(ウィルの騎士道)2
その午後は、リヒルクの簡易的な授業を受けることになった。
時間は三十分程度。
リオは初めて受ける授業というものについて行くので必死で、最初の方はリヒルクが何を説明しているのかすら理解できていなかった。
「いいか。こんな風にして、階級は上がっていく」
入れと誘導された教室という部屋の前方には、黒い長方形の板が貼ってあり、それにリヒルクが白い棒のような筆記具で文字や図を書き示していた。どうやら、軍の階級制度を表しているらしい。
「一番下が二等兵、次が一等兵。ここまでは普通、どんな奴であがることができる。問題なく従軍していればな」
教室には横に長い机と背もたれのない椅子があり、ここでも自由席だと言われたのでリオはウィルの隣を選んで座った。
この日の参加者は十ニ名。皆リオと同じく最近入軍したものばかりだった。
ウィルは喧嘩だのの騒動が重なってこの授業を受けていなかったらしく、リヒルクに強制で受けさせられる事になった。頬杖をつきながら、退屈そうに外を眺めている。
「問題なのはここからだ。昔は戦でのしあがれたもんだが、今はとんとそんなものはない」
黒い板に描かれた三角形には、兵卒、下士官、準士官、尉官、左官、将官と階級が示されていた。
リヒルクは準士官にあたると言う。現場での指揮、部下の取りまとめが主な役割なのだそうだった。
「活躍の場が少ない現状は遺憾だが、これは同時に、国が平和な証拠でもある。つまり我々はその平和を維持する為にも、日々訓練を怠ることなく精進しなければならないんだ」
そう言い終えた瞬間、鐘楼の鐘が鳴った。
「と──今日は以上だ。五分休憩したら訓練場に戻れ」
リヒルクはやっと終わったとばかりに伸びをして、教室を出ていく。
他の寮生たちも椅子を机の下に戻して去っていく中、リオはひとり、黒い板を眺めていた。
分からない単語に、見たことのない文字。覚えておける自信がなかった。なにか、筆記具でもあればと思うのだが、宿屋から持ち出した布袋にはそんな気の利くものは入っていなかった。
いつまでも席を立たないリオに、ウィルがとうとう声をかけ、それでようやくリオも初めての教室を後にするのだった。
「騎士?」
少し前を歩いていたウィルが、首だけで振り返る。
「うん、あの図形だったら、どこに入るのかなって」
訓練場に戻る道すがら、ウィルなら知っているだろうかとなんとはなしに尋ねたところだった。
──トマスは、騎士団に入りたがっていた。先程の授業でリヒルクの口からは終ぞ騎士なんて言葉は出なかったけれど、あの三角の図なら、騎士とはどこに位置するのだろう。ふと沸いたリオの疑問に、ウィルは僅かに首を傾いで見せた。そんなふとした仕草は素直に可愛いと思えた。
「うーん、あの図じゃ、どこにも入らないな」
「え」
思わず立ち止まったリオに、ウィルの足も倣う。
「どういうこと?」
「騎士ってのは身分であって階級じゃないんだ。職業って言った方がわかりやすいかな」
ウィルはその場にしゃがむと、落ちていた木の枝で地面に棒人間を描いた。
「これが騎士とするだろ?」
「うん」
その棒人間の周りに、冠をかぶった棒人間やスカートを履いた棒人間、あとはただの建物が描き足されていく。
「国とか貴族家とか、あとは宗教とかの集団、たったひとりの人間でもいい。主君を決めて、そいつに仕える。雇われ兵みたいなもんだよ」
「へえ」
リオは漠然と、騎士とは馬に乗った兵士のことを指すのだと思っていた。
「ああそうか。お前も騎士団の話を聞いてここに来たのか」
ウィルがからかうように笑う。
「まあね」
「騎士になりたいわけ?」
「それは……検討中。なんとなく難しいってことはわかったし」
「オレはなるぜ」
はっきりと宣言したウィルにリオは一瞬目を奪われる。野心に溢れたウィルの瞳は、朝日を受けた水面みたいに輝いていた。
「絶対になるんだ。偉い奴に仕えて、必ず自分で領地をもらって、のし上がってやる」
手についた砂を払い、ウィルが立ち上がる。
「……」
その眩しさに刹那、リオはウィルと自分との違いを思い知らされたような気がした。リオは何も知らないし、ウィルみたいな情熱もない──ベルから逃げられれば、それでよかったから。
けれどもウィルは違う。明確な目的が、希望があってここに来た。そうして毎日を過ごしている。リオとは違う。
「リオも目指せよ、楽しいぜ」
「……うん、そうだね」
ウィルの屈託のない笑顔に、どうしてか気持ちが落ち込んでしまう。生まれてから今まで、リオはなにかになりたいなんて考えたこともなかった。
そんな暇も余裕もなかった。
ただ、毎日生き延びるに精一杯だったから。
ウィルは恵まれてるのだな、と羨ましく、少しばかり妬ましく思う。これが、【みんな】が彼を敬遠する理由だとしたら……。
「ああ、そうだ」
ウィルは思い出したように言った。
「リオ、筆記具もってないんだろ。ここじゃ給金なんてほとんど出ないし、オレの余分な奴やるよ」
ウィルの親切を素直に喜べない自分は、心の根っこが酷く歪んでいるのかもしれない。
そんな自分を認めたくなくて、リオは努めて口の両端を上げてみせた。
「うん、ありがとう」




