている。だから……。
否定も肯定も出来ない私を、フェリクス殿下はソファの上に押し倒して、覆い被さった。
「どちらにしろ、レイラには近付けるつもりはないけど」
地を這うような低く不穏な声に、私はふるりと肩を震わせてしまう。
「レイラ、安心して。貴女には近付けさせない」
やはり、様子がおかしい。
クリムゾンが関わると、フェリクス殿下はおかしくなる。
何が彼をこうさせてしまうのか。
私が不安にさせているの?
そっと手を伸ばす。頬に手を添えて撫でる。
「ね、殿下。今日はお疲れのようですから、もう休みませんか?」
わざと明るい声を上げて微笑んだ。
フェリクス殿下は無表情だったけれど、ふいに唇の端だけを僅かに上げた。
「そうだね。今日はベッドに入ろうか」
「……はい!」
明日になって、殿下が落ち着いたら、また話し合いをしよう。
そう思っていたのに、私は何故かフェリクス殿下のベッドに運ばれていた。
そっと下ろされて、ベッドの上でペタンと座っている。
「えっ?」
フワフワのベッドの質感と、滑らかなシーツは触り心地が良かったけれど。
「何を驚いているの? 寝るんでしょ?」
「私の部屋は……ないのでしょうか?」
「レイラの部屋? 私の部屋があるのに、何故わざわざ分ける必要がある? ここなら安全だし、レイラが寝るならここしかないよね」
「ええっ! ですが」
嘘。ここで生活するの?
出勤する時も、殿下と同じベッドで目覚めるの?
彼の寝室兼自室。部屋は物凄く広いけれど、ベッドは一つしかないのに。
「何を驚いているの。私の隣は安全だって、レイラが言ったのに」
「それはそうですが……でも、これは」
さすがにないだろう。
フェリクス殿下がベッドから離れて、脇にある引き出しから何かを取り出して、窓際に置いてあった水差しを持ってやって来た。
「殿下?」
「これ、飲んで」
「っ……んっ」
彼の唇が押し付けられ、口内に含ませられたのは錠剤。
わざわざ口移しをされた。
フェリクス殿下は仄暗い瞳をしたまま、そっと私から身を離して唇を離す。
水差しから注がれたコップを手渡されて、私は言われるがまま水で錠剤を飲み込んだ。
こくん、と飲み込むまで見守ったフェリクス殿下は、コップをベッドの横の台に置くと、私の肩を押してシーツの上に押し倒した。
「きゃっ!」
背中には柔らかなベッドの感触。
覆い被さるフェリクス殿下の影。
「今、飲ませたのは、王家に伝わる避妊薬だよ」
「ひに……」
絶句した。
「今日は最後までするつもりだ」
私の頬を愛おしげに撫でる手は優しいのに、彼は妖しくうっそりと笑っている。
「あっ……あのでも明日も仕事で……」
心の準備が出来ていない私は思わず拒もうとしたけれど、相手はフェリクス殿下だ。
「ああ。レイラは有給を一度も取ったことがないんだってね。学園の管理係に打診してみたら、気遣ってくれたみたいで、とりあえずレイラは二日有給を貰った」
こうやって退路を塞ぐのは得意なのだ。
「有給って……」
「……ルナ。近くに居るのだろう? この場は私に任せて、二人だけにして欲しい」
私の影の中に居るルナに声をかける。
視界の端にルナが狼姿で礼儀正しくお座りをしているのが分かる。
『ご主人……』
本当にここを離れて良いのかと不安そうなルナの声に、私は頷いた。
「大丈夫よ、ルナ。フェリクス殿下は私に酷いことはしないもの。……だから、辺りを見回って来て欲しいの」
そう。嫌な訳では決してない。
ルナがそっと扉の隙間から部屋を出たのを確認してから殿下に伝えた。
「ルナは外に出ましたよ」
「ここまですれば、逃げる訳にもいかないよ。愛し合っている者同士が、夜こうして薄着で二人居るのに、何もない訳がない。呼んだのは私だけど、レイラは無防備な姿で私の部屋に入ってきたんだから、その意味くらいは分かるよね?」
本気なのが分かってしまった。
ただ……。
傲慢で横柄な態度を取りつつも、フェリクス殿下の目は不安で揺らいでいた。
もしかして、私に拒まれると思っているの?
嫌だなんて、思ったことないのに。
「殿下……」
「何?」
「そんなに不安そうにしないで? 私は、貴方になら何をされても良いと思っているのです。貴方だけ。この意味、お分かりですか?」
クリムゾンのことは信用しているけれど、私の唯一は貴方なのだと伝える。
伝わったら、良いのに。
手を伸ばして、首に抱きついた。
「レイラ……」
フェリクス殿下の声は熱を帯びていた。
彼の手が私のショールにかかって、それはすぐに床にぱさりと落とされた。




