111
私の不思議の国をもってしても、暗殺者は膝をつくことはしなかった。
一瞬フラフラとよろめいても、魔力で振り払い抵抗しながら立ち直り、私がまた負荷をかけて──その繰り返しだった。
そして、フェリクス殿下に強化されて加速魔術と硬化魔術をかけられた騎士たちが、疾走する暗殺者を追っていた。
屋根にひとっ飛びした暗殺者を騎士たちは気配を消して追って行く。
加速魔術があるとはいえ、私の魔術を受けた上に強化された騎士たちを相手にあそこまで動けるなんて──。
おそらく元々の運動神経が群を抜いているのだ。
私の魔術はあまり役に立っていないのだろうか?
そう思っていたら、フェリクス殿下が予想外の反応をしてきた。
「ああ……これは、すごい! 暗殺者の動きが鈍っている」
フェリクス殿下は感心したように目を丸くしていて。
視認した限りだと騎士たちから、とてつもないスピードで逃走している。
不思議の国の中に囚われているため、外界に逃げることは叶わないが、騎士たちから姿を隠そうと躍起になっていた。
隠形魔術は使えなくても広い教会の敷地内の死角へと身を隠すつもりらしい。
魔力の消費が激しいので、暗殺者の抵抗が弱まった瞬間を集中的に狙い、負荷をかけていく。
大丈夫。まだ、魔術は破られていない。
「レイラの闇の魔術は、かなりの腕だ」
なんとフェリクス殿下のお墨付きをもらったけれど、あまり実感は湧かない。
殿下が驚くからには一定量の効果を得られているのだと思うのだけど……。
「どう見ても普通に動いているように見えるのですが」
「いやいや、すごいんだよ。暗殺者の動きがここから目で捉えられている時点で、規格外。暗殺者の類は視覚に頼らないで仕留めるものだし。動きや仕草見ただけで分かった。あれは今まで見た中でも一、二を争う暗殺者だ。正直、ここまでの暗殺者を送られてくるとは思わなかった」
予想外と言いたげに彼は小さく舌打ちをした。珍しいなと思ったが、それより私は彼の発言が気になった。
「……今まで暗殺者を目にする機会が多かったのですか?」
「あっ」
マズイと言いたげな顔をして目を逸らされる。
色々と初耳なのですが。
「……まあ、今までは返り討ちにしていたし。リアムが」
王太子という身分だと何かしら狙われることもあるとは思っていたけど、どうやらフェリクス殿下は私に暗黒面を隠していたらしい。
「時折、私も捕まえていたからか、暗殺者の中では私も有名になったようだけど」
目逸らししながら、騎士の一人一人の強化を強めたりしている。
彼らが屋根に飛び移る時など、身体能力を駆使する場面になった瞬間にタイミング良く、身体能力の強化を強めたりと、細やかなサポートが行き届いている。
何がすごいって、フェリクス殿下は三十人全員のサポートをしているのだ。
私も頑張らなければ。
魔力回復薬を時折、口にしながら不思議の国の効果を切らさないように務める。
叔父様が作ったというルナの血入りのそれは、確かに体に馴染むけれど、正直追いつくものではない。
体から魔力がジリジリと奪われていく。
少しは暗殺者も魔力が消費されていやしないかと視力強化で様子を窺う。
まだ、動いてる。どうして、こんなにも効かないの?
フェリクス殿下はこれでも遅いと言うが、実感が湧かなかった。
……私は暗殺者など目にしたことがなかったのだから。基準も分からなければ、見極めることも出来なかった。
暗殺者は、周りを取り囲む騎士たちの剣が触れる前にそれらを小さなナイフ一つで全てを捌ききっている。
金属が触れる瞬間に、素早く身を屈めて騎士の懐へと飛び込みナイフを振るい、それを騎士は強化された手で受け止める。
騎士は、懐に入ってきた暗殺者の頭を剣の持ち手で殴りつけるのだが。
早い!
暗殺者は近距離の攻撃を身を捩り顔を逸らして避けると、後方へと飛びすさり、後ろの騎士の腕を蹴りつけた。
蹴り付けられた騎士は、ただでやられる訳ではなく、その足をぐっと掴むのだが、懐から新たなナイフが投擲される。
それを避けようと騎士が身を捻り、その隙をついて暗殺者は足を蹴りあげて振り払う。
「今、足に魔術が込められたね。身体強化の魔術も相当熟練度を上げているようだね」
そう言ったフェリクス殿下の体から魔力が迸る。
騎士たちにかける魔術の効果を上げたのだ。
暗殺者は大司祭がいるであろう個室への最短ルートを目指していて、それを騎士たちが阻む。
フェリクス殿下の硬化魔術がすごすぎて、切断魔術が使われても、それを弾き飛ばしてしまっているのが分かる。騎士たちへ斬り付けても硬すぎて、火花を散らして鍔迫り合いのようになるのだ。
そうして終わりの見えない攻防が続いて、どれくらい経った頃か、数十分経過した頃だろうか?
先にガタが来たのは、私だった。
「……っあ」
「レイラ!」
ふいに窓際に居た私の膝が震えて、ガクンと力が抜けた。
崩れ落ちそうになったところをフェリクス殿下の腕が支えてくれて、私はとっさに彼の腕に縋り付いた。
「長時間、魔力を使いすぎたようだね」
私の方が使い物にならなくなるなんて許されない。
大きく深呼吸を繰り返しながらも、机の上にある魔力回復薬を手に取ろうとしたら、私の手を包み込むくらい大きな手の平が薬を奪い去って、代わりに私の手をぎゅっと握った。
「……殿下?」
手の平越しに伝わってくるのはフェリクス殿下の手の温もりと、豊潤な魔力。
じわじわと手の平から魔力が徐々に伝わってくる。魔力回復薬よりも多いその量に、下がった体温が元に戻っていく。
「……これじゃあ、足りないか」
フェリクス殿下は、手の平越しに分けてくれる魔力だけじゃ足りないと思ったのか、おもむろに顔を寄せてきた。
真剣な瞳が印象的だったから、何をされるのか見当がつかなかった。
「フェリクスでん、か? ……んっ!」
唇に彼のそれが柔らかく重ねられたけど、これがただのキスじゃないとすぐに分かったのは、その魔力量。
手の平越しに伝えてきた魔力なんて目じゃないと言わんばかりに唇から魔力が供給されていく。それは、まるで直接注ぎ込まれるみたいな。
フェリクス殿下の魔力が、唇から体の中へと浸透していくのを、私の体は直接感じ取っていた。
喉が少し熱い。体がぽかぽかする。その芳醇な魔力は、まるで甘いワインを口にしたみたいな感覚で、一気に飲み下したら酔ってしまいそうな類のものだった。
驚きに彼から離れようとしたけれど、後頭部に手を添えられて唇はしっかりと合わせられていた。押し付けられたそれが離れる気配は全くなかった。
人工呼吸のように息がそっと吹き込まれて、私は繋がれたままの手を、きゅうっと握った。
繋がれた手の平からも唇からも、両方から私に魔力が供給されているようだった。
そういえば、魔力供給は粘膜越しにすると良いって話だったことを今更ながらに思い出す。
前にフェリクス殿下が魔力供給をしてくれた時は、手の平だけだったけれど。
あの時と比べると関係性も随分と変わってしまったと思う。
「…はぁ……。んっ、こんなものかな」
後頭部を支えていた手が外れ、くっ付いていた唇も離れて、思わず胸を押さえて空気を吸い込んだ。
僅かに濡れた唇を押さえながら、驚いた。
「すごい……。こんなにたくさんの魔力量……」
私が本来持っている魔力量を遥かに凌駕する量をこの一瞬で分け与えられていた。
「足りなくなったら言って。私の魔力なら心配はいらないから。量だけは多いんだ」
こんなに分け与えたというのに、眉一つ寄せることもないフェリクス殿下。
自身は魔術を行使したままだというのに、疲れる素振り一つせずに、私に多量の魔力を分け与えたのだ。
彼は私の前髪をそっと払うと、窓の外を見据える。
魔力が復活したどころか、新たに負荷をかけるくらいに魔力が増えたおかげで、こちらが優勢になった。
暗殺者の三半規管へ更なる負荷をかけたのだ。
目に見えてよろめき始めた暗殺者は、私の魔術に抵抗しようと、まず加速魔術を解いた。
「すごい。これは、追い詰めているようだ。……敵の様子が明らかにおかしい」
フェリクス殿下が騎士の加速を更に上乗せした。
そこでずっと静観していたルナがそっと口を挟んだ。
『敵の様子がおかしい。加速魔術を解いたが、魔力の塊に集中させる気配が──』
ルナはいち早く敵の動きを察していた。
「……え? …………確かに、言われてみれば。言われないと分からないレベルだけど」
私には分からなかったが、フェリクス殿下も暗殺者の細やかな魔力の動きに何か違和感を覚えていたらしい。
一瞬、何かを考え込むようにしていたが、フェリクス殿下はハッと何かに気付いた。
「レイラ! 不思議の国の空間そのものを強化して! このままだと破られる……! それに、おそらく狙いは術者であるレイラだ!」
不思議の国は、一定の空間、効果を発揮する。
つまりは、特殊な空間を作り出す魔術であるため、効果を受ける対象者──あの暗殺者にとってはいわゆる結界のような作りになって閉じ込められていた状態だった。
とはいえ、無理矢理破られてしまえば逃げられてしまう。
暗殺者が、加速魔術を解いた魔力の余剰分が何に使われるかなんて明白だった。
「は、はい!」
私は慌てて返事をする。
暗殺者は最大限の魔力の塊を生成していた。
それは魔術も何もなく、純粋な魔力の塊だった。
不思議の国と外界の境目の部分に、それを思い切りぶつけた瞬間、ぴしっと空中にヒビが入って、不思議の国の空間がそのまま無理矢理、破壊されたのだけど──。
「半径一キロメートルで作ります!」
フェリクス殿下が私にくれたたくさんの魔力を使い、私は新たな不思議の国を発動していた。
無茶苦茶に範囲を広げた状態で。
再びかけられた魔術。
ホッと息をついた私だったが、フェリクス殿下が警戒心顕に目を細めていた。
「どうやらレイラの魔術が相当、邪魔だったらしい。術者をどうにかしようとこちらの方向へ向かっている。魔力反応が近付く気配がある」
暗殺者は逃げるために不思議の国の空間を破壊した訳ではなく、私をどうにかしようと脱出しようとしたらしい。
「リアム。行ってくれ」
フェリクス殿下は、護衛に命令を下した。
「御意! 軽く遊んできまーす!」
どこからか現れて、いつの間にか背後に立っていたリアム様は軽い調子でそう言うと、窓から飛び出して行った。
『ここ三階なのだが……あの男、魔術で強化せずに飛び降りたぞ……?』
素の運動神経が並外れていて、やはりリアムは忍者のようにしか見えなかった。




