(英雄ディートハルト)2
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「ディートハルト?」
リオは初めて口にする名に、舌を噛みそうになった。
テイルが興奮冷めやらぬといった様子で頷く。その顔はディートハルトその人に向けられたままだった。
「そう。都の英雄だよ」
英雄、とつぶやいて、リオもディートハルトに目を向ける。男は、闘技場の上で爽やかな笑みを浮かべていた。
リオ達が畑仕事を中断させられ、この屋外闘技場に集められたのはつい先刻のことだった。
リオは泥と土にまみれた少年兵たちに押しつぶされながら、中央の円状に囲われた舞台に目を向ける。野良仕事要員ではない上級士官学生たちまで一堂に会するのは初めてのことで、彼らの前に出ないように注意しながら、リオはテイルの話を聞いていた。歓声で辺りは煩い。誰もが都の英雄に熱い視線を注いでいた。
テイルが言った。
「公式な試合では一度も負けたことがないんだ」
王都の守護神にして無敗の天才騎士ディートハルト・リンジャー。
「ディートハルト様は僕たちの憧れなんだ。あの人も農家の出なんだって」
「へえ」
ディートハルトは、日に焼けた精悍な顔つきに、キリリとした太い眉が印象的な男だった。薄い半袖の黒シャツがぴたりと彼の身体にまとわり、鍛え上げられた筋肉を強調していた。筋張った腕は長く太く逞しい。リオは眉を顰める──あれで殴られたら、ひとたまりもないだろう。
「剣を振るう必要はなさそうなのにね」
リオのなにげない一言に、テイルがぎょっとした。
「とんでもない。王都の剣術大会はここ十年、ずっとあの人が一番なんだよ」
テイルの向こうから、ジエンまで声をあげてくる。
「都に出た連続切り裂き魔も、ディートハルト様が捕まえたんだ」
「英雄なんだよ」
「あの人のおかげで、治安も良くなったって」
ジエンは悔しそうに舌打ちする。
「オレ達だってまともに稽古してたらな」
今日は成績の上位十名までが特別に稽古をつけて貰えるそうだった。他はすべて見学だという。
「いいなあ」
テイルが心の内を零すと同時、ひとりの上級生が教官に促されて壇上にあがった。ディートハルトとさほど背丈の変わらないその訓練兵が、距離を取り、構える。挑戦者と挑戦を受ける者、双方が握りしめているのは訓練用の木剣だった。見学者たちの緊張と興奮も高まっていく。
「盾はナシ。時間は無制限の一本勝負だ」
審判を買って出たジャスティンが「始め」と言うや否や、ディートハルトが動いた。素早く身を屈め、前に踏み込む。
え。
リオは、目を見張った。
上級生が両手でしかと握りしめていた剣は、次の瞬間、空高く弾き飛ばされていた。高々と舞い上がった剣は、傾きかけた太陽の光を受け、重力に則り、地へ落ちていく。
剣の落ちた場所にいた訓練兵たちが、一斉に退いた。勝負はものの数秒で決した。ディートハルトはつまらなさそうに身体を起こす。
「もうひと勝負しよう」
彼は、本物の騎士だった。
「凄いね」
テイルの呟きに、リオもこくりと頷く。
闘技場は、戦場と化していた。ディートハルトに活気づけられた訓練兵たちは、次々に名乗りあげ、勝負を挑んだ。
成績を問わないと言い出したディートハルトが、それらをことごとく薙ぎ倒していく。
「踏み込みが浅い」
「力が弱い」
「筋力が全然足りていない」
ディートハルトは途中後輩たちに助言しながら決して手を抜くことはなかった。汗を滴らせ、まだまだ、と全力の剣をふるう。
獰猛な獣のように、純粋な子供のように――その表情は活き活きとして、明るく、笑顔だった。
知らず、リオは釘づけになる。
──この人、楽しそう
それは、リオが初めて見る、絶望も疲弊もしていない大人の姿だった。こんな人も存在するのだと素直に驚く。ディートハルトは、リオが知っている誰よりも活力と希望に満ち溢れた人間だった。胸が高揚する。
純粋に素敵だと、思った。
その時。
「リオ!」
肩に手を置かれ、はっとして振り返る。そこには、木剣を手にしたウィルがいた。
「ウィル」
「捜した、こんなとこにいたのか」
そばにいたテイルとジエンもちらとウィルを見る。ウィルだってそれに気付いているだろうに、彼の瞳はリオだけを映していた。大きな瞳が、キラキラと輝いている。彼もまた、英雄に魅せられたようだ。
「オレたちも行こうぜ。こんな機会滅多にねえよ」
リオは首を横に振った。
「僕はいい。行きたかったらウィルひとりで行きなよ」
「なんだよ、怖いのか?」
「そうじゃないけど」
「けど?」
リオはためらいがちに俯いた。と、テイルが割って入る。
「ウィ、ウィリアム、君」
「あ?」
テイルの愛想笑いがこわばる。まだ、ウィルが恐ろしいのだろう。
「あ……あのさ、リオはまだ、剣の稽古をしたことがないだろ。いきなりディートハルト様を相手には出来ないよ」
「はあ?お前馬鹿か」
ウィルが不愉快そうに瞳を細める。
ディートハルトに集中していた視線が、その場だけはウィルに向かい始めた。当のウィルは、全く気にしない。
「弱い奴なんて相手にしてどうするんだよ、強ければ強いほど稽古にはもってこいだろうが」
「で、でも!リオは基礎も出来てないんだ、大怪我をするかも」
「あのな、騎士になったら相手なんて選べないんだぞ。それに、これは訓練だ。怪我はつきものだろ」
「だけど、危ないよ。リオは剣の掴み方も知らない」
「んなの今教えりゃいいだろ」
「け、けど」
「あーっ、もういい!お前と話しても時間の無駄だ。リオ、来いって」
「え」
しびれを切らしたウィルは、リオの手首を掴んで引き寄せた。
「行くぞ」
「僕は行かないってば」
「危なくなったらオレが助けてやるから、怖がるな」
リオは力任せに引っ張られ、つんのめりそうになりながらウィルの後ろを行った。ウィルは、どんどん人をかき分けていく。こんな時は“問題児”の名が幸いした。勝手に皆がウィルを避けてくれるのだ、関わりたくないと。
ウィルは何度もリオを振り返る。
「大丈夫だって。最悪でも骨折ぐらいで済むだろ。さすがに死にゃあしないだろうし」
「ウィル……っ」
「リオ、近くでオレの動きを見てるだけでも良いから行こう」
ウィルの声がほんの少し和らいだ。
「こんなチャンス、無駄にしちゃ駄目だ」
高い志を持っているウィルには確かにそうだろう。でも、リオは違う。まだそんな決心はついていない。
リオは思わず叫ぶ。
「僕は見学でいいよ!まだ」
「……リオ」
残念そうにウィルが手の力を緩めた。
と、そこへ溌剌とした声が降ってくる。
「そこのふたり!」
ウィルとリオがそばの壇上を振り仰ぐ。いつの間にか、こんなにも戦場近くへ来てしまっていた。
「う、うう」
リオは、ふと荒い息を聞いた。
ディートハルトにのされた訓練兵たちが、足元でうずくまっていたのだ。
リオははっと足を引く。
壇上には、ディートハルトただひとりが立っていた。その赤い瞳は爛々と血走っている。
「早くあがっておいでよ」
剣豪ディートハルトが、新しい獲物を求めて微笑んでいた。




