(泣かないこと)
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「リオ君、ちょっといいかな」
リオがジャスティンに呼び出されたのはその翌日のことだった。
朝食を終え、畑に向かおうとしたリオをジャスティンが自ら手招きしてきた。周囲にいた訓練兵の表情がこわばり、リオもつられて身を固くする。ウィルとの喧嘩の件だろうか。
リオは暗い気持ちでジャスティンの後を追い、教官棟の一室に向かった。
「どうぞ、入って」
「はい……」
促されて入室した簡素な部屋には小窓がひとつと、机と椅子が一揃えあるのみだった。後から入ったジャスティンが「面談室なんだ」と言いながら扉と、──鍵も閉める。
そのまま雑談もなく本題に入られた。
「君、あの宿屋の子だよね」
リオは思わず振り返った。心臓がいやにはねる。
ジャスティンは逃げ道を閉ざすように、扉によりかかった。
「回りくどいのはナシにしよう、リオ。君は女の子だろう?」
「…………なんのことですか」
平静を装うリオに、憐れむような声が返ってくる。
「それで騙せてるつもり? すぐにバレるよ」
低い声が、静かにひびいた。
「宿に戻った方がいい。そろそろトマス君も帰った頃だろうし」
「え?」
リオは目を瞬かせた。
「トマスが帰ったって……本当ですか」
「やっぱりリオ【ちゃん】じゃないか」
「…………」
ジャスティンは呆れたようにため息をつく。
「悪いことは言わない。はやく出て行った方がいい。……ここは君が思っているよりずっと大変な場所なんだ。ウィリアムとか、ディートとか、意地悪な上級生とかね。君だってもうわかってるだろ? 怪我をしないうちにお帰り。今なら見逃してあげられる」
ジャスティンには、何もかも見破られていた。性別のことも、宿屋のことも、トマスのことも。
「せっかく綺麗な髪だったのに……もったいなかったね」
「…………ジャスティン、教官」
「駄目だよ」
先手を打つように、ジャスティンは言った。
「帰るんだ」
「…………お願いです、ここにいさせてください。しばらくで良いんです。せめて、ひとりで生活出来るようになるまで」
「なにもこんなところじゃなくて良いだろう。確かに、宿屋の女将さんは厳しそうな人だったけど」
「っ! 厳しいなんてものじゃありません、わたしもトマスも毎日のように暴力をふるわれていました。それも、なにか失敗したからとかじゃなくて、あの人の機嫌一つで」
口にすれば、記憶は鮮明に蘇ってきた。リオは知らず、服を握りしめる手を震わせる。ジャスティンが目を細めた。
「……それは……気の毒だけど」
「あなたがトマスを連れ出したあとが、一番ひどかった」
リオは叫ぶように言っていた。責めるように。訴えるように。ジャスティンがトマスを連れていかなければ、リオだってまだ我慢出来ていたかもしれないのに。責任転嫁だと分かっていても、一度溢れ出した恐怖は止まらなかった。
「髪を掴まれて、何度もお腹を蹴られました。顔を殴られました。酒瓶を投げつけられて、残飯を食べさせられて、仕事が出来なかったら怒鳴られて……それから、それから」
すぐそばにベルの息遣いが聞こえてくるようで、足がわななく。
甲高く、しわがれた声。
ぼってりとした紅い唇。
下卑た笑い声、嘲るようなどろりとした瞳。
全部が嫌いだった。
「……リオ。わかったら、もういい」
ジャスティンが歩み寄って、リオの両肩に手を置いた。それでもリオは止まらない。瞬きを忘れた瞳からは涙が溢れだしていた。
「それから、わたしが大人になったら、男の人の相手をさせるって言ったんです」
ジャスティンが息を止めた。
「…………なんだって?」
「わかりません。でもきっと痛くて怖いことに決まってます。村の男の人たちもみんな『楽しみだ』って笑ってました。でも、一番笑っていたのはベルなんです」
リオはジャスティンに頭を下げる。
「お願いです、あの宿にはもう二度と戻りたくないんです、他に行く場所がないんです……お願いです、少しだけ……ここに置いては貰えませんか」
「……リオ」
「お願いします、お願いです……っ」
きつく両目をつむり、懇願した。
──地獄を思い出していた。
ディートハルトと対峙した時とはまた別の、地獄。
嫌だ。
もう嫌だ、本当に嫌なのだ。あそこに帰ることだけは。
「宿には、帰りたくないんです……!」
「リオ……」
ジャスティンが片膝をついて屈み、リオを覗き込む。
「分かったから、落ち着いて」
ジャスティンは迷うように数秒、沈黙していた。それから考えを巡らせるように呟く。
「…………孤児院……は、この辺りにはないな。確か南の方と王都にはあるけど……遠すぎるし」
それからまたしばらく、何事かを考えていたようだったけれど。やっと結論が出たのだろう。ジャスティンは、しゃくりを上げていたリオに、尋ねた。
「……君は、トマスを追いかけてきたの?」
こんな遠い場所まで、独りで。
「……は、い……」
頷いた、リオの長い睫毛の先が震えていた。
「……わたっ……わたしも、男の子だったら、連れていって、貰えたのかなって……っおも……って」
起きたらトマスがいなかった。あの朝の絶望が胸を軋ませる。
「男の子に……なりた…い……っ」
しゃくりをあげるなんて、いつ以来だろう。
泣いても無駄。
わめいても無駄。
そう気づいてから、泣くことなんてなくなっていたのに。
「ジャスティン、さん」
「……?」
「わた、しも……男の子、だったら……」
「……」
「連れて行ってくれた?」
ジャスティンを責めても、仕方がない。
生まれを呪っても、仕方がない。
仕方がないから、諦めて、悟ったふりをしていた。
でも。
「……うん。もちろんだ」
ジャスティンはしっかりと頷いた。
「ごめんね。くだらない規則で」
リオはやはり泣きじゃくった。どうしてわたしは女の子なの、どうしてお母さんは死んじゃったの、どうして、どうして、どうして。ジャスティンの大きな胸の中に抱き寄せられ、幼子のように背中を撫でられ、リオは不安を吐き出した。
「……ひとつだけ、条件がある」
リオが泣き止んだ頃、ジャスティンがぽつりと言った。
リオは椅子に腰かけ、向かいに座るジャスティンをぼんやりと眺めていた。いつもみたいに、貼り付けたような笑顔がない。そうしている方がずっとカッコ良いと、リオは思った。
「……条件?」
「──泣かないこと」
ジャスティンの表情は真剣そのものだった。そんな顔も出来るのか、とリオは心の隅で驚いていた。
「ここにいるというなら、僕は君を男の子として扱う。贔屓もしないし、騎士道も君には通さない」
──女性を大切に。
あのことか、とリオは頷く。
「わかりました」
「いいかい。君がひとりだち出来るまで、少しの間だけだよ」
「……はい」
「泣いたら、すぐに出て行ってもらう」
「……はい」
リオは背筋を正した。
と、少しだけ肩を力を抜いて、ジャスティンが言った。
「実はさ、ディート……ああ、彼、僕の同期なんだけど」
「……はい」
「そのディートの案でね、今度選抜した子たちだけの特別隊を編成することになったんだ」
「……そう、なんですか?」
話の先が見えず、リオは首を傾げた。ジャスティンは困ったように微笑む。
「……その隊のメンバーに、君の名前もあがってる」
「え」
「それから、問題児のウィリアム君も」
どうして自分が、と思う前にウィルの名を出されて、リオの困惑は益々強くなってしまった。
「ディートのお気に入りの人選なんだ」
ジャスティンは胸ポケットから一枚の紙きれを取り出し、リオに差し出した。
「試練ばかりで弱ったもんだね。お互い」
受け取った紙を開く。
十余名の名が連なる【特別編成】と書かれた表。
その最後の二行は、確かにリオのよく知る文字が並んでいた。




