(憧憬)
北軍編と都編の間、リオの後輩カルロ視点のお話です。
「痛むよね」
跪いたリオに見上げられて、カルロは慌てて首を振った。
「いえ、このくらい、平気です」
挫いた右足は本当はひどく痛んでいたのだけれど、それどころではなかった。
憧れの先輩と医務室にふたりきり。
そんな状態で平静でいられるほど、カルロの神経は図太くできてはいなかった。無意識のうちに背筋は張り、指先にまで力が込もる。
背もたれのない木椅子に腰かけたカルロの足下に、軍学校の先輩――リオは片膝をつき、脹脛の半ばまでズボンを捲し上げたカルロの右足首に、そっと軟膏を塗っていく。細い指先の感触がこそばゆかった。
「ごめんね、強く打ち過ぎた」
言ったリオに、カルロは再び強く首を振る。
「いいえ……!僕が上手く受けられなかったからいけないんです」
その日の午後の鍛錬は、上級生との実践試合だった。カルロの相手はリオで、練習試合用の木剣で打ち合いをしていた。とは言っても、リオと昨年入軍したばかりのカルロでは体格差も経験差も開きすぎている。当然相手になるはずもなく、実際は上級生の身体を借りたただの打ち込み練習になっていた。
だがカルロは気合に満ちていた。選ばれた相手が単なる上級生ではなく、常に成績上位を誇るリオだったからだ。
相手の割り振りは、上級生と下級生との成績を鑑みて担当教官が決める。つまりリオの相手に選ばれたカルロもまた優等生だと認められたということだった。その事実が誇らしく、また日々の鍛錬は無駄ではなかったのだと実感出来て、素直に嬉しかった。
それになにより、カルロは、この大人しい先輩が好きだった。
リオがふと顔をあげる。
「これ、臭いがすごいけどよく効くんだ。ちょっとだけ我慢してね」
「はい、ありがとうございます」
カルロは緊張を解けないまま硬い声をあげる。
リオは医務室に常備してある薬ではなく、友人が調合してくれたという私物の軟膏を塗ってくれた。確かにツンとした臭いはきついが、今のカルロには大した問題ではない。
打ち合いの最中、リオの一撃を避けようとしたカルロは足をもつらせ、体勢を崩し、運悪くリオの下ろした木剣を右足首に受けてしまった。
練習中の怪我など日常茶飯事であるし、あれは明らかにカルロの過失だった。なのに、逆に剣を止められなかったと謝られ、蒼白になったリオに、医務室まで抱えこまれたのだ。
恥ずかしさとカッコ悪さに、消えてしまいたくなる。
有頂天になっていたのだ。リオの相手に選ばれたことにも、打ち合いの最中リオに褒められたことにも。
「でもカルロ、本当に強くなったね。びっくりした」
軟膏に蓋をしながら、リオが言った。
「最初の頃は素振りも続かなかったのに」
立ち上がり、医療道具の揃えてある棚の戸を開ける。中から包帯を取り出して再びカルロの足下にしゃがんだ。リオの柔らかそうな頭髪の中央に、つむじが見える。ふたつあった。
「あの頃は、まだ……ここに慣れてなかったから」
言い訳をするみたいに呟く。
そうだ。慣れてなかっただけ。それに、正直に言えばやる気も萎えていた。あまりの厳しい毎日に―――。
カルロは別に軍人になりたかったわけじゃない。
元々は裕福な商家の三男坊で、こんな肉体的苦労をする生活とは無縁の日々を送っていた。父の家業が傾くまでは。
歳の離れた長兄と次兄が復興に尽力する一方、幼いカルロはただの足手まといにしかならなかった。子供ながら、その無力を敏感に感じ取ったカルロは父の言うことを聞き、入軍を決意した。九つのことだった。
軍学校であれば、学費もかからず、食うには困らないし、将来も何かしらの職につくことが出来る。
兵隊を募る勧誘係の軍人は、そう嘯いて、カルロと同い年くらいの少年たちを引き連れていた。まるで連行されるみたいだと思ったのは、あながち間違いではなかっただろう。
いざ始まった軍生活は、囚人のそれとなんら変わりなかった。(『囚人の一日』という本をカルロは読んだことがあったのだ)
決められた時間に起き、畑を耕し、訓練を受け、また決まった時間に眠る。
そこかしこでは教官たちの目が光っており、少しでも遅れたり、違反が見つかった者は容赦のない体罰を受けるのだ。
窮屈で恐ろしい毎日に嫌気がさし、けれど逃げ出すこともかなわず、カルロは欝々とした日々を送っていた。
そんな折だ。リオの存在を知ったのは。
『大丈夫?』
日課の訓練中。
百回の素振りが続かず、五十九回目でしゃがんでしまったカルロに近寄る影があった。また叱責かと震えたカルロに、しかしかけられた言葉は穏やかなものだった。
『具合悪い?―――ああ、血豆が出来てるね』
そっとそばにしゃがみこんだ影は、上級生で。
練習用の木剣を取り落としてしまったカルロの手を支えるように持ち上げた。
『教官。医務室に連れてもいいですか』
言った彼に、見張りの教官はすぐに許可を与えた。
上級生はカルロの身体を支えるように立ち上がらせる―――まあ、つまり、その上級生こそが、リオだったわけだ。
『こんな手じゃ、剣なんて握れないよね』
リオはカルロを医務室に連れていくと、潰れた血豆から出ている血を洗い流し、消毒し(とても痛かった)、布を巻いて処置をしてくれた。
そのリオの胸に、優秀生のバッヂを見つけてカルロは先ほどの教官の態度を納得した。
この目の前のひょろりとした上級生は、期にひとりだけ与えられる名誉を手にしていた。
バッヂは、教官たちから信頼を置かれている証なのだ。
だからだろうか。とカルロは思った。
リオは、他の上級生とは雰囲気がまるで違った。
他の上級生たちのように荒々しくもなく、偉ぶったところもなく、物静かで、どこか達観したような、一歩引いたような場所にいる、そんな印象。
『あのね、ずっと見てたんだけど』
『は、はい』
突然声をかけられ、カルロは肩を震わせた。するとリオは一瞬きょとんとして、すぐに苦笑する。そして『そんなに畏まらなくていいよ』と言った。そんなところも、他の上級生とは違っていた。
『君、手が小さいから、もう一回り小さい木剣にしたらどうかな。その方が軽いし、豆もこんなにひどくは出来ないと思う』
『……でも、他の子は皆この剣で』
『同じ歳でもね、手の大きさとか、身体の成長速度って違うんだよ。自分の身体に合った道具を使わなくちゃ痛いばっかりで全然修行にならない』
『……そう、なんですか?』
『うん。僕はそう思う。なにを隠そう僕がそうだから』
いたずらっ子のように微笑んで、リオは言った。言われてみれば、上級生にしては彼も小柄な方だった。柔らかな声は続く。
『それで慣れたら、もっと大きい剣に変えればいいんだよ。焦らないでさ』
初めて受ける指摘に、カルロは目を見開く。
カルロはそれまで、ただ自分には体力も才能もないのだと思っていた。実際に教官は『根性なし』と鞭を振ってきたし、同期生たちは『軟弱な奴』とからかってきた。
けれどリオは、違うという。
木剣が合っていないだけだと。
でも、本当にそうだろうか?剣を変えたくらいで、自分は強くなれるのだろうか。
カルロはいぶかしんだ。
『でも、それってズルじゃないんですか』
リオの言う通り、軽い剣を手にした時点で、カルロは間違いなく優位になるだろう。でも、他の子は変わらず重い剣を振るうのだ。それで百回の素振りが成功したとしても、平等でない分、やりきったという気持ちにはならないだろう。
しかしリオは首を左右に振る。
『ズルじゃないよ。だって君は身体が小さいもの。服だって靴だって、自分に合ったサイズを選ぶだろ?ぶかぶかだったり、きつすぎたら、まともに歩けない。道具だってそうだよ。自分に合ったものじゃないと、本当の力って出せないと思う』
リオは言って、自分の手のひらを見つめた。
『焦る気持ちはわかるけどね―――皆、すごいもの』
そう囁いたリオの横顔は、ひどく寂し気だった。
カルロは呟く。
『優秀生なのに……焦ったことがあるんですか……?』
こちらに顔を向けたリオは、小さく頷いた。
『うん。皆に置いて行かれたくなくて、必死だった。そしたらほら』
胸元のバッヂを誇らしげに見せて来る。
『褒めてもらえた』
綺麗な笑顔に、カルロは思わず見とれる。
リオは『無理にとは言わないけどさ』と付け足す。
『今度、僕が昔使ってた木剣持ってきてあげる。怪我が治ったらそれでやってみなよ。試合で勝てたら面白いよ、結構』
そう最後まで優しく言い置いて、リオは去った。
――別に、軍人になりたいわけじゃない。
その思いは、あれから一年経った今、大きく形を変えていた。
思い出から帰還したカルロは、目の前のリオを見つめる。
リオの助言のおかげで、カルロの軍生活はずっと楽になった。
リオに借りた木剣で訓練するようになってから、カルロは百回の素振りに耐えることが出来るようになり、また、日に日に筋力もついていった。今では、皆と同じサイズの木剣を使用できるまでになり、気軽に話せる友人も出来た。
「歩ける?」
カルロの右足首に包帯を巻き終えたリオが尋ねる。
カルロはおそるおそる立ち上がった。
なんとか地に立つことは出来る。
「はい」
「良かった。でも、しばらくは安静にね」
ほっと息をついたリオは、余った包帯をくるくるとまき直し、元の棚へ戻した。
その後ろ姿を、カルロはじっと見つめる。
カルロの伸びた身長分、また少し、目線が近くなっていた。
(これを指摘するとリオは珍しくむっとするけれど)リオの身長は伸び悩んでいる。追い付くのに、そう長い時間はかからないだろう。あと数年もすれば、肩を並べることが出来る。
そうしたら、もっと一緒に訓練をしたり、同じ任務につけるだろうか。
カルロはこの頃、そんなことを夢想するようになっていた。
その為には、もっと強く、もっと努力をしなければいけない。
けれど、厳しい訓練のすべてが、入軍当初のように苦ではなくなっていた。
頑張れば頑張るほどリオは誉めてくれるし、気付いてくれる。
認めて貰えれば、ずっとずっといつまでも頑張れるのだと、カルロは知った。
優秀生のリオと二人きりになれる機会など滅多にない。
カルロは意を決して口を開いた。いつかあなたの隣に立ちたいと、そう告げようとした。あなたに憧れていると、ありがとうと。「リオせんぱ――」その時。
「リオ」
医務室の白塗りの扉が外に向かって開く。
現れたのは、あいつ。
評判がよくないことで有名の上級生だった。
「ウィル」
振り向いたリオに、評判のよくない上級生――ウィリアム・ウィンズが歩み寄る。練習試合後のためか、クセのない黒髪は乱れ、白いシャツが筋肉質な肌に張り付いていた。
灰がかった青い瞳がちらとカルロを見つめたが、すぐにリオに戻される。
ウィリアムはひどく乱暴な上級生だった。リオと同等、いや、下手するとそれ以上に強いことは間違いないのだけれど、そんなことはさておき――怖いのだ、彼そのものが。
威圧するような視線に、飛ばされる怒号。
ウィリアムが貴族家出身だと知って、だからあんなに優遇されてるんだ、と陰口をたたいてしまったカルロは一度、彼に制裁を受けている。
そのあとリオから「ウィルはずるしてないよ」と諭され、自分が悪かったのだと反省はした。けれど、いきなり殴ることはないと思った。リオなら、そんなことは絶対にしない。
とにかく、そんな経緯もあってカルロはウィリアムが苦手だった。
ウィリアムがシャツの袖で滝のように零れる汗をぬぐう。
「まだかかるか?オレの相手も怪我したんだけど」
「もう終わったから大丈夫。あれ?相手の子は?」
リオは戸口を見つめたが、誰かがいるような気配はない。
ウィリアムが言った。
「失神してるから、今ジエン達が運んでる」
「……加減してあげなよ」
ほら、怖い。
カルロは、そんな暴力的なウィリアムとリオが親友だという事実が、信じられなかった。
だってふたりは性格が違い過ぎる。
リオは大人しく、ウィリアムはうるさい。
リオは冷静だけれど、ウィリアムはすぐに熱くなる。
けれど、ふたりは間違いなく親友だった。
気付けばほとんどいつも一緒にいるし(だからカルロは容易に近づけない)、ウィリアムがリオに怒鳴っているところは一度も見たことがない。また、怒っているウィリアムを前にしても、少しも動じないのはリオだけだった。宥め役、と言ってもいい。
「ウィルはいい奴だよ」とリオは言うけれど、カルロにはまだ理解出来なかった。どの辺りをさして、いい奴、なのか。
向かい合う二人を前にして、カルロは唇を噛みしめた。
リオと平然と肩を並べているウィリアムが羨ましかったからだ。
いつかカルロが立ちたい位置に、ウィリアムは君臨している。
リオの信頼を得、部屋だって同じで、いつも一緒だ。
ずるい。
「リオ先輩」
振り向いて欲しくてかけた声は、どこか切羽詰まったようになった。リオとウィリアムが同時に振りむく。カルロは両手を強く拳型に握りしめた。
隣に立ちたい、なんてとても言えなかった。こんな情けない姿では。
でも、いつかは。
そんな思いを秘めて、カルロはリオを見つめる。
「僕も手伝います」
「でもカルロ、足が」
「このくらいへっちゃらです」
言って、足を振って見せる。リオが上手く固定してくれたおかげか、あのツンとした臭いの薬のせいか、痛みは最初よりは引いていた。それでも心配するリオを遮って、カルロは先に歩き出す。隣はまだ、歩けないから。
「カルロ」
と、かけられた声は、ウィリアムのものだった。
びくついて振り返ったカルロは仰天した。ウィリアムが笑っていたからだ。自分に向けて。
ウィリアムがこんな風に柔らかく笑うなど、初めて知った。でも、どうして。なんで笑ってるんだろう。
ウィリアムが言った。
「お前偉いな。ホントは結構痛いだろ?リオって加減しない時あるから」
「したよ……!」
隣で抗議するリオを無視して、ウィリアムが近寄って来る。リオより頭ひとつ分、高かった。
「でも我慢はするな。後から来るぞ」
今は休んでろ、と言いながら、カルロの頭を片手でぐりぐりと撫で、通り過ぎていく。
カルロは呆然と、ぐしゃぐしゃになった頭のまま立ち尽くした。
ウィリアムがそんなことを言うなんて、意外過ぎて。
でも、たぶんそれが本来のウィリアムなのだった。
その証拠に、リオは平然としている。
「ウィルは頑張り屋さんが好きなんだよ。カルロみたいな――よかったね」
頑張り屋さん、と呼ばれて、カルロは顔を赤くする。
ウィリアムのことはまだ怖いけれど、リオと彼が親友だという理由が、少しわかった。ウィリアムもそう、リオ同様、頑張りを認めてくれる人だった―――多少、乱暴ではあるけれど。
カルロは息を大きく吸い込み、こちらに手を振りながら遠ざかる二人の背を見つめる。
憧れの対象が、またひとつ増えてしまいそうだった。
リオに憧れている少年兵はとても多いです。カルロはそのひとり。
読んでくださってありがとうございました。




