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「今夜はこの辺りでお暇しましょうか。それでは、また会いましょう、レイラ」
フェリクス殿下の存在をわざと無視して、私だけに別れの挨拶をしたクリムゾン。
横で青筋を浮かべているフェリクス殿下が目に入らないのか。
去り際に、クリムゾンは私に謝った。
「色々なことを言いはしましたが、泣かせてしまったことは反省しています。いつも言っている通り、貴女には危害を加えるつもりはないですし、貴女を裏切らない相手は俺だけです」
それをフェリクス殿下の前であえて言う。
その後に付け加えるように、フェリクス殿下にぽそりとこんなことを言う。
「今の俺の言葉の意味は何なのか、とかレイラに問い詰め始めたら、貴方の懐の大きさが知れますよ、殿下」
「ご忠告どうも。分かったから、さっさとどこへなりとも去れば良い」
フェリクス殿下は満面の笑みで返していたが、目は笑っていなかった。
フェリクス殿下は屋敷の客室を借りて私をそこへ連れて行ってくれた。
部屋を借りて、私がまずしたのは、洗面所で口をゆすぐことだった。
血の味が口の中を占めているせいで、嫌でもあの時の出来事を思い出してしまう。
何度すすいでも、自分が既に穢されてしまったような気がしてならない。
裏切りの証が消えそうもない。
ついでにナイトドレスに着替えてから、フラフラと洗面所から出てきた私をフェリクス殿下は柔らかなソファへと座らせて、自分もその隣へと腰掛けた。
「レイラ。心配しなくても良い。貴女の名誉に瑕疵はないし、婚約発表も一応終えた。貴族たちはレイラに同情的だったし、本当に気にすることはないんだよ」
私を慰めているようでいて、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
気落ちした様子にも見えるし、静かに激怒しているようにも見える。
その怒りの矛先は……どこなの?
「……はい。色々とご迷惑をおかけしました。あの、私が居る場所にどうやって……?」
俯く私を気遣い、目線を逸らしてくれていた殿下は、大まかに説明してくれた。
曰く、最近多くなった事件発生を少しでも予防するために、国庫から予算を割いて、魔力反応記録用魔具を各地に設置するという事業を行っていたらしい。
前世で言う監視カメラの魔力版。
何かと狙われやすい貴族たちの屋敷にも設置され、どうやらここにも設置されているとか。
国王が行っていたその事業の手伝いとして駆り出されていたフェリクス殿下は、もしものために遠隔操作を習得していたらしい。
携帯用の遠隔操作用魔道具と魔力を繋ぎ、反応を見ていたらしい。本来ならまとめて行うのは魔力が大量に消費されるのだが、大きな魔力を持つフェリクス殿下は特別だった。
途中から魔力を封じられていた私を見つけられたのも、直近の記録が残っていたから。そういう理由だったのだ。
「私が入った時、レイラは拘束されていなかったけど、本当は魔力を封じられていたんだよね? レイラの魔力は知ってるから。記録を辿っていって、直近の魔力があの場所だったんだ」
「……ご存知だったんですね」
膝の上にあった手に重なる彼の手は労るように触れながらも、徐々に指を絡めていく。
「時間がかかってしまって、ごめんね」
フェリクス殿下が謝ることではないのに。
それに、殿下はどうして……?
「…………何もお聞きにならないのですか?」
彼が息を飲む気配。
確実に何かあったであろう私に彼は何も聞かない。
「レイラ、こっち向いて」
「……?」
ふと顔を上げた瞬間、頬を暖かな手が両手で包み込んだ。
何か思い悩むように苦々しげな表情の彼が、顔を傾けて、私へと顔を近付ける。
吐息が触れて、お互いの唇が触れそうになった瞬間、私は冷たい唇の感触と鉄錆の味が蘇った。
「やっ……」
なんとなく、顔を逸らした。
相手はフェリクス殿下で、他の男と触れ合う訳ではないと頭では分かっていたのに、私は理由も分からないまま、彼の胸を押し退けていた。
俯いた私に、フェリクス殿下は地を這うような低い声で問いかける。
「……つまりは、あの男とそういうことがあったんだろう?」
「……っ」
顔を上げられなくなった。フェリクス殿下が冷たい目で私を見ていたら?
興味なさそうに無感情に見つめられたら?
「レイラ。……伝えたいことがあるんだ」
気持ちを押し隠したような淡々とした声に、私は怖くなった。
「……?」
おそるおそる顔を上げて、横の髪を耳にかけた。
そして、やっぱり俯いてしまう。
殿下が私をどういう視線で見ているのか、答えを得てしまうのが怖くて仕方なかった。
話があると言ったっきり、黙り込んでしまった。
「…………」
「……あの?」
沈黙。フェリクス殿下は、何かを言おうとして、言いあぐねるように口を閉ざしてしまった。
「……」
何を言えば良いの?どうしたのか私が聞ける立場?
いや、何も言えない。
相変わらず狡い私。
上手く会話が出来ないのが、もどかしかった。
だけど、言う時に言えなければ、取り返しのつかないことになると私は身をもって学んだ。
ぎゅっと、膝の上で手を握り締め、素材の良いナイトドレスに少し皺が寄ってしまった。
膝の上の手をじっと眺めながら、唇を噛み締める。
私が出来るのは限られているんだ。
思っていたことを、口にしていくことくらいしか出来ないのだ。ならばと、まずは私から伝えることにした。
「……こんなこと私が言う資格は、ないと思うのですが……。1つ、分かりました。わたし……私は、貴方でないと駄目なのだと。昔、政略結婚だって当然するものだと思っていたのに。貴方以外に触れられるのが、こんなに嫌だったなんて」
好きな人に触れられて、愛されることを知ってしまえば、もう元の私には戻れない。
「私は……貴方にだけ、触れられたかった……!」
どうしようもない程に、私は癇癪を起こしていた。
本音と口が直結してしまった結果、こんなことしか言えなくなって、結局顔を上げられないまま、フェリクス殿下の気持ちを考えることなく、私の想いばかりを勝手に口にしてしまった。
ぱしっ、と私の手首を捕まえられる。
「……!」
手首を掴むフェリクス殿下の手は、相変わらず私のより大きい。
そう。私に触れてくれる手は、この手が良い。
「レイラ……。ごめん、私は未熟だ」
濡れたような声の後、フェリクス殿下は動いた。
「え……? ……きゃっ!」
とさっ、と背中に柔らかなソファのクッション。覆い被さるのは、フェリクス殿下。
狭いソファの上、私に体重をかけないように上手く体を調整しながら、覆い被さっている。
そこで私は初めて、フェリクス殿下がどんな顔をしているのかを知った。
天井を背景にして、彼の金の髪が零れ落ちている。
蒼の瞳は、逆光になっているせいで深い色をしているように見える。
泣いてる?
いや、実際に涙を流している訳ではなくて、笑っているのに、泣いているように見える。
泣く寸前を堪える子どもみたいな表情をしているのに、切なげに笑う姿は色気もあって、大人と子どもが綯い交ぜになったような。
癇癪や、激怒、それから、苛立ち。それらも複雑に混ざり合い、彼の表情は正しく混沌としていた。
私への興味をなくした訳でもなかったし、冷たい表情でもなかった。
押し倒されたまま、フェリクス殿下は私の首筋に顔を埋めると、掠れた声で呟いた。
「どうして、触らせたの?」
「殿下……?」
「貴女は何も悪くないと知ってる。抵抗出来なかったんだろうって。ルナが居てもなお、相手の方が上手だったということなんだって、頭では理解してるし、こんなのあの男の言う通り、八つ当たりだってことも……!」
それは、心情の吐露。どちらかと言えば感情を抑え気味だったフェリクス殿下の、感情の発露。
感情の爆発。
「こんな醜い感情は、隠しておくつもりだったけど、レイラがあんな……あんなことを言うから……」
あんなこと。私が触れて欲しいのは貴方だけという言葉。あれは紛れもなく私の本音で。
彼の精神的なトリガーを引いたのは、私の言葉だったのだ。
フェリクス殿下の声は震えていた。
その声に含まれているのは狂喜と、おそらくは呪詛のようなもの。そして、罪悪感。
相反する感情は酷く重い。
おそらく、フェリクス殿下本人もそう自覚しているからこその罪悪感。
「ねえ、どうして?」
「っ……いっ、」
首筋に歯がつぷり、と突き立てられた。チクリとした甘い痛みがまるで私への罰のようで。
かぷっと甘噛みをされて、切なげな吐息を零しながら、生暖かい舌の先が白い首筋をゆっくり這い回る。
「やっ……フェリクス殿下! そ、そんなところ……駄目っ……」
「……、誰にも触らせないと言ったくせに。2人きりにならないって、言ったくせに」
怨念のこもった嘆きに、抵抗する気はなくなった。
「……ごめんなさい…」
そっと彼の髪に指を差し込むようにして、撫でていれば、フェリクス殿下は小さく呟いた。
「謝らせたい訳じゃない……。私も、ごめん」
ちゅうっと首筋をキツく吸われて、私が思わず跳ね起きそうになった刹那、フェリクス殿下の手が私の肩をグッと押さえつけた。
ソファが揺れてギシリと軋む音。
手は伸ばせそうにない。
「レイラは何も悪くない。それは知ってる……けど」
首筋から顔を離したフェリクス殿下は私を間近から切なげに見下ろしている。
そっと伸ばされた指が、私の唇を確認するように何度もなぞり上げて。
「んっ……」
やわやわと唇の表面の柔らかさを堪能するように愛撫する。
「貴女のここの柔らかさを知っているのは、私だけで良かった! ……誰にも、私以外には誰にも知られたくなど、なかったのに!」
それは慟哭に似た何か。
くすぐるように私の唇を淫らな手つきで誘うように這わせる。
唇の表面をツンツンとつつく感覚に、嫌悪感ではない理由で身震いした。
こそばゆい。その感覚のくすぐったさに私は控えめに吐息を漏らす。
「んっ……はぁ……」
「その悩ましげな声も」
思わず潤んだ瞳で見上げた時、フェリクス殿下は先程まで食んでいた首筋を指先でなぞる。
「その潤んだ瞳も、全部私のものだというのに」
「フェリクス殿下……?」
それは独占欲の塊。
私を押し倒しながら、全てを掌握した上でさらに欲しいと。
晒してしまった首筋に再び彼の唇がやんわりと下りてきて、這い回るように何度も小さな口付けが繰り返され、たまに悪戯でもするように、ちろりと舌がくすぐって。
それから時折甘えるように鎖骨の方も噛み付かれた。
ナイトドレスの胸元は少し乱されてしまっている。
「痕を付けてみたのは初めてだけど、まるで淫らな花だ。ねえ、レイラ。どうして抵抗しないの?」
「私が、殿下を拒否するなんて、そんなこと……」
細い声で答えるも、それはお望みの答えではなかったようだ。
「私に悪いと思って、遠慮してる?」
「そんなことっ……!」
抵抗する理由がなかっただけなのだ。
相手は好きな人なのだから。
「……どっちにしろ、今更だ。……んっ」
頬に鼻に、瞼に、唇の端に。ちゅっ、ちゅっと繰り返される柔らかな口付けは止むことがない。
大きく無骨な手のひらが、私の脇腹を殊更時間をかけてなぞり上げていき、その度に体の芯から込み上げてくる得体の知れない疼き。
私はソファの上で、身を捻るようにして、もぞもぞと身動ぎをした。
目の前の男の服を軽く掴み、自分の呼吸を落ち着けるように「はぁっ……」と息を吐き出す。
「レイラ、じっとしてて」
その言葉の後、大切なものに触れるみたいにゆっくりと触れ合うだけのキスをされて、すぐに離れた。
フェリクス殿下の唇は熱を纏っている。
「……拒否をしないのは、触れられて嬉しいと思ってくれているから?」
好きな人に触れられるのは嬉しい。
それだけは断言出来るので、素直に私はコクリと頷いた。
「…レイラっ……」
再び口付けようと、近付く距離。
だけど、吐息が触れ合い鼻先が触れ合って、唇が徐々に合わさりかけたその寸前で止まる。
唇の表面、一部だけを僅かに触れさせ、完全に唇が合わさっていない状態のまま、私の唇の真上でフェリクス殿下は切なげな声で囁いていた。それは、唇の上に何か小さな羽根でも乗せているようなくすぐったい感覚。
「この柔らかく甘美な唇も、私だけのものだ」
間近で囁くものだから、下唇が掠めるように触れるのみ。
もっと、キスをして、奪ってくれても良かったのに。
それだけの接触の後、フェリクス殿下は私から顔を離してしまったけれど、まだ終わった訳ではないらしい。熱っぽい目が私の唇から視線を離さない。
再び顔が近付くやいなや、思わず私の手が彼の頭ごと引き寄せる。
淫らな自分に恐れ戦きながら、もっと物足りないと言わんばかりに私の方から、目の前の唇に自らのそれをちょん、と触れさせた。
「可愛い」
今度はきちんと口付けが施され、隙間なくみっちりと重ねられた。
押し倒されていた体勢のまま、何度か唇同士を触れ合わせた後、そっと離れていく。
「んっ……殿下。そこ……耳」
「うん」
はむり、と耳を甘噛みして、彼は私の耳に吐息を吹き込むようにして、こう言った。
「塗り替えて、全て忘れさせて、私とのキスしか考えられないようにしてあげる。あんな男の唇の感触など、忘れてしまえ」




