(北軍)1
『仕方ねえな、ほら』
そう言って、リオの足元にウィルがしゃがんだ。北軍にいた頃の記憶だ。山での訓練中、足を挫いたリオに、ウィルがその背を貸してくれたのだ。
橙に染まる険しい山道を、ウィルは身体を鍛えるついでだと言って、汗だくになりながら降りて行った。その温もりと、心地のいい揺れと、鼻先を掠めた黒い髪。リオはくすぐったさに小さく笑って、その首にしっかりと両腕を巻き付けた。それはもう何年も前の記憶。
その背が、今、リオの前に広がっていた――あの時よりも随分と大きくなって。
「ウィル、何してるの」
とぼけたような声になってしまったのは、目の前の光景があまりにも信じられなかったから。
夢でも見ているのかと思った。
だってこれは、正式な試合だ。リオと、ディートハルトとの、一対一の。どんな理由があっても乱入など許されるはずがない。いくらウィルが貴族と言えども騎士身分すら危ぶまれるほどの行為だ。
「ウィル、どいて」
早くしなくちゃ、取り返しがつかなくなる。
(それなのに)
裁判長がウィルに退廷を命じ、それにアーデルハイトが怒号で返した。
聴衆に徹していた軍幹部たちもウィルに場から離れるように叫んでいた。神聖な決闘を汚す気かと。
(そう分かっているのに)
「ウィリアム、どういうつもりだ」
ウィルと剣を重ねているディートハルトが言った。リオからはウィルの身体に阻まれて、ディートハルトの表情までは窺えない。けれど、押し殺したようなその声音から、ディートハルトの焦りが感じ取れる。
「リオと共倒れる気か――」
ウィルは答えず、剣を薙ぎ払う。激しい鉄音が響き、ディートハルトが勢いよく後ずさった。相手がリオではこうはならない。ウィルの力強い剣に、観客が沸いた。その正面で語気をさらに荒くした裁判長が退廷勧告を繰り返す。まずい。
「ウィル……っ」
リオはウィルの背に手を伸ばす。が、指先は軍服をかすっただけだった。ウィルがディートハルトに切りかかってゆく。
駄目だ。このままでは、ウィルまで罪人になってしまう。ウィルはやっと夢の端を掴んで、これから輝かしい未来へ飛び立とうとしているのに。リオがその背におぶさるせいで、地に縫いとめられるのだ。
そんなのは駄目だ。絶対に駄目だ。
ウィルにはウィルの、歩むべき道がある。
それを邪魔することだけは、絶対に、嫌だ。だってウィルは。
「ウィル、お願い。アデル様のところに戻って。今ならまだ間に合う」
リオは必死に声をあげた。ディートハルトと対峙するウィルの動きが止まる。
「僕はもう、アデル様を守れない。ウィル達に頼むしかないんだ、だから」
リオはぐっと、剣を強く握りしめる。
力になりたかったけれど。勝ちたかったけれど。リオはがくがくと笑う膝をもうどうすることも出来なかった。謝ることしか、出来なかった。強ければ、勝てれば、ウィルにこんなに心配をかけることもなかったのに。いくら親友だからって、ここままでしてもらうワケには、いかないのに。
ウィルは何処までも、いつでも、リオに優しい。優しくしてくれた。でも、もういい。もういいのだ。リオを切って、ウィル達は前に進むべきなのだ。これでお別れ。本当はもっとカッコよく、さよならをしたかったけれど――
「リオ」
ディートハルトの剣を受け止めたウィルが言った。
「お前、降参するつもりなかっただろ」
図星をさされ、リオは固まる。
リオは、ディートハルトの剣を、トドメを受ける気でいた。
負けるとわかっていても、最後まで騎士でいたかったから。
それと、とウィルが付け足す。
「足、動かないんだろ?下がっとけ」
リオはじっとウィルの背を見つめた。
どうしてウィルはこうなのだろう。と不思議に思った。そういうところだけは気づくのだろう。と。
あの時もそうだった。
『おい。足どうした』
北軍での訓練の時。リオが挫いた足をかばって山を下っているのを、目ざとく気づいたのも、ウィルだった。他の誰も、リオが痛みを隠していることなんて少しも気づかなかったのに。軍靴と靴下を無理やり脱がされ、現れた腫れ上がったリオの足首を見て、ウィルは舌打ちをした。
『仕方ねえな、ほら。おぶされ』
そうしてその背を、貸してくれた。
どうしてウィルだけが気付いたのか。
答えをリオは、分かっていた。
ウィルは人一倍、騎士になりたがっていた。異常ともいえる執念をもって、日々の稽古と訓練に臨んでいた。稽古相手の身体のすべてを鋭い眼差しで、観察していた。だからウィルは、リオの不調をすぐに嗅ぎ分けることが出来た。
それほどまでに、ウィルは騎士への強い憧れを抱いていた。
「リオ」
ウィルが唸るように言う。
「ひとりで戦わせて悪かった。オレはお前の味方なのに傍観しようとしてた。ほんとにごめん」
どうしよう。とリオは思った。
ウィルは騎士位を危ぶんでいるのに。その人生を捨て去ろうとすらしているのに。
(嬉しい)
そんな風に、思ってしまう、自分がいた。
「リオ。オレはお前の味方だ。女とか男とか関係ない。リオはリオだ。だから、そんな寂しそうな顔するな。一緒に戦おう――オレたちはずっと一緒だ。約束したろ」
「……っ」
自分がこんなに悪い人間だなんて思わなかった。
自分の為に、ウィルが剣を振るってくれることが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。 剣を振るえば振るうほど、ウィルの夢はめちゃくちゃになるのに。あんなに努力を重ねたウィルの夢が、遠のいていくのに。
それを、嬉しいと感じるなんて。
涙が出るほどに、嬉しいと感じるなんて。私は最低だ。
「……泣くなって」
困ったような声をあげて、ウィルが振り返る。
と、その目が大きく見開かれた。
ウィルだけではない。その向こうに佇むディートハルトも、その瞳を大きくして、動きを止めた。ふたりの視線は、リオの背後を凝視している。
何事だろう。リオはぼんやりとかすむ視界で後ろを向いた。その頃にはウィルを止めようとする者と、アーデルハイト側についた者とで決議の間は騒然とし、怒号が飛び交い、すぐには気づけなかった。かつての旧友たちが、そこにいたことに。




