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夜会で、私たちが入った瞬間、ざわめいたのは気のせいではない。
会場中の視線が集まり、怖気付きそうになるのを、殿下のものとお揃いの指輪をさり気なく握って振り払った。
指輪をはめる場所は、彼と同じように左手の親指。薬指にはめる勇気はまだ、ない。
緊張した固い表情を浮かべる訳にはいかないので、これまでの淑女教育で得た全ての知識を駆使して優雅な令嬢を演じた。
ドレス捌きから、足の踏み出し、手の指の先まで緊張の気配なんて一欠片も漂わせないように、細心の注意を払った。
「ふふ、レイラ。少しやりすぎかも。妬けてしまう」
ほうっと息を漏らしながら、皆赤い顔で私たちを見つめていた。
……何故、赤い顔……?
「あれはね、皆レイラに見惚れてるんだよ」
「えっ? 皆さんの視線の先はフェリクス殿下だと思いますよ?」
「うーん。無自覚は罪だなあ。レイラが月の女神だということに今更ながらに気付いた貴族たちが見惚れているんだよ。老若男女全ての者たちがね。貴女の麗しさ、香しさ、その一挙手一投足の優雅さに溜息を堪えきれないのだろうね?」
「それは、言い過ぎでは?」
社交も必要最低限で、学園では常日頃から伊達眼鏡を着用していた私の素顔が珍しいだけではないだろうか。
『ご主人は自己評価が恐ろしく低いからな。まあ……今更か』
今日もルナは私の影の中に入り込み、いつものように私に話しかけていたり、一人言を口にしたりしている。
光の精霊付きのリーリエ様が居るからか、隠形の魔法で身を隠している以外はいつも通りだ。
殿下に向けられているだけでなく、私にも向けられる羨望の眼差しは、くすぐったかったと同時に少し重かった。
「大丈夫。貴族の多くは好意的だと思うから。それに、もし何かあったとしても絶対に矢面に立たせることはしないよ」
耳打ちされて私は強ばらせていた肩から少しだけ力を抜いた。
「ありがとうございます。心配は、なさらないでください。引きこもっていたと言えども、社交経験がゼロではありませんから」
「それは心強い。でも、今日は私の傍に居てね」
フェリクス殿下はゆるりと微笑むと、私の腰に手を回した。
さり気ない接触に動悸がするのは気のせいだ。はあっ……と体内に籠った熱を吐き出しつつ、軽く頬を指先で触れる。
熱い。
顔には出ていないはずだけど、僅かに朱にそまった頬は誤魔化すことが出来ない。
いい加減、彼の隣に居ることに慣れないといけないのだけど、これが慣れる時が来るのか本当に謎である。
『ご主人も大したものだな。いつもなら狼狽えているというのに』
そりゃあ、人前ですし。
『王太子は気を使ってご主人を動揺させるのを止めれば良いのに』
物凄く正論なので、私はフェリクス殿下に耳打ちして言うだけ言ってみることにする。
「あの、フェリクス殿下」
「ん? どうしたの?」
「私のことを思ってくださるなら、過剰な接触は……その……私、殿下に触れられると……。動揺した姿を見せるのは得策ではないのではと」
少しでも離れてくれれば、力を抜くことが出来ると思う。
好きな人と寄り添うのは幸せだけど、同時に甘くて苦しくて、息が上手く出来なくなるのだ。
傍に居ると、上手く息が出来ない。
唇を重ねると、呼吸が止まる。
何をどうしたところで、私はフェリクス殿下の傍に居る限り、不整脈とは無関係でいられない。
告白して想いを通じ合わせてから、さらに悪化するなんて聞いていない。
必死で紡ぎ出した私の言葉を耳にした途端、フェリクス殿下は殊更に優しく私を見下ろした。
どうして幸せそうに笑うの?
眩しさから目を細めるような仕草の後、ゆっくりと身を屈めると、密やかな声音で私に言い含めるように囁いた。
さりげなく、先程より距離は縮められていた。
「レイラ。本当に貴女は可愛い。どうか、私以外にそんな姿を見せないで」
今、可愛い要素があったのだろうか? 全く分からなかったので、素直にコテンと首を傾げれば、殿下はくすくすと上品に息だけで笑い……。
ゆっくりと右手を伸ばされる。
あ。触れられる……。
ぴくり、と体が震えるのが分かった。まるで体に電流が走ったよう。
フェリクス殿下が触れたのは、私の耳。ふわりと、柔らかな羽に包まれたような錯覚を覚えるくらいに優しい手つきで、耳を包み込むように触れて、横に垂らしていた髪もすくい上げられる。
指先が擽るように掠めたと思いきや、直後、私の耳の溝や裏側など直接愛撫するみたいにゆっくりと這い回って……。
するすると複数の指先が、特に親指が、私の耳をなぞり上げている。
その妖しい一連の動きに私は、いちいちピクンピクンっと反応したり、体をふるふると震わせていて。
殿下はその度に、うっそりと笑う。
なんだか、今の……今のって。
おかしな方向に誤解してしまいそうだ。
「本当だ。レイラは、私に触れられると動揺してしまうんだね? 今、自分でそう言ったの気付いてる? レイラは無意識に私を煽るよね。……そういうところ、本当に堪らない」
「……!?」
焦れたように掠れた声にゾクリと皮膚が粟立った。自分が捕食される草食獣の側に立っていることを本能的に悟った瞬間。
もちろんフェリクス殿下は、息を潜めて舌なめずりをする肉食獣の側だ。
私はどうやら知らないうちに余計な行動ばかりしてしまっているのか、フェリクス殿下の琴線に触れるような何かを刺激してしまっているらしい。
耳を愛撫していた指が、ゆっくりと離される。
「大丈夫。人前で変なことはしないから」
「……以後、気をつけます」
さっきみたいな触れられ方はマズい。
「何言ってるの。私相手には気をつけなくて良いよ?」
『そちらこそ何を言ってる。王太子的には本望なのだろうが、ご主人的には危険だろう……』
まさしくそうなので、ふるふると首を振っていれば、フェリクス殿下は「ふふ、残念」とちっとも残念そうでない少々ご機嫌な声で呟いた。
「失敗してしまったら、どうするのですか」
「レイラは失敗しないよ。今も、どこからどう見ても完璧だからね。私もヘマなんてしないし」
実際、フェリクス殿下はどこでだって私を動揺させて来るし、それを見て上機嫌な様子なのだけど、私たちも人前で貴族らしく平然と振る舞うことには長けていた。
遠くからこんな声が聞こえてくる。
「お2人の仲が良いのは噂で知っておりましたが、挨拶にしろあの中に割り込んで入り込むなんて出来ませんわ。きっと高尚な会話をされているのだわ」
「ええ。きっと私たちの想像の及ばないくらいに優雅なやり取りに違いないですわ!」
ご婦人や令嬢方が、私たちを遠巻きにして、キャッキャとそんな会話をしていた。
『高尚な……会話? 優雅な……やり取り?』
うん。ルナ、言いたいことはとても分かるけど。
疑問形になる気持ちもよく分かるけど、それ以上は言わなくて良い……。
フェリクス殿下が私をからかって、遊んでいただけだものね。
どうやら私の反応を見て楽しんでいる節があるのだ。
「……会場に緊張しなくて良い。レイラは私だけに緊張していれば良いんだよ」
「……」
気が付けば、己にのしかかっていたプレッシャーのようなものは取り払われていた。
もしかして、フェリクス殿下はそれを狙って……?
ドキドキしているのは緊張のためじゃないなんて、己が1番知っていた。
殿下はそれ以上、変わりなかったけれど、それから私たちは挨拶回りを何ごともなくこなしたのだった。
そうして、挨拶回りに行っていれば、こんな場面も来るとは思っていた。
サンチェスター公爵と跡取りだというブレイン。
フェリクス殿下とクリムゾンは、以前険悪だったけれど、関係性が悪化して何か提携などに問題が出ないかと以前から心配していたのだ。
「お久しぶりだね。サンチェスター公爵と、ご子息殿」
「これはこれは殿下。お久しぶりですな。婚約されたとお聞きいたしました。お相手はヴィヴィアンヌ家ということで、この度の事業で繋がれた縁を感じられます。幸先良いということかもしれません」
サンチェスター公爵はいつも通りに穏やかな微笑みを浮かべ笑っていて、私たちの婚約を祝福してくれていた。
「ブレイン、お前も挨拶を」
少し後ろに控えていたらしいブレイン──髪を染めたクリムゾンに公爵は声をかけた
横に居たフェリクス殿下が構える気配。
目の前のクリムゾンを明らかに警戒しているのか、彼は誰にも気付かれない程度に眉を一瞬だけ潜めて窺った後、すぐに邪気のない人好きのする微笑みを浮かべた。
『いや、もう本当にさすがとしか言いようがない』
以前は険悪だったというのに、この変わり身の早さ。ルナは呆れ半分、感心半分の声だった。
クリムゾンは、フェリクス殿下の警戒を帯びた視線に竦むこともなければ、怯むこともなかった。
「…………」
「ブレイン。ご挨拶を」
「……え、ああ。大変失礼いたしました。一瞬だけ気を抜いてしまい、大変なご無礼を」
さっと紳士的に礼をするクリムゾンの立ち居振る舞いはいつものように古い名家の貴公子然としていた。
あれ? クリムゾンの様子がおかしい?
彼はこういう場で気を抜くことはしない人なのに。ぼんやりとすることなど今までは1度もなかったというのに。
それに、いつもは世を面白がり僅かに輝いていた瞳もいつもより陰っていたし、何かの塊を無理矢理飲みくだしたみたいな苦痛の色が、慟哭の色が、ほんの一瞬……刹那浮かんだのを、レイラは見逃さなかった。
それはすぐに取り繕われて、常日頃浮かべている胡散臭い微笑みに代わった。
傍目からだと、もしかしたら気付くことはないかもしれないくらい、些細だけれど、彼は明らかに不調だ。
これは外的要因というよりも、内的要因?
「お2人とは随分とお久しぶりな気がします。自分が知らぬうちに婚約を結んでいたということも驚いています。…………何はともあれ、此度の婚約を祝福させていただきます」
クリムゾンの様子が明らかにおかしい。彼が言い淀むことなど、今まであっただろうか?




