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7/14 ほんの少しだけ加筆しました。
「で、レイラ。何で逃げるの?」
「何故って、殿下が……あ、ああああのようなことを!」
目の前にジリジリと迫り来るフェリクス殿下から、距離を保ちつつ、私は後ろへと下がっていく。
あっ。もう後ろがない。
フェリクス殿下が居ない方向へとくるりと体の向きを変えて、再びジリジリと後ろに下がっていく。
つまりは、エンドレス。
「さっきから気になってたんだけど、2人きりの時は殿下は止めるんじゃなかったっけ?」
「っ……フェリクス様が、あ、あのようなことをなさるから!」
「あっ。言い直した」
ピタリと彼が動きを止めれば私もピタリと止まり、動き出せば私も後ろへと後退していく。
「警戒して良いとは言ったけど、あからさまに逃げられると、なんというか捕まえたくなるなあ」
何か不穏なことを仰っている!
「え、えっちなことは駄目だと思います!」
「何だろう。そんなこと言われると、何かしたくなる」
ひえっ! ご乱心? ご乱心なの?
何となく身の危険を感じ始めた頃、待ちに待った馴染み深い低音の声が響いてきた。
「そろそろ終わったか」
る、ルナ!! 良いところに!
扉越しに声が聞こえたので、私は扉に縋り付くようにして、訴えた。
「終わりました! 終わったので、ここから出していただけませんか!?」
必死の懇願により思わず敬語になってしまうのは、すぐ後ろにいるフェリクス殿下のせいである。
「2人きりで居るのが限界なのは分かるんだけど、そこまで必死にされると傷付くなあ」
明らかに傷付いていない、常日頃と同等の涼し気な口調で言われても説得力がない。
先程から、一定の距離を取って物理的に逃げ回っているのだが、そんな私の挙動不審の行動に彼は全く堪えた様子などない。
上機嫌な様子で私を目で追っているだけ。
「何をやったんだ。そこの男は」
ガチャリと施錠されていた扉が解錠されて、先程はうんともすんとも言わなかった扉が呆気なく開かれた。
「ルナ!」
人間の姿の時は長身のルナの背中にぐるっと回って、サッと身を隠していれば、ルナの呆れたような声。
「真面目にやれ、と言っただろう。遊ぶなとも」
「私は至って真面目だよ? ここが好機と思ったから行動しただけで。……ふふ、涙目になっちゃって可愛いな」
「とりあえず口を閉じてくれないか? ご主人が限界だ」
ルナがサッと私に眼鏡を手渡してくれた。
そういえば、さっき落としたまま拾ってなかったのだ。色々と怒涛の展開だったせいだ。
慣れた手つきで眼鏡をかけ直し、チラリとルナを窺って見れば、どことなく疲れているように見えた。生気をまるごと何かに吸い尽くされたみたいに虚脱感さえ感じられる、げっそりとした表情。
「ルナって言ったっけ。疲れているみたいだけど、今の時間に何かあったの?」
ルナの後ろに居る私に近付き、何やら構おうと手を伸ばしながら、フェリクス殿下はついでにルナに問いかけた。
「敵襲だ」
「え?」
さすがのフェリクス殿下も呆気に取られ、人姿のルナに問いかけるような視線を送っていた。
「ご主人の兄が……」
地を這う低音で恨み言でも言うような響きでルナが一言告げた瞬間、大方察した。
「それは、不運だったね。レイラのお兄さんだもんね、うん」
「お疲れ様、ルナ」
どうやら、凄い形相で私の姿を探して、アポ無し訪問として突撃してきたお兄様は、医務室に男性のルナが居たことに、突っかかって来たらしい。
私の従者だと言えば、「レイラの傍に男が!」とか何とか言い出して余計に面倒なことになると思ったらしいルナは、叔父様の名前を出してようやく帰ってもらったらしいのだけれど、お兄様は仕事しなくて良いのだろうか?
「優秀な親戚が居るから、問題ないとか言っていたぞ」
「ああ……そういえば」
お兄様が領地経営する際に、父方の従兄弟を連れて行ったという話は聞いていた。
何か目的があるのかもしれないけど、詳しくは知らない。
お父様は1番上の長男で、次男、三男、四男と兄弟がとても多く、跡継ぎ問題には困らない。
お父様は実力主義で、1番向いているであろう者を跡継ぎに指名するのだけれど、己の実の息子であるお兄様を指名したのである。
シスコンを拗らせているが、お兄様は柔軟な思考と優秀な頭脳を持ち、臨機応変な対応もお手の物という有力な物件だ。
さそがし貴族の麗しい令嬢たちに引く手数多だろうと思いきや、見た目も良いというのにシスコンすぎて令嬢たちが引いてしまっている。
とても残念すぎる。
私のせいかもしれない。私のせいだろうな。私のせいだ。
「そういう訳で、ご主人は採取に向かったことにしたから、安心してくれて良いぞ」
ルナはドヤ顔を浮かべながら、疲労したオーラを全身に纏いながらも、何だかやり切った表情をしていた。
というか、お兄様は私に何の用があったのだろう……?
近々、またもや訪問がありそうな気がする。
「ああ。そろそろだと思ってたんだ。中で私たちがさっきまでしていたことを知ったら、お兄さんはきっと寝込んでしまうね。……柔らかくて気持ち良かったよ」
「そっ……ういうことを仰るのはお止めくださいませんか!?」
わざと誤解されるような物言いをしてくるのは、お願いだから止めてください!
えっちなのは、反対!
かああああ……と一気に頬を紅潮させながら視線が泳ぐ私は結局のところ、フェリクス殿下の攻めの姿勢を上手く躱すことが出来ていない。
「そうだぞ。王太子よ、自重しろ。ご主人が瀕死だ」
「る、ルナ? その物言いは……」
ルナのあまりにも不遜な物言いに青ざめて、今度はまた別の意味で瀕死になりそうだった。
今日は心臓に悪いことばかりが起こっている。
「私は気にしないけどね? ルナは精霊だし、精霊に人間の慣習なんて当てはめるのもね」
フェリクス殿下は露程も気にしていないようだけど、2人の間に居る私は違う意味で心臓がドキドキするので止めて欲しい。
「ああ。だが、精霊としては、王家の人間に全く関心を持たない訳にはいかないがな。特にそこの王太子のような存在は特に」
え? どういうこと?
それは、フェリクス殿下が精霊を見ることに関係した事柄なのだろうか?
「ああ。そうそう。話すと長くなるから、軽く説明するとね」
フェリクス殿下は己の目を指で指し示す。
「目……ですか?」
「私のこの目は、属性など関係なくあらゆる精霊を目にすることが出来る。これは王族の人間の一部に現れる特殊な性質で、精霊の目とか精霊が宿る目とか呼ばれてる」
ルナが付け足すように解説してくれた。
「特筆するべきこととして、まあ滅多に姿を現すことはないが、上級精霊を目にすることも出来るぞ。普通なら上級精霊が居たとしても、人間は知覚出来ないが。だが……」
ルナは人間の姿から唐突に、狼の姿へと戻って、こんなことを言い始めた。
『突然だが、ご主人は学園の令嬢たちに押し付けられた官能小説とやらを顔を真っ赤にしながら何とか読もうとしている』
「ルナ! 何を言い出すの!! やめて!」
なんと言う暴露だ。だって感想を求められたのだから、読むしかないだろう。
というか、まだ15歳の私に押し付けるものでもないよね!?
『ご主人は律儀なんだ。何だかんだで1冊は読み切った』
「ルナ……やめて……ほんとうに」
わざわざそれを、よりにもよってフェリクス殿下に言うなんてと、思わず顔を覆っていれば、フェリクス殿下の不思議そうな声。
「……? 何を話しているかは分からないけど、楽しそうだね?」
楽しく、ない!!
って、あれ?
ルナの声は聞こえていないの?
疑問に思ったのを察したのか、フェリクス殿下は片方の目をパチリと閉じると説明してくれた。
「精霊が見えるだけ、なんだ。声は聞こえない。私の属性の水と火の精霊なら、聞こえるけど、それはまあ普通だよね」
普通じゃないと思う。契約精霊以外の精霊の声が聞こえるということは、使い手として優秀な証拠である。
叔父様も優秀だからルナが見えたし、普通に会話が出来るのだ。
それはある意味、実力を証明しているとも言えるだろう。
「この目は、私があるお役目を担うために授かったものでね。……まあそのお役目を担うことはまずないと思うけど。それで、ここからが大切なことなんだけど、この事実はごく一部、王族の者にしか明かしてはいけないことになっているんだ」
え? 今更だけど、それ、私聞いて良かったの?
「これで結婚は確定になったね?」
「え? ……あの?」
「さすがに聞いたまま放置は出来ないよ。知ったからには逃がさない。ようこそ、王家へ」
なんて良い笑顔。
は、嵌められた!? 普通、知っちゃまずいことを平然と話すなんて思わないですって!!
後出しなんて卑怯だ!
『すまない。ご主人。そのような人間の慣習は知らなかった。さり気なく話を向けてみれば、王太子が気にすることなく明かし始めるものだから、てっきり構わないものかと』
ルナは悪くない。うん。
衝撃が私を襲い、呆然としたまま動けないで居る私に殿下は慰めるように頬を撫でてくるけど、事の元凶は貴方です。
私は騙されない。
むうっと軽く抗議の視線を送っていれば、コンコンと医務室の扉がノックされた。
お兄様だったらどうしよう。
『光の魔力の女が来るのも、厄介だな』
ルナはさり気なく恐ろしいことを言っている。
それ、1番の修羅場です。
遠い目になりかけたが、予想に反して入ってきた人物を見て私は安堵していた。
「んん? 何故、僕を見て2人はホッとしているんだ?」
「ああ、ノエル。色々とあったんだよ。厄介事がね」
どうやら、フェリクス殿下に定期報告をしようと向かい探していたが見つからず、ノエル様は恐らくここだろうと踏んだらしい。
「色々と話したいこともある。それと、あの女が物凄く騒いでいたからその件も」
あの女って。ノエル様は苦々しげな表情で顔を顰めていて、せっかく美少年なのに勿体ない。
「ああ。リーリエ嬢のことかな? ……レイラ。さっきの部屋、もう一度使いたいんだけど、良いかな?」
「私の叔父の研究室ですか?」
「うん。レイラにも聞いて欲しい話だし、さっきみたいにルナに扉を封じてもらって。厄介な人たちに邪魔されないという快適さに私は気付いてしまったんだ」
『私の魔法は密談するためのものじゃないんだが……』
と言いつつも、気が利くルナは文句をいうことはなく、粛々とそういうことになったのである。




