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ある子爵令嬢の一人言

 突然だが、わたしの家は、魔術師の家系として少しだけ有名な子爵家だった。


 と言っても、高位の貴族たちのように大きな影響を与える訳ではなく、ひっそりとやって来た魔術師の家だった。


 そんな子爵家は、魔術で更なる繁栄を望んでいて、光の魔力の持ち主であるリーリエ=ジュエルムと懇意にしたいと考えるのも当たり前の帰結だった。


 リーリエ=ジュエル厶と懇意にしろと、父は言う。

 王太子のフェリクス殿下や側近の皆様、ご学友の皆様に守られていた頃のリーリエ様には近付けなかったのだけれど、気付けば状況は二転三転して、リーリエ様は、今では騎士の皆様に監視されるまでになった。

 リーリエ様とフェリクス殿下との噂は眉唾だったし、かの王太子は、レイラ=ヴィヴィアンヌ侯爵令嬢と正式に婚約を交わした。

 リーリエ様がフェリクス殿下を慕っているのは有名な話だが、今の状況を見れば、彼女に勝機などないことは分かる。

 リーリエ様に関わったら、ろくなことにならないと思っていたのだ。



 レイラ様がマナーの講師として臨時講師を勤めるらしいと聞いた時、わたしの一族は、わたしに頼んだのだ。



 レイラ様に大恥をかかせるつもりでやれ、と。



 別にレイラ様に大恥をかかせたからって何の問題もない。

 ようするに、レイラ様に危害を加えることにより、リーリエ様の関心を引き、恩恵に預かりたいと思っているだけなのだ。

 だから、マナー講師を勤めるレイラ様を軽い魔術で転ばせる程度の嫌がらせを行え、とそういう訳だった。



 正直言って、あのリーリエ様にそんな政治の機微が分かる訳がないし、そうしたところで我が子爵家が贔屓にされるとも私は思っていない。

 リーリエ様は、自分のことしか考えていない。


 だけど、もしこれを断ったら父が直々に動いて、レイラ様に余計に迷惑がかかることは分かっていた。


 正直、気は進まない。



 筆記試験前、愚かにも体調を崩して医務室に運ばれたわたしに、レイラ様は。

『終わったら睡眠は必須ですよ』

 魔法薬で一時的な気休めとはいえ、ある程度は問題を解けるくらいには回復させてくれて、ベッドの上で筆記試験を受けられるように取り計らってくれた。

 今までの努力が無に帰すことがなかったというだけで泣きそうになった。

 恐らく皆そうだったはずだった。

 初めての試験で張り切りすぎたのだ。


 彼女は医務室勤務の者として対応してくれたに過ぎない。

 けれど、細やかな気配りと優しげで少し困ったような声音や、差し入れてくれた温かい薬湯。それらは、彼女の月のような穏やかな人柄を察するには十分過ぎた。


 あの時から、わたしは密かにレイラ様に憧れていたというのに、どうして嫌がらせをしなければならないのかと絶望していた。

 どうせリーリエ様は何も分からないのに。

 光の魔力なんて、そんな恩恵受けられると思うの?


 高位の貴族令嬢を除いた、わたしのような子爵家令嬢や、男爵家令嬢などが集められたマナーの授業。

 リーリエ様も参加していたが、首に嵌められた枷は解かれることなく、騎士たちもすぐ隣に居たし、彼女の周りだけ異様な雰囲気なのは変わらない。

 かなり浮いていた彼女だが、レイラ様を不遜にもジトーっと睨みつけているのが余計に拍車をかけている。主にダメさ加減に。


 マナー講師として、教壇に立ったレイラ様は相変わらず美しい姿勢で立っていて、どこか凛とした雰囲気に生唾を飲み込んだ

 フェリクス殿下に愛されているのだろうか?

 十五歳だというのに、女性の匂い立つ色気のようなものが、ほんのりと感じられてドキドキした。


 基本的な貴族令嬢としての嗜みや、カーテシーなどの実地的な内容だったりと、基本的なマナーを復習しつつも、ワンランク上を目指すような内容の授業。

 講義形式と実技形式を織り交ぜた内容の授業は、こちらの体力と集中力にまで配慮されていて、さすが医療従事者だと感服されられた。

 実技形式の折も彼女が近くを通る度、彼女本来の香りなのか、ほんのりと良い香りがして同じ女性ながらも緊張してしまった。

 眼鏡をかけているせいか、落ち着いた雰囲気に見えるけれど、一目見て素顔は美人なのだと分かる。

 何故、眼鏡をしているのだろう?


 ふと集中が切れかけた時に体が変な方向へ傾いた時も、レイラ様のほっそりとした指がそっと添えられる。

 そういう軽い接触の時も緊張する。


 ああ。それにしても、令嬢はけっこう筋肉を必要とするなあとマナーを勉強をしていると常々思う。

 レイラ様も見た目は楚々としているけれど、かなり体を鍛えているのだろうと思う。


 ああ。嫌だなあと思いつつ、父の念話がさっきから煩い。

 ヴィヴィアンヌ侯爵家に手を出すと言っている。

 たぶん手を出したところで侯爵家にとっては痛くも痒くもないのだろうけど、余計に煩わしいことになって迷惑をかけるくらいなら、とわたしは覚悟を決めることにした。


 わたしの使った魔術による嫌がらせは単純なものだった。

 風の魔術でレイラ様を転ばせ、眼鏡を吹き飛ばすという。



 結果としては、失敗に終わった。


 レイラ様の足元を狙ったのだが、何故かスラリと避けられた。

 まるで、何者かに教えてもらったかのように。

 恐らく相当な使い手なのだろう。

 こちらの気配を察してすらいるのかも。


 そして、眼鏡を吹き飛ばした嫌がらせだったが……。動揺から手元が狂い、彼女の填めていた指輪までもがその場に転がった。


 コロンと指輪が地面に転がり。とカツン、と音がしてレイラ様の眼鏡が床に落ちて、彼女の素顔が顕になった瞬間、彼女が何故眼鏡をかけていたのか、その理由を知った。



 ああ。これは、素顔を見られたら駄目だ。

 まるで、月の女神だった。

 眼鏡で素顔を隠していたのは、そのためなのか。

 女神が人間に擬態するように。


 言わば彼女は静謐な空気を纏う、まるで月の光そのもののような人だ。

 神秘的な色合いを持つ紫の瞳を、眼鏡越しではなくて直に見てしまった私は硬直してしまった。

 何でも見透かしそうな瞳は、吸い込まれそうな程に綺麗で、透き通っていた。


 吹き飛ばされた眼鏡が床に落ち、彼女はほんの一瞬、驚いたような色を浮かべたけれど、それはすぐさま常の穏やかな淑女の微笑みで覆い隠される。


 レイラ様の耳の奥に残るような、こちらも透き通った綺麗な声がこの場に響き渡る。


 この場に居る者は皆、圧倒されていて、しんと静まり返っていた。

 唯一、リーリエ様だけが「眼鏡を吹き飛ばされるなんて、淑女としてなってないよ?」などと意味の分からないことを言っていたが。

 そういうことじゃないと思う。

 とにかく何か瑕疵を見つけたかったのかもしれない……。

 リーリエ様は、レイラ様を睨み付けることばかり一生懸命で、もっと真面目にやれば良いのにと思った。

 ライバルに教えられるのが気に食わないとか?

 何で、リーリエ様に与しなきゃいけないのかと本気で悩んだ。


「床に落ちたものを拾うのは、はしたないと言いますけれど──」


 レイラ様はそう口にしたけれど、姿勢を正したまま、そっと眼鏡の横に移動すると、自然に腰を落として綺麗な姿勢を保ったまま、流れる仕草で指輪と眼鏡を拾い上げた。

 指先から足先まで行き届いている動き。拾う時に指先の動きも洗練されていたし、視線の落とし方も美しい。


 マナー講師に普通は、物を拾うという仕草は習わないし、高貴なる令嬢としては有り得ない光景ではあった。

 普通はそれを拾う誰かが居るはずで、自ら拾わないからだ。


 レイラ様は優雅に微笑みながら続けた。


「どなたかに拾っていただく前に、思わず自分で拾う程の大切なもの……高貴な令嬢にもそういったものはあると思うのです。教本には載っていませんが……姿勢など基礎の応用をしてしまえば、このように物を拾う時もそれなりに様になって見えたりします。ふふ、思わず体が動いてしまったのだから仕方ないですよね?」


 レイラ様は、指輪を大切そうに填めてそっと撫でた。

 ちょっとおどけたようなレイラ様は、可愛らしく微笑んでいる。


 マナー講師としては規格外の行動だったというのに。

 普段から美しい物腰を意識して、それを体に刷り込んでいた彼女だからこそ、ここまで美しく見えたのだろう。……どんな動きをしたとしても。

 基礎をしっかりと体に教え込めば、どんな行動も美しく見える。

 ここに居た令嬢たちは皆、基礎の大切さを身をもって知ったに違いない。


 そうだ。どんな立場の貴族だとしても、皆人間。教本通りの動きをするだけの人間なんて居ないのだ。


 レイラ様のつけている指輪は、噂ではフェリクス殿下とお揃いだと聞いている。

 普段は業務上、それを填めていないらしいけれど。

 フェリクス殿下が贈ったらしいとも、レイラ様が作って贈ったらしいとも言われていて、真実は分からないけれど。

 あれはレイラ様にとって、どういう品なのだろう?

 悪戯めいた年相応にも見える表情で、「秘密にしてください」と密かに微笑むレイラ様にとって、とても大切なものなのは確か。

 それを吹き飛ばしてしまった女が言うことでもないけれど。


 リーリエ様に取り入ろうとする父について、誰かに密告でもしてやろうかと、この時私は思っていたのだった。


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