(長い夜の告白)
*
――遅い
睨み上げた時計は、ちょうど真夜中を指示していた。
形の良い眉を一際強く顰めたウィルは、開け放した窓の向こうに鋭い視線を移す。都街の灯りはまだところどころに残っていたが、まともな店ならばとっくに閉まっている頃合いだった。
だとしたら二人は今どこにいるのだろう。
場所さえわかれば迎えに行ってやれるのに――そう考えてウィルは、思考を振り払った。それこそ過保護というものだった。
リオは今や軍にも認められた正当な騎士なのだ。普通の女性とは違う、心配には及ばないと一笑に付されるだけだろう。友人として、団長として、なんて名目が通用するはずがないことも重々承知していた。
しかしそれでも、気に掛けないなんてことは出来ない。
ウィルは椅子に背を預けると、小さく息を吐いた。
結局のところ自分は、リオを特別視しているのだろう。
当たり前だった。だってリオと自分は小さな頃から支え合い励まし合って生きてきた、いわば兄弟のようなものなのだから。むしろ特別視することのどこが悪いのだと思う。
だからそう、つまり問題は、その感情の正体だった。
『リオを友人としか見られない?』
先日のキースの言葉は、未だ胸に突き刺さり、ウィルを苛んでいる。
自分は彼女を友人として見ているのか?それとも……
ウィルは執務机に行儀悪く片肘をつくと、物憂げに頬を支えた。
答えの出ない悩みに、苛立ちは日に日に増していく。
そもそも自分たちは友人として上手くいっていたのだ、それをかきまわす必要など何処にもない。
逃げだと自覚しつつもウィルは、そう自分に言い聞かせようとしていた。
友達は永遠ではないなどとキースは偉そうに語っていたけれど、どんな関係も――血のつながった家族でさえ――永遠などない。要は、最善の付き合いが出来るかどうか、それだけなのだ。
と、その時――ガタリと遠くで物音がした。ウィルは即座に立ち上がる。
リオだと、確信していた。
帰りの遅すぎることを、一言忠告するくらいは許されるべきだろう。
自分でも気づかぬほど険しい顔のまま、ウィルは自室をあとにした。
*
――すっかり遅くなっちゃった
気付けば深夜の十二時を過ぎていて、リオは慌てて帰路についた。
ルイスの馬車でランズベルク家に送り届けられたリオは、邸宅の扉をそっと叩いた。
予定よりうんと遅い時間になってしまったけれど、家令か、夜勤の誰かは起きているはずだった。と、ややあって扉が内に開かれる。ほっとしながら「すみません、ただいま戻りました」と声をかける。
すると――
「お帰り」
豪奢な扉を引いた親友が、リオを見下ろしていた。まさか彼が出て来るなんて思ってもいなかったから、リオは声を上ずらせてしまう。
「ただいま……起きてたんだ」
「誰のせいだよ」
ぶっきらぼうに答えたウィルは、扉を押さえたままリオが屋敷に入るのを待っていた。リオがすぐに動けなかったのは、ウィルが一瞬、別人に見えたからだ。灯りを落としたエントランスはほとんど真っ暗で、ほのかな月明かりだけが頼りだった。昏すぎて、表情が見えない。
機嫌がよくないことだけは、嫌と言うほどわかったけれど。
「早く入れば」
「ん……」
リオが屋敷に入ると、背後でウィルがゆっくりと扉を閉めて、鍵をかける。
リオは振り返り、未だ表情の見えない親友に向き直った。
「あの、待っててくれてありがとう。遅くなって、本当にごめん」
「あいつは?帰ったのか」
「ルイスさん……?うん、アデル様に挨拶したそうだったけど、もう遅いからって」
「本当にな、遅すぎる。何時かわかってんのか」
「うん……ごめん」
ウィルの低い声は張り上げているわけでもないのに、ふたりきりのエントランスによく響いた。
「外泊届出してるならまだしも、休暇だろ。いくらアデルがお前に甘いからって、少しは考えろよ」
親友のらしくない冷静さが、かえって怖い。
リオは言い返すことが出来なくて、ただ俯いた。
休暇は今日丸一日だった。
特に門限を強いられているわけではないけれど、確かに一番外出するキースでさえ、ここまで遅くなることは稀だった。
ウィルが怒るのも無理はないと、リオは気落ちする。
自分はアーデルハイトを守る騎士なのだ。主人のそばに侍ることを一番に考えるべきだったのに。
意識が低すぎた。
「あの……本当にごめん。こんなに遅くなるつもりはなかったんだけど、お店に時計がかかってなくて、何時か、分からなくなっちゃって」
正面で、深い息を吐かれるのがわかった。
「時計ぐらい持ってくだろ、普通」
リオはぎゅっと拳を握りしめる。
だって初めてだったのだ。普通なんて分からない。とにかく失礼のないように振る舞わなければと必死で、そこまで気が回らなかった。でもそんなのは、言い訳にしかならない。
「うん。そうだね……うっかりしてた。次からはちゃんと持っていくよ」
反省はしていた。
けれど、その時はとにかく早くこの会話を切り上げたくて、深く考えないで発言していた。
ウィルとこんな、剣呑な空気になるだなんていつぶりだろうか。子供の頃は些細な言い合いで喧嘩をしたりもしていたけれど、今この状況が、そんな可愛らしいものではないことだけはわかっていた。
ウィルはリオの言動に、失望していた。
なんて常識のない女だと。
リオは必死に弁解を試みようと思考を巡らす――
しかし、リオの無意識の一言は、またしてもウィルの神経を逆なでしてしまったらしい。
刺すような言葉が、リオを貫いた。
「……次?」
リオが顔をあげる。
見たこともない程無表情の親友が、そこにいた。
「またあいつと会うのか?」
呆れたような、突き放すような声と表情に、リオは全身をこわばらせる。
違うよ。
次っていうのは、そういう意味じゃなくて。
今日が最初で最後だったの。
だからもう、ルイスとは会わないよ。
そう言おうとしたのに、上手く唇を動かせない。
これ以上の発言で、事態が悪化するのが怖かった。
「リオ」
ウィルが返事を急かすように囁く。
一歩近づかれ、リオは身を引きそうになった。途端、さりげなく二の腕を掴まれる。
「どうなんだよ」
「……っ会わないよ」
慌てて答える。けれど、腕の力は引かない。触れられたそこだけがひどく熱かった。ウィルの体温は、平常時でもリオより高い。
「本当に?」
リオは硬直する身体を叱咤し、なんとか顎をひいた。
彼にここまでの恐怖を感じたのは、初めてだった。
「本当だよ、だから離して……痛い」
「……」
「ウィル」
懇願するように見上げれば、灰がかった青い瞳とかちあう。
ウィルは少しの間沈黙したあと、言った。
「なあ、リオ」
「……なに?」
「ずっと聞こうと思ってたんだけど」
「……」
「お前さ、オレのこと、どう思ってるんだ」
それが、どんな意味で問うているのか、リオは瞬時にわかって、だから再び凍り付いた。
「どうって」
リオは笑って返そうとした。
いつも通り、大切な親友と思っていると言えばよかった。簡単なことだった。
しかし、リオが口を開く前に、ウィルが告白する。
「オレはお前が好きだよ、大切に思ってる」
知っている。子供の頃から、何度も言われた。
「……うん」
「だから、過保護だって言われても帰りが遅いと心配でたまらない。他の男といると思うと、むかつく」
「うん、ありがとう。僕もウィルのこと好きだよ」
けれど今夜は、いつも通りには終わらなかった。
リオを捕らえるウィルの手が、強さを増す。痛い程だった。
「それは男として?友達として?」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
「オレはずっと分からなかった。でも今、分かった。たぶんオレはお前を……友達以上に思ってる」
だから、と続けた。
「白状する。最近、稽古で本気出せてなかった。悪いと思ってる、偉そうなこと言っといてって……でも駄目なんだ。リオが怪我すると思うと、思う様に出来ない」
じゃあどうして今は、こんなに強く掴んでくるだろう。
「……ウィル、わたし、そんなにヤワじゃないよ」
「知ってる。でも駄目なんだ」
「……友達じゃいられないってこと?」
リオが聞けば、ウィルは苦し気に顔を歪めて笑んだ。
「――そっちの方が、楽だけどな」
リオは狼狽えた。
目の前の人物が、ウィルじゃないみたいで、夢を見ているようで。
「リオ、返事は」
「……わたし、は」
このまま、思いを打ち明けてもいいのだろうか。
リオは目の前で背を屈めるウィルを見つめながら、唇をかむ。
ずっと言わないつもりだった。
だって自分たちはずっと友達で、だからこそ一緒にいられたのだ。
恋人なんて、どう接すればいいのかわからないし、何よりリオは、女の子らしくない。
アーデルハイトみたいに美しくもなければ教養もなく、
普通の女の子みたいな恰好にも抵抗がある。
髪だってこんなに短いし、化粧も出来ない。
自信があるとすれば、剣の腕だけだった。
それだけがリオの矜持で、武器で、ウィルといられる理由だった。
「リオ、教えてくれ」
ウィルが優しく、囁く。
「……っわたし、はね」
「うん」
リオは迷った。
怖かった。
思いを伝えることで、関係が壊れるのが、ずっと怖かった。
ウィルを困らせたくないとか、そんな高尚な気持ちじゃない。
ただ自分が傷つきたくなかっただけだった。
傷つくぐらいなら、友達としてずっと笑っていられる位置にいたかった。
ただの臆病者だった。
ウィルや、ルイスと違って――
「ウィル……ウィルは、怖くないの?」
「何が?」
「だって……もし、もしわたしが、友達として見てるって言ったら……ぎくしゃく、しちゃうでしょ?今まで通りじゃ、いられないでしょ」
「まあ、そうだけど」
ウィルはふっと肩の力を抜く。
「オレ、そんなに辛抱強くないから。黙っとくなんて無理」
そうして小さく笑うと、小首をかしげた。
「で、返事は」
「……ちょっと、ちょっと待って」
もうちょっとだけ待って。
言った途端、涙があふれてきた。
おかしい、ジャスティンと約束をしたあの日から、泣くことなんてほとんどなかったのに。
次から次に、涙があふれてきた。
言葉に出来ない思いが、零れているみたいに。
目の前で、ウィルが目を見開くのがわかっても、止まらなかった。
どうして泣くんだ、と慌てふためいている。
リオはわからないとかぶりを振った。
嬉しいのと苦しいのと、幸せと不安で、胸はいっぱいだった。
リオは今日、ルイスと一日一緒だった。
ルイスは今頃、幸せに浸っているだろうか、それとも失恋に心を痛めているだろうか。
その、どちらもかもしれない。
リオは気付けば、しゃがみこんだウィルの温かくて広い胸の中に包まれていた。
子供をあやすみたいに、ウィルの手はリオの背を優しく叩いていた。
涙はしだいに薄れ、かわりに心地いい倦怠感に包まれる。
ずっとこうしていたい。
暗闇のエントランスで寄り添ったふたりは、長い事そうしていた。
そうして、ようやく落ち着いたリオがウィルの腕の中で顔をあげる。
「ウィル……」
「うん」
「ウィル……あのね」
わたしは、ずっと――
リオのたどたどしい、長い長い告白に、ウィルはゆっくりと耳を傾けた。
いつまでもいつまでも、耳を傾けていた。




