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今日も学会だという叔父様を送り出し、医務室内を隈なく掃除し、使い終わった雑巾を干して魔術で乾燥させ、シーツなどの除菌を済ませ、届いていた手紙を開封し……と体に染み付いた業務をこなしながらも、内心私はパニックに陥っていた。
私は! なんということを!
気分的には、床の上でゴロゴロ転がって悶絶したかったが、長年の淑女教育を真面目にこなしていた身として、それは出来ない。
「うう……ぁあもう」
などと呻き声を上げることしか出来ない。
原因?
それは、昨夜のこと。女子職員寮の自室でフェリクス殿下に対してやらかした案件である。
確かに大分参っていた。
色々と混乱していたし、フェリクス殿下が純粋に心配して来てくれたことは嬉しかったから、感極まってしまったのだと思う。
だけど。
「あれはナイ。あれはない……!」
有り体に言ってやらかした。
次の日になって正気に戻って、絶望した。
私は何をやらかしたのだと!
酒に酔ってやらかしたとかではないので、記憶は鮮明。
尚更辛い。
なんで昨日、私はあんな……! あんなことを!
自分からキスした挙句、何、強請ったりしちゃってるの!!
「……ああ…………うう」
『ご主人、そろそろ切り替えた方が良いぞ。そろそろ授業も始まる時刻。ここに誰かが来ることだって有り得るのだ』
ソファに座り、顔を覆う私の腕をポスポスと叩くルナの手。
「分かってる……。分かってるんだけど……うぅ」
『やらない後悔より、やる後悔などとはよく言ったものだが』
「やらなければ良かった! ……うう」
先程からエンドレス。
自分のやらかし具合に頭を打ち付けたくなった刹那。
『む?』
ルナの耳が何かに反応した。
「どうしたの? ルナ……って、いつの間に」
『レディ。何だか珍しく狼狽しておりますね』
空間から転移して来たらしいアビスが、私たちから机を挟んで向かいのソファの上で丸まっていた。
神出鬼没だ。
『密告ですよ。例の定期連絡です』
アビスは机の上をわざわざ歩いて来て、私の目の前で軽やかにしっぽを振った。
「何か、起こるの?」
『これから起ころうとしている事件は二つ。魔獣召喚と、それに伴うあるターゲットの殺害です。狙われる予定のターゲットは大物です。最近調子に乗って──こほん。幅を効かせて神の道を外れてしまっております故。あの男──我が主の主人が邪魔だからと消すようにと、我が主に手配を頼みました。そのついでにあの男はその死体を再利用する気でいます』
あの男。クリムゾンの主のことだ。どうやらその口振りから、アビスはあの男とやらを敵視していることが分かる。
「クリムゾンは、そのターゲットを殺させるつもりなどないのね?」
彼が人身売買に関わっていることは知っている。彼の主に命令されて、さらにターゲットの死体は商品にするつもりだということも分かった。
私は彼が人身売買をしてきたことを知っている。
何故此度の殺人だけは防ごうとしているのか疑問を抱きはするが、今回のクリムゾンが殺人を防ごうとしていることは事実だ。
協力することに異存はなかった。
『実は今回、あの男が命令して失敗することに意味を見出しています。完璧な計画が破綻するという初めての事例。つまり、あの男はこれから先、慎重に動かざるを得なくなります』
慎重に動く。つまりは、人体実験や魔獣召喚のことだろう。
完璧に遂行されるはずの殺人が先回って対処されていれば、一連の事件の黒幕も、警戒態勢を取らざるを得ない。
「つまり、活発化した動きを抑えるべく牽制するってこと?」
『さすがレディ。話が早いですね。我が主が手配した殺人依頼なので、どこで誰が殺されるのか寸分の狂いなく伝えることが出来ます』
自分が依頼した殺人を、別の誰かに止めてもらう。なんて回りくどいのだろうか。
ならば、最初から依頼しなければ良いのだろうが、そう簡単な話でもないようだ。
どうやらクリムゾンはその主とやらに逆らうことが出来ない?
わざわざこうやって密告する形を取ることしか出来ない?
「……分かった。私からフェリクス殿下と王立騎士団へ秘密裏に連絡をしてみるわ」
『王太子に情報を伝えるのは良いですが、王立騎士団の上級騎士は駄目です。伝えるのなら、近衛騎士にしていただければと』
そこでルナが口を挟んだ。
『随分と、細かい指定だな。どうやらギリギリの綱渡りをしているように見えるが。連絡手段が精霊を通してというのもきな臭い』
ルナの言う通り、聞けば聞く程、クリムゾンの状況が分からない。
だから得体の知れない不安が込み上げてくる。
「クリムゾンは、大丈夫なの?」
『レディが心配してくれていたと知れば、我が主は飛び上がって喜ぶことでしょう』
「また大袈裟な」
『事実ですのに……。まあ、とにもかくにも、我が主が精霊持ちだというのはレディしか知らない事実ですので。ワタクシがメッセンジャーになるのが一番都合が良いのです』
そう言ったアビスは私の座っているソファの背へ器用によじ登ると、私の耳元でヒソヒソと用件を伝えた。
「え!?」
『驚いたでしょう? 此度のターゲット。人は見かけに寄らないという見本です』
恐ろしい情報を言って、去って行ったアビス。
フェリクス殿下への羞恥心など吹っ飛んだ。
この情報を一刻も早く、フェリクス殿下に伝えなければいけない。
「ルナ。私、フェリクス殿下のところへ行かなくちゃ」
『……いや、その必要はないようだぞ』
「え?」
コンコン、と朝一番のノック。
いや、まさかこんな朝早くにそれは……と思っていたが、ルナは『やれやれ。朝から熱心なことだ』と首を振りながら、私の影へと入って行った。
コンコン。もう一度ノックされて、慌てて私は扉に手を伸ばした。
「はい、今、扉を開けます」
ガチャリとドアを開けると、そこに立っていたのは、タイミングの良いことにフェリクス殿下その人だった。
「……おはよう。レイラ」
昨日の今日で少し、照れたように微笑みながらも、彼の視線は私に真っ直ぐ注がれている。
「フェリクス殿下……」
私は昨日から引き摺っていた羞恥心など何処へやら、フェリクス殿下へと助けを求めるように縋る目を向ける。
それを見たフェリクス殿下は何故か、目の奥に熱が宿すと、私にそっと手を伸ばして、そのまま抱き締めてくる。
絡み付く腕には、離したくないという確かな意思があって。
ふわりと昨日ぶりの彼の香りに包まれて、私は顔が熱くなった。
え? 何故!?
「……どうしたの?そんな可愛い顔して」
ひえっ! か、可愛い!?
突然の甘々な態度にキャパオーバーを迎えそうになったが、それどころではないと私は気を取り直した。
腕の中から何とか藻掻いて抜け出す。
「あの……相談事があるのです! それも、国に関わるような重大な案件かと!」
「え?」
私の必死さにフェリクス殿下は目をパチクリさせていた。
どうやら、重要事のようだと察したフェリクス殿下は、腕の中に抱き込んでいた私を離すと、表情を真剣なものへと切り替えた。
「何があったの?」
医務室へと入ってもらい、どうしたものかと逡巡していれば。
「その話、俺も聞いて良い話っすか?」
突然、フェリクス殿下以外の声。
「え?」
今、どこから現れたの!?
『ほう。この隠形魔術ならば、紅の男にも見破られない程だろう』
フェリクス殿下のすぐ横には、茶髪で童顔の青年が立っていた。
私たちよりも年上なのは確かだけど、年齢が分からない。
「今日ここに来たのは、紹介しようと思ったからなんだ。前に言ってた護衛の件。昔から私の護衛をしてくれているリアムだ。信頼出来る者だと思ってくれて良い」
フェリクス殿下に紹介され、リアムという護衛の青年は、人好きのする明るい笑顔で挨拶してくれた。
「お初にお目にかかりまーす! リアムっす。王太子の護衛やってます! 情勢が悪化してるんで、最近は学園内でも張り付いてまっす」
ビシッとポーズを決めている少年を見て、思う。
「今まで、リアム様の姿を見たことがないのですが……。ええっと」
その疑問には、フェリクス殿下が説明してくれた。
「リアムは隠形魔術が得意なんだ。彼が本気で隠れたら私ですら分からない。いわゆる特化型というやつかな? 魔力属性は風でね、遠くから音を拾ったりするのも得意だから護衛にぴったりなんだ」
忍者みたいだなあ。
なるほど、フェリクス殿下にも分からないなら、私に分かるはずがない。
「いやー。最近の殿下はレイラ嬢のおかげで表情がクルクル変わって楽しいっすね! 殿下、殿下! この子のことっすよね? 監禁したい子って」
「ちょっと色々と語弊があるから止めようか? というか、何故そこだけ切り取った? 誤解されるから止めてくれないか? 厳密に言えば、レイラが、貸してくれた小説に、出てくる、監禁男の話だ。私が、監禁するとは、一言も! 言ってない!」
一言ずつ区切りながら強調するフェリクス殿下。
「あらら。必死っすねー。もしかして図星ってこと?」
はははーと笑うリアム様にルナが一言。
『王太子はそういう星の元に生まれたのだろうか。いわゆる、苦労の星の元に』
嫌すぎる星だと思った。
「もう良いから! とにかくレイラの話を聞こう。一大事なのだろう? それはリアムが聞いても良い話?」
「もちろんです。護衛の方ですし、フェリクス殿下が信用されている方ですから」
とにかく、フェリクス殿下が信用する護衛なら、彼にも話しておくべきだ。
先程得た情報を伝えるべく、私は彼らに向き直った。




