第百二十七話 地獄の終わり
誰も居ない海岸で、海を眺めながら俺は立つ。
骨と皮だけのような乾き切った肉体にもまだ残っているものがある。
鳴り響く心臓の鼓動も、体を動かす際の筋肉の軋みはおろか、体内の血液の循環すらも今の俺は容易に感じ取ることができる。
その中で、ほんの僅かだが体に何かが取り入れられる感覚を感じた。
全身に空いているいくつもの極小の穴から空気を取り込むかのように僅かなエネルギーが体内に入ってくる。
『取り入れられる魔力を感じ、その魔力が一体どこから取り入れられているかを把握しろ。貴様の魔穴の位置を全て正確にだ! そこから魔力は取り入れられる! その魔穴は普段、ただ穴の開いた状態で自然に魔力が取り込まれていく。それを、ただ開いているだけではなく、息を吸い込むようにコントロールするのだ』
分かる。極限を超えるほど鋭敏に研ぎ澄まされた俺の全身の感覚は、今では遠く離れた水滴の音すら感じ取る。
そして、なわとびやヨーガなどでコレまで以上に高まった集中力は、水抜きの代償として散漫になっていた俺の意識を、このときは深い意識の海の底まで誘った。
どうしてだろう。
あれほど水を求めていた。
あれほど、殺意に狂っていた。
つらく、苦しく、終わりの見えない地獄にのた打ち回りそうになった。
でも、今は身も心も落ち着いている。
まるで強くなる気のしなかった地獄のトレーニングの日々が、今、確かな一つの成果を俺に感じさせていたからだ。
この気持ち、たまらない。
俺がこんな気持ちになれたのも、やはり俺を信じた師の存在があり……そして……形はどうであれ、やっぱりあいつの存在もあったわけで……複雑な気持ちだ。なのに、これまでにないぐらい頭も心も澄み切ったように爽やかだから不思議だ。
「ブレイクスルー」
『よし、ブレイクスルーをこのまま維持しろ! ブレイクスルー状態になったことで魔力が放出される。同時に、魔穴をコントロールして空気中の魔力を取り込め。放出、取り込み、放出、取り込み、これを連続で繰り返し、循環させる! それが魔呼吸をマスターするための必須感覚だ!』
自惚れじゃない。今の俺は何でもできる。
その気持ちが俺を満たしていく。
そして、これまでの地獄が俺の背骨のようになって、自信にすらなっていく。
「……こう……だな……これか」
『そうだ、その感覚だ! そして、一度覚えた感覚はもう忘れることは無い! 子が立ち上がって歩くことを覚えるように、貴様は今日、立ち上がって歩き出すのだ!』
歩き出す? 俺自身としては、今、階段をスキップで駆け上がっていくぐらいの感覚だった。
「あ……ああ……」
もう、いつもならとっくに時間切れで切れているブレイクスルーが、まだ切れていない。
それどころか、起きてさえいれば、このままいくらでも続けられそうだ。
そんな俺に……
『ふふ、ふふふふ、ふははははははははははは!』
トレイナは笑った。
その笑みは、まさに魔王の高笑いだった。
そして、トレイナは両手を広げて……
『ようこそ、童。歴史上、未だ余以外の者がまだ到達していない世界へ』
俺がトレイナだけしか知らない世界へ足を踏み入れたことを、歓迎してくれた。
俺からすれば、それは最大の賛辞だった。
『気分はどうだ?』
「早速試したいな」
『ふはははは、せっかちな奴め。だが……それはもう少しだけ待て。まずは、少し体を休め、水分と栄養を摂ってからだ』
それもそうだ。こうして心と頭はスッキリしてきたというのに、俺自身はまだアンデッドなままだしな。
ちゃんと本調子を取り戻せば……っていうか、今でもこれなのに、本調子に戻ったら俺はどうなっちまうんだ?
本当に、かなりレベルアップ……なーんて、考えていると当然……
『ただし、童』
ほらな。
『魔呼吸を習得できたのは褒めてやるが、調子―――』
「調子に乗り過ぎるな、だろ?」
『む……ぅ? 正解だ……』
あんたにとっちゃ、まだ俺は歩き始めたガキなんだろ? まだ、走れもしねーうちは、調子に乗るなってな?
それに、トレイナも俺に魔呼吸を教えるときに言っていた。
――貴様はトウロウとも、ブレイクスルーを使わないという余の与えた課題もちゃんと守って、そして勝った。目の前の勝負に楽して勝ったり、相手に自分の力を無駄に誇示していい気になったり、身に付けた力を無闇やたらに使おうとせん。今日の魔法学校の小物共とのやり取りがその証拠。貴様は自分がより高みを目指すことを念頭においている。だからこそ、教えるのだ
それは要するに、身に付けた力に溺れて調子に乗ったりするなってことだ。
俺はそういうやつではない。
だからこそ教えたというトレイナに従うのなら、俺は魔呼吸を覚えたけど、まだまだだ。
そういう心構えで居ろってことだろ?
「戻るか……教会に……だから……出て来いよ」
「「「ッ!?」」」
『ふふふ、今の童の感覚ならば、当然気付いていたな?』
そう、気付いていた。
俺の後ろにある、浜辺の木の後ろに隠れている連中を。
「あら~、バレてしまいましたか~」
「あぅ……」
「……失礼します」
振り返ったらそこには、三人。
「最近様子のおかしかったアース……ひどい姿になって、声を掛けるのも憚られましたが……今のアース、姿は変わり果てても、目は元のアースに戻りましたね」
微笑むクロン。
「……いい……の?」
最近の俺の様子にすっかり怯えてしまっていたアマエはモジモジしながら俺を窺う。
その手には、水筒が握られていた。
「……申し訳ありません……あなたを不快にさせる気はなかったのですが……」
申し訳なさそうにしながら頭を下げるサディス。
三人とも、俺のことが心配で後を付けていたようだ。
そして……
「ところで、アース」
「ん?」
「あなたがここ最近何のために今のようなお姿になられたのかは分かりませんが、もうそれは聞きません。今のあなたを見ていれば、それはあなたにとって必要なことだったのだと分かりましたから」
「クロン……」
「ただ、一つだけ教えてもらえますか?」
「なんだ?」
姿形はこうなっても、もう俺は大丈夫なのだと分かった途端、これまでずっと俺を離れたところから見ているだけだったクロンが問いかけてきた。
「あなたは今……誰とお話をされていたのですか?」
当然、隠れていた三人は俺とトレイナが会話をしているところを聞いていた。
と言っても、トレイナの姿は誰にも見えない。
俺の独り言にしか聞こえなかっただろうし、それほど不自然なことは言ってなかった。
だが、クロンは俺が「誰か」と話をしていたと見抜いたようだ。
やっぱり、鋭いな。
「さぁ……神様……だったりしてな」
「あら~」
『こらこら……』
とはいえ、クロンに全てを教えるわけにはいかない。
だから、そう言って誤魔化そうとすると、俺の冗談をどう受け取ったかは分からないが、クロンは微笑んでそれ以上は聞かなかった。
「おい、アマエ」
「うっ!?」
「……それ……くれるのか?」
「う、あう……う……」
クロンの後ろに隠れてモジモジしているアマエ。俺はアマエが持っている水筒を指して尋ねてみた。
すると、アマエは小さく頷きながら、水筒を俺に差し出した。
そこに入っているのは、もうどれぐらいぶりになるか分からない。
ただ、水筒に入っていた水は、どこか温かい気がする。
『ほう、感心だな。冷たい水ではなく白湯だな。極限の水抜きの直後にいきなり冷たい水を飲むと体を壊すからな』
ああ、そういうことなのか。それはそれは……
「わざわざお前が温かいのを持ってきてくれたのか?」
俺でも知らなかったんだから、アマエがそんなことを知っているはずがない。
となると……
「んーん……持たせてくれた」
そう言って、アマエは隣に居たサディスを指さした。
なるほど……サディスの入れ知恵か……
「そうか。でも……わざわざお前が持ってきてくれたんだろ? ありがとな」
「あっ……」
そう言って、俺はアマエの頭を撫でた。
久しぶりだったこともあり、ビクッと体を一瞬震わせたアマエ。
だが、撫でられながらアマエは徐々に涙腺が緩んでいき……
「……ん」
ポスっと俺の足にしがみ付いてきた。
「……ちょっと休んだら……遊んでやるよ」
「ん」
「メシも一緒に食わねーとな」
「ん!」
そう言って、しがみついたまま離れないアマエ。
俺は苦笑しながら、アマエに渡された白湯に口を付け、ゆっくりと入れていく。
『がぶ飲みするなよな? 少しずつ、体に染み込ませろ』
一気に飲み干したい気持ちを抑えながら、徐々に命が戻っていく。
ああ。うまい。
「っあ~……はぁ……生きててよかった」
アマエが先に泣かなかったり、そもそもこの場に女たちがいなければ、俺は涙を流していたかもしれない。
それぐらい、の感動。
生き返る。
生きているという感覚が甦ってきた。
「さて……」
生き返った。そしてゆっくり休み、メシも食い、そこからまた再スタートだ。
だが、それはそれとして……
「サディス」
「ッ!? ……アース……くん」
「……お前に、アースくんと呼ばれるのはスゲー変な気になるが……まぁ、いい」
流石に、無視したまま教会に帰ろう……ってわけにもいかねえからな。
「記憶が戻ったら、とりあえず言え」
「え? それは……当然ですが……」
「そのときは、俺も逃げねーよ。お前にも……もうこうなった以上、『話しておきたいこと』もあるし……」
そして互いにこういうことになり、また俺も今回の件を乗り越えて一つ分かったことがある。
これから俺が大会を終えて、再び世界へ飛び出すにあたり、その前にやっておくこと。
「もう、ここまで来た以上は……決着を付けてから世界へ出る」
「けっ……ちゃく?」
そう、決着を付けること。
それをせずに逃げ回ったことで、こんなことになっちまった。
だからこそ、必要なんだ。
決着が。
「ま、そんときまではな……ほら、帰るぞ、アマエ。腹減った」
「んっ! いく! 食べる! いくーーーー!」
それだけは、記憶があろうとなかろうとサディスには言っておきたかった。
当然、今のサディスには何のことか分からないだろうが、それでも俺は言った。
そして、言うべきことは言い、スッキリしたところで俺はアマエに連れられて、教会へ戻った。




