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 クリムゾンは先程の体調不良などなかったように、私たちに向かって優雅に礼を取った。


 本当に一瞬の不調の色で、おそらくフェリクス殿下は気付いていない。

 クリムゾンの性格をだいたい知っており、医療に携わっている私は偶然気付いたけれど。


 彼の様子がおかしかったことに気を取られていれば、フェリクス殿下がそっと咎めるように私の指先を握って、一瞬垣間見えた瞳には昏い色を孕んでいた。

 何故、クリムゾンと折り合いが悪いのかは話してくれていない。

 お互いに相容れないということが分かっているからか和解の余地もなさそうだった。


「ああ、フェリクス殿下。そこまで警戒なさらずとも、今のレイラ嬢は紛れもなく貴方の婚約者。()()()()貴方から奪おうなんて馬鹿な真似をする者など居ませんよ。無意味な矛はお納めください。時間の消費は確かお嫌いでしょう?」

 クリムゾンは口の端を僅かに上げて、ふっと笑った。その表情は、王太子にする表情ではなく、不遜にも取られかねない危険なもの。

 口調だけは冗談めいているせいで、クリムゾンの顔が見えてない公爵も気付いていない。

 とりあえず全力で煽っているのは分かる。


「なるほど。()()()()……ね。確かに、そうかもしれないな。精々、気をつけておくよ」

 隣から見上げたフェリクス殿下は、腕を組みながら不敵な顔で美しく微笑んだ。


 何これ!やっぱりこの2人怖い!?

 どうしよう!関わりたくない!表向きニコニコしているから余計に怖い!

 不穏!

『永遠にこうだと思うぞ、ご主人』

 和解の余地はないの!?……なさそう!!

 クリムゾンは怪しい風体をしているけれど、今のところとりあえず私の命を狙っている訳ではないというのに、フェリクス殿下はとにかく彼を警戒している。


「それでは後は父に任せてここらで自分は失礼します。……レイラ」

 ふとクリムゾンが柔らかな声で私を呼んだ。

 わざわざ親しげに。周囲に見せつけるように。

 貴族として礼儀正しく紡がれていた口調が綻び、人間味を帯びたのに気付いた者は何人居るのだろうか。

 フェリクス殿下は目を不快そうに細めていた。


「うちの猫が何度かそちらに迷い込むことがあると思いますが、暖かく迎えてやってくださいね。貴女は婚約したので僕はもう振られる形になりましたが、猫は振らないであげてくださいね」


 それから、人差し指を唇に添えて「内緒ですよ」と言わんばかりの仕草。

 精霊のことは言うなってこと?

 わざわざ伏せているくらいなら、何故今この場でそれを言ったのかと突っ込みたいところだけど、とりあえずそれは置いておく。

 振られるっていうのはよく分からない。振った覚えはないし……。

 うちの猫……はアビスのことかな。

 そういえば、精霊と契約していることを、クリムゾンは明かしていないのだろうか?

 特に公爵も反応はなく、怪訝そうにしているだけだ。

 フェリクス殿下もこちらを凝視している中、簡単に頷くことも出来ず、私は曖昧に微笑んだ。


 クリムゾンが去っていくのを見送りながら、私は今更気付いたことで頭がいっぱいになった。

 ブレイン=サンチェスターがクリムゾン=カタストロフィであると、私は誰にも伝えていないということを。

 これって、殿下に伝えて置いた方が良いの?

 私は婚約者の立場にあるのだし、隠し事はナシにしたいところだけれど、私はクリムゾンの事情を知らない。

 精霊のことを周囲にひた隠すということは、それなりに何か事情があるのだろうし。

 今までは言うなとも言われていなかったけど、今日のあのジェスチャー。

 本人に了承を取ってから、伝えるのが良いのかもしれない。

 どちらの返答にしろ、私はクリムゾンと影で会うような真似をしてはいけない身になったので、ルナにメッセンジャーになってもらう?


 そういえば、異界を通じて部屋に突撃されたことも1度あった。

 殿下の婚約者の立場なのだから、そういうことがあったと彼の耳に入れて置いた方が良いのでは?それとも今更すぎる?

 クリムゾンのように神出鬼没な登場にも対策しなければ。

 ただすぐに行動出来ない理由はあった。

 不誠実な真似をしたくはないけれど、とにかく何か不穏な気がする。これは第六感の類だ。

 悪い噂の多い公爵家。精霊を周囲に隠しているらしいクリムゾン。それもクリムゾン=カタストロフィは隠し攻略対象として乙女ゲームでは扱われている。精霊と契約している点からしても、彼から訳あり臭がとてつもなく漂っている。

 それに、今日の体調不良。あれにも何か理由があるのだろうか?

 内的な要因で体に負担をかけているように見えて、魔力を回復しているのか、魔法薬は飲んでいるのか、心配になった。

 そして、どことなく不穏さを感じる。


 とにもかくにも。

 簡単に打ち明ける内容ではないのかもしれない。とにかく情報を得ることが先だと私は切り替えるしかない。

 下手に動いて余計な真似をするのは愚の骨頂だ。


 サンチェスター公爵と型に沿った社交的な受け答えを繰り広げつつ、そうやってクリムゾンの去り際の言葉に悶々としていた。

 頭の片隅で思考するという我ながら器用なことをやってのけたことは感嘆に値するだろう。

 事業のこと、世間話。フェリクス殿下と公爵の傍で交わされるそれらを耳にしつつ、時折、差し向けられる公爵からの問いかけに応対する。

 目の前の交わされる内容に気を引き締めていたおかげで、受け答えは完璧に出来ていた。

『ご主人の顔を見る限り、今後の対応の方針が決まったことは分かったが、それにしても器用だなご主人は』

 仕方ない。だって、公爵と会話している間しか、悩む時間はなかったのだ。



「レイラ。さっきの、どういうこと?猫って。2人にしか分からない暗号か何かなの? 周りは気付いていないようだったけど。それと、何であの男を気にするの?」

 普段温和な人が浮かべる険しい顔つきは、威圧感があって、思わず身が竦んだ。


 思っていた通り、公爵との話が終わった途端、追求されている。

 つまり、フェリクス殿下にどう話しておくか問題。

 悩む時間は、本当にあの時間にしかなかった。


「失礼」と人の間を縫うように歩き、私をエスコートして、一時的に廊下へ連れ出してからの第一声。

 フェリクス殿下も私の性格をよく分かっている。すぐに追求するのが効果的だと知っていた。

 私はあらかじめ、決めていた答えを返す。

「……よく、分かりません。直接聞いてみないことには」

 思い当たることはあるけど。

「……2人きりで会うのは許さない。本当に、猫という言葉に思い当たる節はないんだね? 2人だけの秘密があるなんて、頭がおかしくなりそうだ」

「……」

 罪悪感が胸の内を占めた。猫に思い当たることはあるから。

 動揺していたけれど、あえて私はフェリクス殿下を見つめていた。

「2人で会ったことはあれ以外にないよね? レイラのことは信じているし、交友関係に口出しなんてしたくないけど。……あの男だけは絶対に許さない」

 2人で会ったことがあるなんて、口が裂けても言えない雰囲気に恐れをなした。

 精霊のことは、今日のところは伏せておくつもりだけど……。

 本当にこれで良かったのだろうか?

 言い方を間違えると取り返しのつかない事態に発展しそうなのが怖い。

 震えそうになる足を叱咤しながら、私はその場に立っていた。

 猫は、精霊のアビスのこと?

 アビスがこちらへ来る?あれが何を意味しているか、レイラも本当のことはよく知らない。

 嘘は言いたくなかった。誤魔化す卑怯な真似もしたくなかった。

 誤解もされたくなかった。だけど、考え無しに行動することも避けたかった。

 だから言えることだけでも言っておく。

「殿下。私は、他の男性と2人きりで会うような真似はしたくありません。だから、ルナにも協力してもらって、おかしなことにはならないように気をつけます」

 これまでも真実、2人で会ったことなどなかったけれど、きっとこれまで以上に気をつけなくてはならない。

 私が出来るのは人気のないところに行かないようにすることくらいか。

 クリムゾンのことは信用出来ると思っているけれど、それを伝えたところでフェリクス殿下が納得する気配はなさそうだった。


「うん。そうして。……レイラは、私の婚約者だ」

「……はい」

 回廊の隅、美しい壁紙が夜の月に照らされる中、その壁に押し付けられたまま、その強い視線に射抜かれる。

 怖いのに、どうして殿下は切なそうな顔をされているの?

 大きな手が私の手首を握り、引き寄せる。

 ぐっと手首を掴む手の力が思いのほか、強いことに肩を強ばらせた。

「あっ……」

 今度は両手を頭の上に纏めるように拘束されてしまった。

 クリムゾンが関わるとフェリクス殿下の様子は少しおかしくなる。

 今も。様子がおかしい。

 自分の体が僅かに震えているような気がするのは、怯えているから?


 月の明かりしかない中、仄暗く深い蒼色をした瞳は、例えてみれば深淵の色を帯びていたと思う。

 どこまでも吸い込まれていきそうな類の昏い何かだ。


「誰にも、私以外には触れさせてはいけない」

「……はい」

「……絶対だよ」

 低く掠れた声には凄絶な程の色気があった。その声音に威圧感を覚えて、気圧されていたけれど、それだけではなかった。

 切なげな声に胸を突かれてジクジクと甘く痛むのだ。

 何か言わなければと、唇を薄く開いた時に、私の上に影が落ちて来たのを見た。

 私が息を飲むより早く、覆いかぶさって来て。


 今度は許可を求めることなく、私の唇を奪った。

 強引に重ねて、息を奪って、私の身動ぎすら許さぬと言わんばかりに、何度も角度を変えて私の唇に噛み付くように口付ける。

「んぅ……」

 首を振ろうとしたところで、それを咎めるようにゆっくりと押さえ付けて、彼は決して離そうとはしなかった。

 息を奪い尽くすみたいに口付けを深めようとしてくるのだ。

 私は頑なに唇をしっかりと閉じて抗っていた。

 ……怖い。

 このままでは、いつか食らい尽くされそうだと本能的に恐怖を感じた。

 逃げようともがいたけれど、拘束された手が痛い程、締め付けてくる。


 フェリクス殿下は、こんなことはしない人のはずなのに、クリムゾンが関わるとやはり様子がおかしくなる。

 嫉妬? どうして? 仲が悪いから?


 僅かに唇が離された瞬間、私は空気を求めて喘いで、さらに口付けてこようとする殿下から思い切り顔を背けた。

「……っ、レイラ?」

「は、離して……ください」

 ぱっと拘束していた手が外れたのをこれ幸いとばかりに密着していた体をぐいっと押しのける。

「もしかして、嫌なの?」

 月の光がステンドグラス越しに降り注いでいた。

 月の光が逆光になって、フェリクス殿下の顔は良く見えないが、無表情に見下ろす彼は明らかに普段と違っている。

 足が震えた。


「もっ……もう、息が……出来ないので。それに、痛い……」

 握られた手首がじんじんと痛みを訴えている。

 弱々しく細い声で抵抗の声を上げると、フェリクス殿下がハッとしたように目を見開いた。

 自分のしたことに驚愕したように、彼は自らの手を見つめ、掴んでいた私の手首を見て、肩で息をする私を見て、固まった。


 瞬間、カツンっと誰かの足音が聞こえた。


「誰?」

 思わず声を上げて、その方向を見れば、駆け出していく誰かの後ろ姿がフェリクス殿下の肩越しに見えた。

 誰かにこんなところを見られたのだろうか?

「今のは……?」

「……分からない」

 彼は息を吸って、ゆっくりと吐きながら、押し殺した声で答えた。

「……」

 たった今まで触れ合っていたせいで、濡れていた唇を指先でそっと押さえた。

 もしかして拒否をしたから怒っているのでは?

 そっと隣の男を見上げれば、唇に移ってしまったらしい私のリップグロスをおもむろに手の甲でぐいっと拭っている様が目に入ってしまった。

 普段とは違った乱暴な仕草に、私は見てはいけないものを見た気分だ。

「……」

 恥ずかしい。

 殿下の手を取って、ハンカチで拭き取っていれば、彼は小さく呟くように「ありがとう」と言葉を返した。

 あれ?

 声音には常の穏やかさが戻っているし、普段通り柔らかく聞こえる?

「フェリクス殿下……?」

「……レイラ、どうしたの」

 伏し目がちに私を見下ろす瞳に、ようやく安堵して、私は体の力を抜いた。

 先程は私を闇を孕んだ瞳で見下ろしていたけれど、今はいつも通りの理知的な瞳に戻っていたからだ。

 誰かに見られて冷静になれたのかもしれない。

「無理矢理して、ごめん。それに怖がらせたりして。我ながら子どもっぽかったと思う。痛い思いもさせて、ごめん。……こんな……、自分がこんなことをするなんて」

 どうやら先程は怒っていた訳ではなくて、感情を落ち着かせていたらしい。

 私の手首を労るように撫でながらも、彼の声は意気消沈していて、私への罪悪感、それから自らを恐れるような響きを持っていた。

「いいえ……。ただ、あの方と随分、折り合いが悪いのだと驚いただけです」

 クリムゾンが以前、異界から私の部屋に迷い込んで来たなんて知られたら、どうなるのかと思わず身震いするくらいに。

 クリムゾンへの苛立ち、憎悪は本物だった。

 フェリクス殿下は、珍しく沈黙していて、しばらく間を置いてから、やっと唇を開いた。

「……そうだね。お互いに許容出来ない存在なのだと思う」

「……そ、そこまでですか?」

「そこまで。……さっきだって、自分がレイラと無関係ではないのだと周囲にしらしめた。気安い呼び方、レイラが好きだったみたいな物言い」

「それを見せつけたところで、利点がないように見受けられます」

 クリムゾンにとって、それが何を意味するの?

「私に対する純粋な悪意。……つまり嫌がらせだよ。自分が振られた体を装ってまで、私に嫌がらせをしたかったんだよ。それと、彼は遠回しに言ってるんだ。自分は無関係な存在ではないと」

 フェリクス殿下は壁に背中を預けながら、そのまま天井を仰いだ。

 そこまで嫌われる理由が2人の間にあったのか。

 私の知らないところで2人なりの関係性というものはあるだろうけど。

 それにしても、犬猿の仲だというのに、フェリクス殿下はクリムゾンのことをよく知ったように語る。

 それが少し不思議だった。

 そんな折、ルナが控えめに声をかけてきた。

『ご主人。先程から言おうと思っていたが』

「ルナ? どうしたの?」

 どうやら口を挟む隙がなく、困り果てていたようだ。

 確かに、ルナにとっても居心地悪かったような気がする。

 ルナ、と口に出したことで、フェリクス殿下は何事かとこちらへと視線を向けた。

『先程の駆けて行った人影だが、光の精霊の気配がした』

「…………」


 よりにもよって、あれを見られていたと。

 少し……いや、かなり面倒なことになりそうだと思った。


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