(兄妹)
*
「不問?」
呆然としたロゼワルトが言った。
「不問だと?」
がたりと木椅子を鳴らして立ち上がり、判決を下し終えたばかりの裁判長を見据える。裁判長は、静かな瞳でロゼワルトを見返した。
「何か、異議が?」
「あるに決まっている」
噛みつくように言ったロゼワルトは、人差し指で鋭くリオを指し示した。
「あれは!軍律を犯し!我々と貴方がたを騙したのですよ。それを、不問だと」
ぎり、と軋む程歯を擦り合わせる。
「なんの罰も与えず、許すと言うのか」
最後は悲鳴のような響きを持っていた。裁判長はヒステリーを起こした男に冷ややかな視線を送る。
「どうかお静かに。ロゼワルト公。まだ判決の途中です」
すげなくあしらわれ、ロゼワルトは頬をひきつらせた。ほんのわずかだけ、理性が戻る。
ここで裁判長の不興を買うのは不味い。
失態を取り繕うために、ロゼワルトは必死に自身を抑え込んだ。
「……続きが、あるのですか」
「はい」
裁判長はロゼワルトから視線を外し、改めてリオに向き直った。
ロゼワルトも苦々しい思いを抱えたまま、リオを見下ろす。
アーデルハイトが見つけてきた忌々しい小娘。
その澄ました顔を、殴ってやりたい。
隣に佇むウィリアムもだ。
「リオ」
発せられた裁判長の声に、リオが背筋を正した。
「はい」
どのような判決が続くのか。
ロゼワルトは裁判長の声に、耳を傾けた。
「罪人――いや北軍兵士、リオ。敗北とはいえ、先の決闘、見事でした。提出された北軍での功績は、嘘偽りはなかったと見えます。よって我々は、貴方の実力を認め、正式に兵士として迎え入れたいと考えています。但し、八年の長期に渡り虚偽の申告を続けた罪を軽んじることは出来ませんし、女性を起用することは、これから軍本部での正式な決定が必要となります。ですからそれまでは、貴方の身柄は我々の監視下におくこととします。良いですね、リオ」
ロゼワルトは言葉をなくした。
なんだ、その結論は。
リオの畏まった返事が、辺りに響いた。
「はい」
ロゼワルトの混乱は止まらない。
つまりは、リオの罪を許すということで。
つまりは、あの決闘は、無効にはならない。
つまりは、アーデルハイトの勝利は、揺らがないと、言うことだ。
真摯に判決を受け止めたリオに、裁判長がひとつ頷く。
「精進なさい。若き騎士よ」
そうして、その顔を今度はアーデルハイトへと向けた。
「アーデルハイト嬢」
突然名を呼ばれたアーデルハイトが、肩をこわばらせる。
そんな彼女を安心させるように、裁判長は表情を和らげた。
「善い騎士を見つけられましたね。貴女の慧眼には恐れ入りました」
言われたアーデルハイトは数秒呆け、しかしやがて、誇らしげな笑みを返した。それはそれは嬉し気な、そして、自信に満ち溢れた頼もしい笑顔だった。
「でしょう?」
「――リオ!やったな!」
「すごいよ、リオ」
「当たり前の結果なんだよ。だいたいリオは悪いことなんてしてねえんだから」
最初に手を叩いたのは、誰だったか。
気付けば決議の間は、割れんばかりの拍手と寿ぐ者達の歓声に包まれていた。リオはウィルを筆頭に仲間たちに囲まれている。物語で言えば、最後の頁なのだろう。
ロゼワルトは、そんな光景を前に立ち尽くした。
なんだ。
なんなのだ、この茶番は。
ロゼワルトは、リオを抱きしめているアーデルハイトを見下ろした。
感極まって涙を流すその仕草に、言い知れぬ怒りがわいてくる。
ロゼワルトは、涙を浮かべることすら許されぬ身だと言うのに。
女。
それだけの理由で甘やかされすべてを許されてきたアーデルハイトが、幼い頃から憎くて憎くて仕方がなかった。
ロゼワルトは少しの失態も許されなかったのに。
『貴方はランズベルク家を背負って立つ御方なのですから』
そう言ったのは、年老いた家令だった。
三人兄妹の中で、男児は自分だけだったから、自然と家督を継ぐのは自分なのだと言いきかされてきた。皆が自分に期待し、一流の教育を受け、父の仕事の補佐にもついた。
なのに。
あれは懇意にしている貴族を招いての晩餐の最中のこと。
まだ健在だった父が言った。
『この料理は、なんと言ったかな』
父はロゼワルトを見て、尋ねた。父は、ロゼワルトに聞いたのだ。だからロゼワルトが答えようとした。だが、口にしている異国料理の名が咄嗟には出てこなかった。考えていたのはたったの数秒。数秒待てば、料理の名は、出てきたのに。
『リシソワーリよ。冷たいスープって意味』
幼いアーデルハイトの可愛らしい声が、隣から飛んだ。父の視線が、妹に、移る。客も、召使たちもだ。
『まあ、アーデルハイトさんは物知りなのね』
『よく知っていたな』
微笑ましい。と、皆が温かな目を、アーデルハイトに向けた。幼いアーデルハイトは当然よ、と言った風に微笑む。
即座に答えられなかったロゼワルトは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
答えられなかった自分が情けなくて、恥ずかしくて、いたたまれない。あと少しで、思い出せそうだったのに。
どうしてアーデルハイトが答えるんだ。
ロゼワルトは、尋ねられたわけでもないのに口を出したアーデルハイトを煩わしく思った。
アーデルハイトは女だ。家督を継ぐわけでもない。
それなのに、どうして知識をひけらかすようなことをするのだ。
女の仕事は、子供を産み育てることだけ。
だって彼女たちは、それぐらいしか出来ない。
だから貴族の娘達は大切に育てられ、しかるべき家に嫁ぐ。その為だけに、生まれてくる。
女は、男より身体も小さく、か弱い。脆く、頭の足らぬ生き物だ。なんの役にも立たぬ人形やら宝飾品やらを欲しがり、感情の波で動く、理性の乏しい下等な生き物なのだ。
しかしアーデルハイトはその唯一の責を放り出し、あまつさえ兄である自分に逆らってきた。少しばかり頭が回ることは認めるが、それでもアーデルハイトは女だ。責任をはき違えるようなことは、あってならない。
ロゼワルトはリオを見据えたまま、ゆっくりと傍聴席から降りた。
裁判長の判決には、全く正当性がない。
努力をして、頑張って、強い?だからなんだと言うのか。そんな人間、世界にはいくらでもいる。軍律はそれだけで揺らぐような甘い物ではないはずだ。
それをリオとアーデルハイトは、生まれの悲惨さで同情を買い、敵うわけもないディートハルトに立ち向かうことでひたむきさを訴え、皆を篭絡した。
許せない。
ロゼワルトは内から漏れ出る憎しみに、正義感すら覚え始めていた。
正しいのは自分で、間違っているのはリオとアーデルハイトだ。
耄碌した裁判官の目を覚まさせねば。
ロゼワルトは無表情のまま、湧き上がる軍人共の群れを押し分けた。
「おい、なんだよ負け犬!」
怒号が飛ぶが、知ったことではない。
夢を見る少女に、現実を思い知らせねばならなかった。
「リオ」
汗臭い男共の中でもみくちゃにされている少女に、声をかける。
振り返ったその少女が一見、少年に見えたのは、短く切り揃えた髪と鋭い目つきと感情の乏しそうな顔面のせいなのかもしれなかった。この面で自分たち男を騙し、名誉と給金を受けてきたのか。全く図々しい女だ。同じ人種であるアーデルハイトを主君にするのも、頷ける。
「見事だった。だがね私は、出しゃばりな女は好ましくないと思う」
ロゼワルトはそう口にするやいなや、握りしめていた剣を振り上げる。思い知らせねばならなかった。所詮お前は女でしかなく、男である自分に勝てるはずがないと。
ロゼワルトは知っていた。こうして手を振り上げれば、大抵の女は目をつぶり、両手を頭上に掲げて身を守ることを。そして泣いて謝ったところを、寛大なロゼワルトは許すのだ。
リオを許す気などさらさらないが、思い知らせねばならなかった。
思い知らせねばならなかった。
ロゼワルトは剣を思い切り振り下ろす。
「……っ」
と、次の瞬間だった。
たった一瞬の出来事。ロゼワルトの剣が空を切ったと同時、リオの剣の柄が、ロゼワルトの頬にめり込んでいた。長年鍛え上げられたリオの剣は鋭く速く、教え込まれた通りの急所を正確に突く。
脳が揺れ、ロゼワルトは剣を掴んだまま、床に倒れ込んだ。
そんなロゼワルトを避けるように、北からきた兵士たちは後ずさる。
「うわ……っなんだよ、こいつ」
「リオ、大丈夫?」
「うん、僕はなんとも」
伏したロゼワルトの頭上で交わされる会話が、だんだんと遠のいていく。
おかしい。
男の自分が敗けるはずなどないのに。
なんと強い拳なのか。
間近で見たリオの傷だらけの身体に、ロゼワルトは悔しいような、笑いだしたいような気持になっていた。努力の芽を見事開花させた少女が、羨ましかった。
「ロゼワルト公。女性に手を上げるなど、貴殿には失望いたしました」
ロゼワルトの騎士の声だった。
ふん。笑わせる。
お前だってその小娘と戦ったではないか。
そう口に出来たのかどうかは、覚えてはいない。
数時間後、軍の医務室で目覚めたロゼワルトのそばには十六名もいるはずの己の騎士の誰一人もついてはいなかった。




