(最初で最後の一日に)1
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デートのその日、リオは初めて舞台と言うものを間近に見た。
「どうでした?」
「面白かったです、とっても。皆、すごくて。感動しました」
やや興奮気味のリオに、ルイスはほっとしたように笑う。
「それは、良かったです」
煌びやかな衣装に見目麗しい役者たち、それから心を震わせる台詞の数々―――リオはあっという間に夢中になっていた。
北軍にいた頃、極稀に訪れる慰問団の短い曲芸は見たことがあったけれど、今日目にした舞台は、それとは全くの別物であった。
「“灰かぶり姫”―――今一番人気の演目だそうですよ」
向かいの席についたルイスが、帰り際に買ったパンフレットを開き、教えてくれる。
リオは「そうなんですね」と頷いた。
観劇を終えたリオとルイスは、遅めの昼食についていた。
ルイスが予約していた、この小さなレストランは劇場から三つ先の通りにあった。花柄のクロスが掛けられた二人用のテーブルには、中央に小さな花瓶が置いてある。黄色い野花が揺れていた。
こじんまりとした古い店だったが、店員は明るく、奥からは良い香りが漂ってきていた。
リオは期待を込めて料理を待ちながら、ルイスがリオにもと買ってくれたパンフレットを開いた。ストーリーと簡単な相関図、それから役者のプロフィールが羅列されていた。
リオは他の演目を知らない。だから比べることは出来ないけれど、人気が出る理由は十分に分かった。
ストーリーは初見のリオにもわかりやすく、また感情移入もしやすかった。
端的に言えば『灰かぶり』と呼ばれる薄幸の娘が、王子に見初められるという話なのだが、意地悪な継母の演技が素晴らしくリアルで、見ているこちらまでが苦しめられるほどだったのだ。
「ハラハラしてしまいましたけど、主人公が幸せになって良かったです」
リオが言うと、ルイスは「ですね」と笑った。
「やっぱりハッピーエンドが良いですよね」
と、焼き立てのパンと共に大皿に乗った貝料理が運ばれてきた。
ルイスが注文していたものだ。
「貝って、珍しいですね」
これまた初めて目にする料理を前に、リオはルイスを見やった。ルイスは「店一番のオススメなんです」と笑う。
「これ、外国の料理なんですけど、すごく美味しいんですよ。パンをスープに浸して食べてみてください」
言われるがまま、リオはまだ温かいパンを貝料理のスープに浸した。パンからスープが零れないように顔を近づけ、口に入れる。途端、貝の出汁が染み出た甘くてしょっぱいスープが口内を満たしていった。リオは思わず目を見開く。
美味しい。
感情が伝わったのか、ルイスは更に笑って、自分も、とパンに手を伸ばした。
「僕も久しぶりに食べました―――ああ、やっぱり美味しいですね」
リオが頼んでみた魚料理も当たりだった。どちらも特段凝っている風には見えないのに、また来たいと思えるくらいには美味かった。
「このお店、前から知ってらっしゃったんですか」
尋ねたリオに、ルイスは「ええ」と頷く。
「子供の頃は父に連れられてしょっちゅう来ていました。今も、本屋に寄った帰りに、たまに」
喫茶も兼ねているらしい店内には、確かに一人客も多かった。それぞれ本を広げたり、書き物をしたりと、思い思いに過ごしている。読書が趣味だと言うルイスにはぴったりの店かもしれなかった。
「連れてきてくださってありがとうございます」
「どういたしまして」
ルイスはにこりと笑うと、その顔を右上方――漆喰の壁に掛けられた丸形の時計へと向けた。午後の三時を、少しまわったところだった。
「そろそろ行きましょうか」
「はい」
この後は近くの公園を散策した後、美術館に行き、それから夕食の予定だった。
リオは胸ポケットから財布を取り出して席を立つ。
注文した分の値段はきちんと頭で計算しておいた。
いつもより多めにいれておいたから、代金は充分足りるはず。
しかし、ルイスにさりげなく背を押されたリオは、そのまま滑るように店を出てしまう。
え?
店員も当然のように頭を下げるだけで、追いかけてくる気配もない。
ついに表通りに出たリオは、慌ててルイスを見上げた。店の扉が閉まってしまう。
「ルイスさん、支払いが」
「済んでますから大丈夫ですよ」
「済んでるって、でも」
「いいですから」
歩き出そうとするルイスをリオは強く引き留める。
「いけません。さっきの観劇代だってまだ払ってないのに」
ボックス席、と呼ばれたその席がひとりいくらするものなのか、リオには見当もつかない。しかし客層から見て安価ではないことだけはうかがい知れた。入退場は個々に案内され、飲み物まで提供されたのだから。しかも演目は今一番人気があるものだと言う。相応の価値が付くだろう。
リオは二つ折りの財布を握りしめる。
手元にある分で足りなければ、銀行にもいくらかは預けてあった。払えないことはない、はずだ。
「リオさん」
往来の隅に寄って、ルイスは言った。
「僕、アデルの友人でいられるくらいにはお坊ちゃんなんですよ?今日くらい、かっこつけさせてください」
納得できないリオの手を、ルイスが引いた。
「さあ。そんなものしまってしまって。公園にですね、今リスの赤ちゃんがいるそうなんです。リスは好きですか?」
あえてだろうか。
明るい声がかえって切なく聞こえた。もうこの話は止めましょうと。
今日一日を楽しく過ごしましょうと。
リオは目的を思い出し、言った。
「……動物は、好きです」
「そんな気がしてました」
歩き出しながら、リオは財布を胸の内ポケットにしまう。
と、すれ違った娘の長い髪から、ほんのりと良い香りがした。
見知らぬ娘は、恋人らしき男性と寄り添い、通り過ぎる。
リオはふと、不安になった。
――これ、ちゃんとデートになってるのかな
服は見苦しくはないはずだった。
皺ひとつないシャツに、生成りのズボン、それから仕立てたばかりの濃紺のジャケット。 短い髪は、アーデルハイトの侍女が見栄え良く整えてくれた。だからいつもよりはマシなはず。だけれど。
――アデル様に言われたみたいに、女の子の恰好をしてきた方が良かったかな
しかし、アーデルハイトに勧められた、飾りのついたブラウスも、花模様のワンピースも、細腰を強調するようなスカートのどれも、手に取る気にはなれなかった。それこそ女装にしか見えないような気がして。
リオは少し前を行くルイスの背を見上げた。
優しいルイスは何も言わないけれど、リオが少しでも女性らしくすることを望んだりはしていなかっただろうか。
こんなにも綿密な計画を立ててくれたルイスと自分の心構えが釣り合っている気がしなくて、自然と俯きがちになる。これではまるで男の二人連れだ。
リオはキースに聞いておいたデートの心得を必死に思い出す。
ああ、そうだ。と軽く掴まれていたルイスの手を握り返してみた。瞬間、ルイスの動きが一瞬だけ止まる。
「……こっち、曲がります」
「あ、はい」
気のせいだったろうか。
ルイスは別段変わった風もなく角を曲がっていく。なんだ、キースも大したことないな。リオはさりげなくその手を見下ろす
節くれの少ない滑らかな手。
ウィルのそれとは、全く違っていた。




