(最初で最後の一日に)2
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楽しい時間というものは、どうしてこうもあっさりと過ぎてしまうのだろう
夢のような一日の終わり。
ルイスはそんな風なことを口にしようとして、けれどすぐに止めた。
ただでさえ良心に付け込むような強引な誘い方をしてしまったのだ。
これ以上、同情を買うわけにはいかない。そんなのは、あまりにも情けなさ過ぎる。
先ほどは彼女に一切の金銭的負担をかけたくなくて、狡い言葉を使ってしまったけれど。
身勝手で、おこがましい表現をすればそう、出来ればルイスはリオにも今日一日を楽しんで欲しかった。果たして目論見は、上手くいっただろうか。
ディナーにと選んだその場所は、王都でも随一を誇る高級料理店だ。ホテルの最上階に構えたその店は、高額な料金と引き換えに一流の料理と美しい夜景を一望できた。にも関わらず、ルイスがそれに目を向けた時間はほんの数分にも満たなかった。そんなものよりも目に焼き付けて置きたい人が、そこにいたからだ。
「リス、可愛かったですね」
「人馴れしてて、驚きました」
「美術館も広くて」
「それに、あの大きな絵、描くの大変だったでしょうね」
「彫刻って、あれどうやって造るんでしょう」
リオは、今日一日を振り返るように、どれもこれも初めてだった、面白かったと、始終笑っていた。今朝、迎えにあがった時は幾分緊張気味だった表情も声も、今はすっかりくだけている。どうやら、楽しんでもらえたようだと、ルイスは安堵した。
そうしてそんな幸せな時間にもそろそろ、終わりが近づいていた。
コース料理はとっくにデザートまで平らげてしまっていたし、外の夜景からはだんだんと灯りが消えている。
けれどルイスは、言い出せなかった。食後の珈琲を二杯もお代わりして、ぽつぽつと話を長引かせ、個室に時計がないことを、リオが時計を持ち合わせていないらしいことを内心喜んで、もう少しだけと延命する。悪あがきなどするつもりはなかったのに。
と、会話が数秒途切れたところで、リオが言った。
「ルイスさん、今日は何から何までありがとうございました」
とうとう告げられた別れの常套句に、ツンと胸の奥を穿つような鋭い痛みが走る。
無理やりに押し出した声が震えなくて良かった。
「僕の方こそ、無理を聞いてくださってありがとうございました。」
リオと初めて会った時からルイスを突き動かす、甘く苦しい痛み。それを知ってからのルイスは、今までのルイスではなくなっていた。
らしくもなく旧友を訪ね
らしくもなく女性だらけの雑貨店と菓子店を往復し
らしくもなく自分から友人たちと連絡をとり
“女性の喜ぶもの”を聞いて回った。
リオと知り合ってからは、ずっとそうだ。せっかく手に入れた本の内容も頭には入らず、ふと気付けば彼女のことばかりを考えていて。いてもたってもおられず、彼女の過去を調べた。暴いてしまった過酷な生い立ちは、平凡に暮らしてきたルイスを驚愕させるにあまりあるもので――それからは会うたびにリオの顔や手に走る古傷が目について仕方がなかった。
さっき握り返された手も、そうだ。
すっぽりと包み込んでしまえたその手は、無数の剣ダコで覆われており、ざらりとした硬い皮膚の感触に、強く握り返しそうになった。
これまでの彼女の痛みを想い、せめてこれからをどうにか守れないかと願い、しかしその申し出は既に断られていたのだったと思いだした。
潔く、を装いルイスは笑顔を張り付ける。未練たらしく泣くのは、あとでいい。
「楽しんで頂けました?」
「はい、とても」
緩やかに微笑んでくれるリオは、この先もずっと騎士でいたいと言う。
いったいなぜ。
軍律違反を許された今、他に道はたくさんあるだろうに。それこそ、女性として生きる道も若い彼女には残されているはずだった。
最後に、とルイスがその疑問を口にすると、リオは迷うことなく答えた。まるでその解答を最初から用意していたかのように。
「軍にいる友人が好きなんです。皆、優しくて、面白くて、いつも笑わかせてくれるし――特にウィル……えっと、北軍から一緒の親友がいるんですけど――特に彼は、小さい頃から色んなことを教えてくれて、助けてくれて……だから彼と、皆ともこれからも頑張りたいんです」
ウィル。
リオの唇から零れたその名に、ルイスはふと思い出した。
ランズベルク家の廊下ですれ違った、リオと同じ騎士服を纏った青年の姿を。
ウィリアム・ウィンズ。リオの過去を調べる中で、一等出てきた名前だったから、よく記憶している。問題の裁判では証言台に上り、リオの無実を主張し、最後には英雄ディートハルトと戦ったアーデルハイトの筆頭騎士。
「彼なら僕も一度、挨拶しましたよ」
率直に言えば、愛想のない男だった。
すれ違い様、声をかけたルイスにウィリアムは一言「どうも」と短く唇を動かしただけだった。クセのない黒髪から覗いた冷めた灰青の瞳は今でもよく覚えている。リオの同志だとは到底思えず、酷く緊張した。
そんな男が、彼女の親友なのか。
「騎士らしい人、でしたね」
表現を和らげて言えば、リオはくすと笑った。
「喜ぶと思います。彼、騎士になるのが小さな頃からの夢だったから」
「リオさんも?」
「いいえ。私は違います。子供の頃は何になりたいかなんて考えたこともありませんでしたよ」
言って、リオはふっと肩の力を抜いた。
「たぶん、引きずられたんだと思います」
今までになく優しい色を宿した琥珀色の瞳に、ルイスは魅了された。
そうして気付いた。リオの心の在処を。
――お前らしくないな
デートの計画について相談をした男友達は、そう言って笑っていた。
自分でもそう思う。でもそれが恋なのかもしれなかった。自我を抑えきれず、どうしようもなく我儘になり、満たされないのに追いかけ続けてしまい――厄介なのは、喪失の痛みすら甘く感じてしまうことだった。
「そうですか」
ここで今一度諦めきれないなどと言ったら、リオはどう反応するのだろう。未練がましく首をもたげた獣を、ルイスは矜持と理性で言い聞かせた。
そうして笑顔の仮面をかぶり続ける。
「応援しています。頑張ってください」
最初で最後の一日を、幸福のうちに終わらせるために。




