フェリクス殿下の見解
それは、学園の医務室のある部屋でフェリクスたちがレイラに事情を説明した日。
直後に彼女が突如、体調不良で気分を悪くしたため、ルナに医務室から出るようにと頼まれてから、少し後の時刻のこと。
カツンカツン、と硬質な靴音が地下への階段に木霊する。
地上よりもひんやりとした空気の中、フェリクスが階段を下る度に、石の壁に取り付けられていた燭台に火が灯っていく。
「……はぁ」
自分の溜息が地下への階段に響き渡って、最後の階段を下りて、看守に黙礼をされて見送られた。
フェリクスが扉の前に立つと解錠魔術が発動して、ガチャンと音を立てて鍵が開く音がした。
何重にもかけられた扉を開けて、迷いなく地下牢の無機質な通路を早足で歩き、目的の扉の前で足を止めた。
「フェリクス殿下、どうぞ。鍵は開いておりますよ」
こちらが何かを言う前に、のんびりとした優男風の声。
「ヴィヴィアンヌ医務官、進捗は?」
扉を開けて後ろで閉めながら問いかけると、そこは一つの部屋に、一つの牢屋だけがあるこじんまりとした部屋だった。
部屋の真ん中に作業台のようなものがあり、部屋の半分は牢屋。
その中には貴族の男がベッドに辿り着く前に力尽きたような体勢で眠っていた。
前に捕まえた、魔獣召喚に関わり、人体実験で術式を体に施されていた男。
レイラの頬を傷付けて、ここ実験室兼収容室に連れられた男でもある。
あれから長い間、ここで実験台として利用されることになっていた。
牢屋の中にはあらゆる生活必需品が取り除かれていて、地面にはたくさんの流血。ベッドも血塗れ。壁にもたくさんの赤い手形。
その悲惨さに眉を僅かに潜めたが、レイラの叔父であるセオドアは、苦笑するだけだ。
「拷問は僕の管轄外なので。この血は全部、発狂が原因の自傷の痕です。ある程度耐性があるのか、普通の自白剤を使っても、拷問しても吐かないらしいですよ。僕はまあ、新薬の実験に使えれば一向に構わないのですが」
「いくら何でも流血しすぎじゃないか?」
壁一面が血に染まり、猟奇殺人事件の様相となっている。
「新薬実験のせいで何度か発狂してしまい、このように。まあ、精神面も肉体的損傷も最終的に治しますし、手と足と顔が付いているなら問題ないかと」
そんなことをセオドアは、鼻歌でも奏でそうなくらい平然とした様子で宣った。
「…………」
──うわぁ……。完全に狂科学者の発想……。
少し、いや、大分理解出来ない感性だ。
──いや、まああの時引き渡したのは私だけどね。それでも……これは。
ドン引きしていたフェリクスに気付いたのか、セオドアは笑って誤魔化した。
「はは、さすがの僕も善良な市民にこんなことをしたら良心が痛みますよ」
当たり前だ。
天才タイプの狂科学者から、理性やモラル、常識などを取っ払えば、犯罪者になるのは間違いない。
彼らのとめどない好奇心を押さえ付け、こちら側に引き止めているのは、強靭な理性だ。
こうして、もっともな理由を与えてしまえば、結果はご覧の通り。
──まあ、これでもヴィヴィアンヌ医務官は、公私はしっかり分けていると思うし……。待った。…………本当にそうなのだろうか……?
少しフェリクスは不安になったが、とりあえずそういうことにしておこう。
「レイラには内密にしてくださいね。本気で軽蔑されてしまうので。ほら、あの子は良識的ですから。今日も学会と言って出てきたくらいですし」
「レイラ……」
ここに来る前の彼女の様子を思い出す。
明らかに様子がおかしかったのは、フェリクスが見たあの光景と関係があったりするのだろうか?
フェリクスは、魔術で彼女の記憶を読み取ることに失敗した。
干渉しようとして、例の契約魔術により反射されたからだ。
だが、ただ失敗した訳ではなく、思わぬ副産物があった。
もちろん、フェリクスも人のプライバシーを覗くのはどうかと思っていて、本当に不本意だったのだけど。
頭の中へ流れ込んで来たのは、おそらくレイラの記憶。
暗闇。視界には何もない。どこかに閉じ込められているような、まさしくこの地下牢のような闇の中。数人がかりで責め苛まれ、ひたすら『死ね』と連呼される記憶。
さらに断片的におぞましい暴力を垣間見た。
人が思いつく限りの悪意が凝縮されたような。
貞操以外、全て守れなかったという独白が哀しい。人間らしい感情も、希望も、絶望という感情も何もかも少女は持っていない。
それは人の尊厳やプライドを踏み躙る行為だ。痛みは熱さとなり、あまりの暴力により、精神が死にかける。
諦念と屈辱と、そして虚無。
そうして、最後は少女の慟哭らしき声。
聞こえてくるのではなくて、『私』が叫んでいる。
『──ルナ! るな、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!』
狂ったように謝り続け、最終的には黒々とした怒りに塗り潰される。
『殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!! あの子を殺した報いを受けさせてやる!!』
そこまで視たところで、フェリクスは弾かれたようにレイラから手を離したのだ。
──これは、どういうことだ? ルナ? あの、ルナか? 苛まれる記憶はレイラのもの?
この魔術は、本人の記憶を探るものだ。
本人が見たもの、聞いたもの、そして何を発言したのかを感覚共有するもの。
だから誰か他の記憶と混同するなど有り得ない。
──あの少女は、レイラだ。
声はぼんやりとしていて判別がつかないが、それは確実だった。
茫然自失状態に陥り、レイラに声をかけられるまでフェリクスは硬直してしまった。
長年の王太子としての教育のおかげか、なんとかその場を取り繕ったものの、頭には垣間見た記憶が焼き付いてしまっていた。
──レイラが、人を信じられないのもあの記憶のせいか?
だが、おかしい。彼女は伯爵令嬢として育って来て、あのような目に遭う機会など一度もなかった。
──夢? いや、夢があんなにも鮮明な訳がない……。
だが、レイラがあのような経験をするのは有り得ない。それは彼の父のヴィヴィアンヌ侯爵が証明している。
ただ、レイラは昔から聡明で大人びた子だったと……。
ふと、王家秘蔵の古くから伝わる書の中にある、ある記述を思い出した。
──転生。孤独な非業の死を遂げた者は、精霊の慈悲により、再びこの世に生まれ出る権利を持つ……だったか。ごく稀に記憶を受け継ぐこともあるとか。確か、過去の記録にそのような前世持ちの人間の記録がいくつかあった。
実際、この時代で、過去にあったという失われた魔術を使う者も居たのだから、前世の記憶を持って生まれることは全く有り得ない訳ではなかった。
──レイラが? 孤独に死んだ? あれが前世の記憶?
フェリクスは茫然自失状態に陥った際、頭の中で急速回転してそこまで答えを導き出していた。
そうして、レイラを医務室に残して、諸々の執務や授業を適当にこなしている間、フェリクスはレイラの過去の姿を思い出していたのだ。
──あの時も……、あの時も? 本当は怖がっていた?
告白をしてくれたあの日、レイラは言った。
『私は貴方に相応しくない』と。
過去の、それも前世の記憶とはいえ、それを知らなかった挙句に、レイラにその言葉を言わせてしまったことが悔やまれた。
同時にブレインの言葉が思い出された。
『貴方にレイラを理解出来るはずがない』
それは、理解者か何かのような発言だった。
──人間不信……か。最近、よく聞く言葉だな。
そんなレイラがフェリクスに告白をしてくれた。それは、彼女にとってどれ程の勇気を要したのだろうか?
あそこまでレイラが狼狽していたのも、ただ恥ずかしいからという理由ではなかった。
レイラの想いに打ちのめされた。
レイラの言う『好き』は彼女にとって、想像以上に重い一言だったのだ。
無理矢理迫っていた自分は、結果的に彼女を追い詰めていたのでは? サーっと顔から血が引いていくようだった。
とにかくフェリクスが出来ることは、今回の記憶を見なかったことにすること、今まで通り彼女と接することのみだ。
彼女のためを思うなら、いたずらにこれらの記憶を掘り起こしてはいけない。
だけど、心配はどうやっても消えない。
レイラがあれからどうしているか、気になって仕方ない。ならば……話は簡単だ。
──今日、レイラに連絡してみようかな。
落ち着いた頃に、彼女の声を聞けば良いのだ。
さり気なく聞けたら、それが一番だ。
──うん。そうしよう。昼間調子が良くなかった婚約者を心配するのは当たり前だよね。
レイラがくれた指輪にそっと触れながら決意していれば。
「フェリクス殿下?」
「え? ……あ」
レイラの叔父のセオドアがフェリクスの肩を揺さぶっていた。
深い思考の渦に囚われていたようだ。
「先程から声をかけていたのですが、何やら考えごとをされているようで……。失礼ながらも、肩を揺さぶらせていただきました」
「あ、ああ……すまない」
動揺しきったまま、彼から自然と目を逸らした。
「フェリクス殿下、うちのレイラがどうかいたしましたか?」
「ああ。うん。少し体調不良のようだったから、心配で」
「レイラが? ふむ。ならば最近開発した秘薬級の体力回復薬を! あの効能は素晴らしいから、是非レイラにも──」
「あー。うん。そこまで酷い訳ではなかったかな?」
秘薬級とかいうと不安になる。
「もしかして効能に不安でもありますか? ふっふふー! 今回のは完璧です! 飲むだけで気付け薬にもなりますし、実際体力回復も驚異的なんです! まあ、副作用で多少ハイになりますが、それは微々たること」
「レイラの黒歴史になったら可哀想だから、婚約者として全力で止めさせてもらおうかな、うん」
何か危険な香りがするので、レイラに飲ませるのは嫌だ。
──そもそも、多少ハイって何? 多少って。
コホン、と咳払いをして無理矢理、本題に入る。
「それで、なんだっけ。新薬研究してたら、強力な自白剤が出来たんだっけ?」
「そうなんです。これは、新事実が判明するかと思いまして、こうして担当の者をお呼びした次第です」
「……うん。なんとなく理由が分かったような気がする」
フェリクスのような上の立場の者に、直接新たな情報とやらを聞かせて、書類仕事を省略しようという腹だ。
──厄介な書類仕事をしていれば、研究する時間が減るからね。彼らしいと言ったら彼らしい。
「では準備は出来ておりますので!」
どうしてこの男は目をキラッキラさせているのだろうか。
レイラの周りに居る男は異質すぎるというか、濃いというか。
ちなみに自白剤はエグかった。
精神崩壊の間際をフラフラ彷徨い、発狂しかけて、ひたすら恐怖に喘いでいた。
一つ思った。これは自白剤ではない。
「正気になる一瞬があるので、そこを狙うという、そういう手法の薬です」
「そ、そうなんだ……へぇ」
まともに反応が出来なかったのは仕方ないと思う。
確かにレイラにこれを知られるのは、ちょっとアレだ。
そして、新たな事実が判明した。
「なるほど、貴族の男だというのに、牢屋に入れても誰も訴えなかった理由が分かりました。この男、罪人だったのですね。むしろ持て余していたと。哀しいですね。消えても誰も捜索届を出さなかったんですよ」
「強姦致死罪だからね。申し開きも何もないだろう。……実験に選ばれたこの男が罪人だったことに、何か意味はあるのだろうか?」
捜索届を出されなかったことに意味がある?
それとも罪人だということに意味がある?
どちらとも取れるからこそ、捜査方針に悩んでしまう。
とりあえず言えるのは、この貴族の男が罪人であるという情報がまだ出回っていないということ。おそらく身内以外は、この男の罪を知らない。
つまり、この男を実験台にしようとした黒幕は、情報が出回る前に、罪人だと予め知っていたことになる。
「早すぎる情報網だな。やはり、黒幕は高位の貴族に違いない……かな」
フェリクスがそう呟いたところで。
ガシャン!と鉄格子に体当たりした男はまた牢屋の中で発狂し始めていた。
これはちょうど、フェリクスがレイラの元へ訪れる少し前の時刻の出来事である。




