第百二十五話 幕間(大魔王)
もう両手で数えられぬ日数になり、だいぶ童もやつれてきた。
何不自由なく育てられたお坊ちゃんが、頬骨浮き出て、肌が乾燥し始め、目元に隈までできている。
「っ、トレイナ……もう、朝でいいだろ? はし、りにいくぞ」
もう、極限に近いところまで達している。
どんどん朝の起きる時間が早くなる。それは、気合が入っているからではない。
単純に深い眠りにつくことができないのだ。
「ブレイク……スルー」
もはや重病患者だな。しかし、それでも言いつけを守るようにブレイクスルーで魔力を空にしてから走る。
ブレイクスルー自体が体に負荷がかかるというのに、童は淡々とこなしている。
「……っし……」
準備が出来たらそのまま海へ走り出す。
時間帯はまだ真夜中と言っても差し支えないほどの暗闇だ。
しかし、童は走る。
そして、だいぶタイムは落ちてきたものの、それでも手を抜かずに今の童のコンディションでの全力を出している。
「は、ぜ、は、ぜぇ、ぜぇ……」
ハッキリ言って、このひたすら汗ばかりを流すトレーニングはトレーニングではない。
完全なるオーバーワーク。
そうなればトレーニングは逆効果だ。
ましてや、まだ若い童にこの水抜きは、指導をする立場から言って、気が進むものではない。
本来なら時間をかけてといきたいところだ。
しかし、この三ヶ月を考えるのであればこれは必要なもの。
そして、童自身がそれを信じている以上、教えた余が迷うことは許されん。
まだ若く、何不自由なく育てられたお坊ちゃんに欲を断ち切らせるのは過酷だろう。
『よし、細かくステップを刻みながら、シャドーを行え。始め!』
「……すっ……」
ただでさえ、砂浜でうまくステップが刻めないのだ。足がもつれて、リズムが刻めぬ。
そしてついには、自分の足に引っかかって倒れてしまう。
「ぐっ、ぬおっ……はあ、はあ……くっそがー! はあ、はあ……」
自分の想像通りに体がうまく動かない状況に、乾いた唇を噛み締めて血を流し、イラついて砂浜を叩きつける童。
だが……
『休むか?』
「ッ!? や……る」
『そうか……』
倒れても、弱っても、それでもすぐに立ち上がるか……。
ここまで来ると、もはや根性を超えて執念とも言える。
そして、一つだけ不思議に思えてしまう。
極限状態に陥り、童も短気になり、徐々に精神が崩壊しかけている。
だが、そこまで陥りながらも、童は文句を言うものの、弱音だけは決して吐かない。
本来なら「もうダメだ」、「限界だ」、「やめたい」と口に出してもおかしくないだろう。
にもかかわらず、黙々とやるべきことはやっている。
「あ、う……オアアアアアアアアアアア!!」
この必死さの根源は、ただ見返すためだけではない。
強くなりたいためだけではない。
『水、水だ、水が飲みてえ、くそ、頭が、おかしくなる! もう、わけが分からねえよ! くそ、くそおお!』
我武者羅にシャドーをしながら、童の心の中の叫びが伝わってくる。
そう、飲めるのだ、本当なら童は。
確かに余が傍についている。
余も叱るだろう。
しかし、余は童に対して、言葉は交わせても、直接手は出せぬ。
体を張ることも、殴ることもできぬ。
童が言いつけを破って水を飲もうとすれば、余には止められぬのだ。
だが、童は破らない。
『心が折れてきたか?』
余が、嫌味を込めてこう聞いても、童は決まって返す。
「んな、こ、た、ねーよ」
『ほう』
余もまた、「童ならばこのやり方で短期間で魔呼吸を覚えられる」とは思っているものの、実際に水抜きさせて弟子を指導した「経験」が余にはない。
だからこそ、目の前でこうして水抜きしている者と四六時中一緒にいると、こうなってしまうのだなと思ったものだ。
童の心の叫びが分かるからこそ、ここまで来れば、童の意思に関係なく無意識に約束を破っても仕方ないかもしれん。
だが、童は破らぬ。
『負けるかよ……もう限界だし、つらいし、苦しいし、死にそうだけど……言ってたまるかよ』
そして、その時だった。
『こいつは、俺ならできると思って課したんだ……だったら、やってやる……』
余に伝わってくる。童の心の中の叫び。
『帝都の連中も、親父も、母さんも、サディスも……俺に期待しちゃいなかった……誰も俺なんて見てくれちゃいなかった……』
余が童の心の声を理解できるということをこの時点で童は頭から抜けているのだろう。
いや、無意識に叫んでいるのかもしれない。
『でも……でもよ! 初めて、俺を見てくれる奴ができたんだ……そして今、俺ならできると信じて課したんだ……裏切れるかよ、その期待を……』
ああ……まったく……この馬鹿者は……
『俺は、こいつにだけは失望されたくねえ! こいつだけは、裏切りたくはねえ!』
御前試合の最中、余は一度だけ童の名を呼んだ。
童の背中を押し出し、そして余が認めた証として「アース・ラガン」の名を呼んだ。
だが、呼んだのはただの一度だけ。
しかし、その一度が童にずっと残っていたのだろう。
『そうか。なら、続けろ』
「お、す」
今、余が童の心の叫びを聞いたことは、聞いてなかったことにしておいてやるか。
それにしても、この馬鹿弟子は……。
そういえば、あやつは……クロンはそのことを見抜いていたな……
――アースが本当に欲しいものは、強さだけじゃなく、もっと別のものなのだと思います
そう、童が欲しいもの。それを余は分かっている。
童自身も気づいていない。いや、忘れているのかもしれない、欲しいもの。
童、貴様が欲しいもの、その根源は出会った頃から何も変わっていない。
貴様は、『アース・ラガン』を認めてもらいたいのだ。
褒められることではない。貴様という存在を誰かに認めてもらいたいのだ。
だから、強くなるのは手段の一つであって、別にそれが全てではない。
別の分野で父を超える何かで認めてもらうという方法だってあった。
だが、貴様はこの道を選んだ。
そして、余には分かっている。どれだけ表面では辛辣な態度を取っても、貴様はまだあのメイドに自分を見せ付けたいのだ。
勇者の息子のお坊ちゃんではなく、アース・ラガンとして。一人の男として。
『おい、少しペースが落ちてるぞ? どうした! やめたければ、いつでもやめてもいいのだぞ!』
「つ、づける……」
貴様の欲しいものが分かっているからこそ、余は与えぬ。
もう、貴様のことを『流石はアース・ラガン』とは言わぬ。
貴様の欲しいものが分かっている余がそれを与えてしまえば、その価値は安っぽくなってしまう。
もう、今の貴様のゴールはここでも、三ヵ月後でもない。もっと先になる。
簡単に望みは与えてやれぬ。
何よりも、他者から認められるということは自然と起こるもの。
貴様の欲しいものが分からぬ者たちが、自然に貴様を認めてこそ、尊い価値があるのだ。
だから、もう余は言わぬ。
しかし……
『見ていてやる……貴様をな』
「はあ、ぜえ、はあ……え?」
『何も言ってない。集中力が切れてるぞ! もっと集中しろ!』
「お、す!」
そう、せめて見てやる。
貴様の欲しい言葉を与えてやらぬ代わりに、貴様のことを見続けてやろう。
『……ったく、聞こえたよ……って、聞こえてないフリしときゃいいのかな?』
……ぬ?
『……ま……ありがとな』
っ、だ、だから、貴様の心は余に筒抜けだと言っているのに……。




