(背中)
恋人になったばかりのウィルとリオの一幕。
背中の傷のお話です。
初めてウィルがその傷を目にしたのは、九つの時だった。
ウィルは、リオ、と、なるべくやさしく、声をかけた。
昏い夜の中。遠くで雷鳴が轟いていた。もうすぐ大雨が来るのだ。
自室の広いベッドの上──ウィルはこちらに背を向けて座り込む少女の、細い腰に腕を回し、引き寄せた。そうしてリオに気取られないよう、小さく嘆息する。
(悪夢か……)
彼女に揺すり起こされたのは、数分前。
起きて、と耳元で囁かれた。
ぼんやりと目を覚ましたウィルは、薄い寝衣姿のリオに、一気に眠気を吹き飛ばされた。
「……っリオ? なんだよ、こんな時間に」
どくどくと心臓がうるさく脈打つ。
アーデルハイトがリオにと買ってきた絹の寝衣は、縁に繊細なレースが施されてはいるものの、細い肩紐しかなく、肩掛けを羽織っていても、目のやり場に困った。
しかしリオの様子が尋常でないのを見てとって、すぐに我に帰る。
「……リオ?」
そうだ、リオがこんな夜中に自分の部屋に来るなんて、明らかに普通ではない。ウィルは戸惑いつつ、リオをうかがった。
「リオ、どうした?」
問えば、リオはかたい表情のまま「嫌な夢を見た」とつぶやいた。
「夢?」
「うん。すごく、嫌な夢……宿屋にいた頃の。あの人がいて……怖かった」
ウィルは瞬時に、眉を寄せる。
子供の頃、リオはよく悪夢に襲われていた。
北軍の寮で同室だったウィルは、その度に彼女を(その時は弟と思い込んでいたリオを)慰めに二段ベッドをしょっちゅう降りたものだった。
けれど、それは軍学校での最初の一年ほどの話だ。
彼女はだんだん悪夢を見なくなって、ウィルが起こされることもなくなっていった。
それが、どうして今更──。
「夢は夢だろ。大丈夫だって」
ウィルは言いながら、リオの腕を引いて、ベッドに上がらせる。
「な、眠れるまで一緒にいてやるから」
「……うん、ありがとう」
リオは頷くと、大人しくその場に留まった。
けれど数分と経たないうちに「もう大丈夫」とウィルから身体を離す。
「眠れそうか?」
「うん。起こしちゃってごめん、ありがとう」
笑ったリオが「じゃあね」と背をむけ、羽織っていた薄布がするりと落ち──ウィルはそこで、言葉を失った。暗闇に浮かぶリオの白い背中には、あの女につけられた無数の傷跡が、まだはっきりと残っていた。
切傷、火傷、ひきつれ。
どうしてこんな酷いことができたのだろう。
あの女。
ウィルは無心で傷を見つめた。
痛みは消えても、変色した肌は二度と元には戻らない。
──アーデルハイトがいくら年頃の娘らしいドレスを勧めても、リオが戸惑うように断るのは、きっと、この傷のせいもあった。
ウィルは腕を伸ばし、ベッドを降りようとしたリオを抱きしめた。
「リオ」
──嫌な夢を見た
それは、どんな夢だったのか。
ウィルには想像することしか出来ない。
鬼のような形相の女が、幼いリオに手をあげる。何度も何度も。罵倒を浴びせ、酒瓶投げて、しまいには熱い鍋を──リオはそうして、表情と心を殺していった。
ウィルはそのまま、傷跡に唇を寄せた。
「もう痛くないよ」
こちらを振り返ったリオは、困ったように笑っていた。
ずっと堪えていたのだろう。
そうだ。多分ずっと、彼女は恐怖を堪えていた。
軍の寮にいた頃だって、本当は悪夢に魘されていたに違いない。
ただ、その姿を自分には見せてくれなくなっていただけで。
ずっと同室だったのに、気づけなかった自分が悔しい。歯痒い。
でも、今夜はこうして彼女は自分のところへ来てくれた。やっと頼ってくれた。それが嬉しくて、切なかった。もっと彼女の安心できる場所になりたい。
ウィルは唇をずらしながら、傷跡を追い続けた。
やがて観念したように座り込んだ彼女をすっぽりと腕の中に包み込む。
「ウィル……ウィル、ありがとう。大好き」
自分を呼ぶリオが、愛しくて仕方がない。
予測より早く、大雨が降る。
おかげで彼女の小さな泣き声は、ウィルにしか聞こえなかった。
読んでくださってありがとうございました。




