戦国時代で可能なチート覚書:稲作編
戦国時代に転生したら誰もが夢見る技術チート、その農業編。
日本の稲作が機械化したのは昭和30年前後からとかなり最近の話で、終戦直後くらいまでの農具、農法の内、かなりの分野が転用可能。
大雑把に分けると
A:知識さえあればできるもの
B:知識さえあればできるが、法制度、慣習などを解決する問題があるもの
C:知識さえあればできるが、地理的制限があるもの
D:ある程度加工技術があれば当時の技術で実行可能なもの
E:転生、転移者の寿命内の技術開発で可能なもの
に分類される。
A項は農民に転生しても可能だが、そこから下は最低でも所領持ちの地侍以上の身分がないと難しいかも。
高度な農具や器械を作るなら職人に依頼が必要なので、規模の大きい事業の場合は城持ち国人、大名以上の所領が必要かと思われる。
説明は大雑把なので、詳細が知りたい場合は検索ワードで調べるよう。
・品種改良 D
分離育種法、交雑育種法が導入可能。
分離育種法で収穫量の多いものや耐冷、耐病、耐倒伏性などの高いものを選抜し、交雑育種法で交配を4~5世代ほど繰り返して固定化する。
天災、病害などによる凶作を生き延びた稲穂が選抜の目安になるだろう。
例としてコシヒカリやササニシキの祖先品種である亀の尾のエピソードが有名。
稲の場合は片方の品種の花粉ができる前に雄しべを取り除くか、お湯に漬けて花粉を駄目にする。
1品種の開発に運が良くて10年は掛る事業で、物語開始から改良を始めて5、60年経過するとしても2~4代が限界かと思われる。
描写としては序~中盤くらいに品種改良に取り組み出して、時間経過で開発完了と言う形になると思われる。
水温を低くする、水量を少なくすると言った意図的に悪環境で栽培する農業試験場のようなものを設けるのならば、かなり身代が大きくないと困難。
・塩水選 A
中身の詰まった良い種籾を選ぶための技術。明治15年に考案され、塩水に入れて比重の軽い種籾を排除する。
濃い目の塩水から徐々に水を加えて2/3が沈んだ辺りで選別ポイント。
種籾を厳選する場合はもっと濃度が高い状態で行う模様。
単純だが効果は絶大で、これだけで収穫量が1割増える。
麦でも可能なので、中世欧州風のテンプレ異世界でも使用可能……なのだが、数多の内政チートもので今まで見たことが無い。
ノーフォーク農法と比較して絵面が地味だからだろうか。
また、「貴重な種籾を塩水にブチ込む」と言う、知らない人からしたらあからさまにマズイ絵面になるため、初回はお試し程度で効果を見せてからになると思われる。
・温湯消毒 AもしくはE
いもち病などの病害対策。60度の温水に10分間漬け込んで消毒する。
温度が高過ぎても低過ぎても駄目で、一定時間維持しなくてはいけないので、きっちりやるなら温度計が必要でこの場合の技術判定はE。
感覚のみでやるなら技術判定はAになる。
深さ3~5mの井戸の水温がおおよそ15℃で、これと同量の沸騰した水を加えた時の温度がおおよそ50℃。
沸騰した水を若干多く入れて、指を突っ込んだ時に長時間入れられない程度が60℃と覚えておいたほうがいいだろう
なお、麦でも可能だが米と若干温度が異なる。
・浸種 AもしくはE
種籾が発芽するためには一定の温度で胚に水分を吸収させる必要がある。
積算温度(平均気温×日数)で100日℃が必要で、低過ぎても高すぎても育成や発芽にばらつきがあるため水温の目安は13~15℃が望ましい。
温度計があれば苦労しないが、無い場合は前述の温湯消毒にあったように、季節によっても温度のバラつきが少ない井戸水を用いるほう方がいいだろう。
そのため、技術判定は温水消毒と同じでE、もしくはA。
均等に浸種させるために上下の入れ替えを行い、浸種の後半(おおよそ3日目くらい)には発芽阻害物質が水に溶けているため、水の交換が必要。
・保温折衷苗代 B
折衷苗代も戦国時代にはないチート技術。苗床に発芽した種籾を刷り込み、焼籾殻を厚めに被せ油紙で覆って周囲を泥で固定。
苗が紙を持ち上げ出したら紙を取り除く。
一ヶ月以上も早く田植えが可能になり、収穫量が増えるだけでなく冷害対策に絶大な効果がある。
戦国時代は小氷期と言われているため、従来の農法と比較すると大きな差となるだろう。
ただし、油紙が当時の紙、油の価格等を考えると高価なのである程度豊かな農民でないとできないためB判定。
油紙の覆いをオミットして藁や馬糞などで温床を作る程度にダウングレードするならA判定。
・耕地整理 B
中世と言うか明治初期くらいまでの日本の田園風景と言うのは現代のような四角に区切られた田んぼと言うものはほぼなく、歪な形をした緩やかな棚田のような形であった。
大分県豊後高田市の田染荘の景観が当時の田園風景をそのまま残していると言う。
こう言った形状の水田は畜力による田起こしや、水田から水を抜く排水路の掘削が困難であるため、現代農法の視点から見ると収量を低下させる原因となっていた。
明治期に入って西洋の農学者、フェスカが日本の農業の問題点を指摘した際に「浅耕・排水不良・少肥」の三つを挙げている。
もっとも「欧州と日本じゃ気候も地質も全然違うじゃんって」突っ込みは現代でも続いているが……
また、昔は耕作する田畑が分散していると言う問題もあった。
これらの問題を一挙に解決するために耕地を綺麗な形に整え、分散していた耕地を集約する耕地整理が登場する。
ただし、耕地整理が日本史上行われ始めたのは17世紀に入ってからで、本格化したのは明治の中頃からであった。
それは中世の複雑怪奇な土地所有権上では整理が不可能であったためである。
戦国時代には一円支配が進んでかなり土地権利が整理されていたものの、名目上の荘園所有者と、それを管理=支配する国人、国人の支配を追認する大名、実際に耕す農民と言った具合に複雑に権利が絡み合っていた。
史実でこれを支配する大名と耕作する農民の関係へと単純化したのが太閤検地であった。
また、耕地を整理し、面積に応じて分配したとしても用水路からの距離や利便性、自分の家や道路からの距離などで常に公平になるとは限らず、不満を持つものも出るだろう。
戦国時代に耕地整理を行う場合は国人、農民の不満を抑え、実行するためには大名の権力が相当強くないと実行できないと思われる。
そのため技術判定はBとする。
・正条植 B+D
明治初期の農業家の大岡利右衛門が開発した農法。
明治以前までの田植えは田の形に沿った回り植や車田植が一般的であったが、これを等間隔に植えることで水田内の日当たり、風通しが良くなり収穫量を増大させた。
また、等間隔に整理された田植えは除草、害虫の駆除が容易になり、稲作でも特に過酷であった除草作業の負担を軽減させる効果があった。
発明当初は水田の長辺に縄を張り、それに沿って後退しながら苗を植え付ける方法であった。
これでは真っ直ぐ等間隔に植えるのが非常に面倒であったため、これをサボる農民も多かった模様。
そのため業を煮やした政府が警官を派遣して正条植が実行されてるか監視、確認し、不徹底の場合は植え直しまでさせたと言う。
このことから当時は皮肉を込めて「サーベル農法」と言われていた。
この問題を解決したのが田植えの間隔に沿って木枠を作り三~六角柱状にした「田植定規(田植枠)」であり、この発明により作業が効率化されて急速に正条植が広まった。
中世の歪で細切れな水田でも可能であるが、上記の効果を最大化するためには耕地整理が必要かつ、田植定規の開発も必要なため技術判定はB+D。
・魚肥 B+C
魚類から魚油を搾り取った後の残りカスを乾燥させた肥料。代表的なものは鰯、鰊だが鮪、鯵、鯖、鯨も魚肥の対象だった模様。
利用は戦国時代からだけど、基本的に地産地消だった。
魚肥の利用が江戸時代に大きく広がったのは商品作物の普及の他に、座や関所に妨害されない生産地との通商ルートが確立されたため。
安房や紀州、奥州と言った鰯や鰊の産地が領地かすぐ傍ならば、即座に実行可能なチートであるが、そうでないなら楽市楽座、関所の廃止とワンセットのチートとなる。
そのため技術判定はB+C。
・油粕 B+C
植物油を搾り取った後の残り粕を乾燥させた肥料。代表的なものは胡麻、菜種、大豆粕など。
明治~大正期に魚肥が鰯、鰊の漁獲量の減少によって衰退し、化学肥料が台頭するまではこちらが金肥の主流だった。
魚肥と同様に座や関所によって流通に阻害を受けるため、当時は地産地消が基本だった。
技術判定は魚肥と同様でB+C。
・肉骨粉 B+C
牛、豚、鶏、鯨などから食肉を取り除いた残りの部類を加熱処理→乾燥→粉砕をして粉末飼料、肥料化したもの。
栄養価が豊富なためごく最近まで利用されていたが、BSE問題を経て現在は牛のみが肉骨粉化が禁止されてる。
加熱処理が必要な関係上、大量の燃料が必要なため炭田の開発を先行して行い燃料問題を解決しなくてはならない。
薪で肉骨粉を製造する場合、魚肥とコスト競争で負けると思われる。
食肉用の家畜飼育、もしくは捕鯨などの供給源を確保するという点でB判定、燃料問題の解決=領内か近隣商圏内に炭田があるか否かと言う点でC判定。
また当時の倫理観からすれば「牛の肉骨粉に何の問題があると言うのか?こっそり作ったろ」と言う輩が出るのは避けられないと思われる。
そのためBSEが発生する牛の肉骨粉化を禁止するためには、単純に法令のみではなく祟りなどのカバーストーリーや破った人間への見せしめも併用する必要があると思われる。
・緑肥 AもしくはC
田畑に草木の種を植えて、成長したらそれを鋤き込んで肥料にする農法。
そのままブチ込むと発酵時に発生するガスが生育を阻害するため、鋤き込んでから2週間経過した後に田植え、種蒔きをするか、刈り取って乾燥させてから鋤き込むと言う工夫が必要。
マメ科の植物が窒素分補充のためにベターであるが、ポピュラーな緑肥の多くが外来種。
例として水田の緑肥として有名なレンゲですら江戸時代初期に中国から導入されたもの。
ノーフォーク農法で有名なクローバーにいたっては明治。
上記のような外来植物は倭寇、南蛮貿易などを通じて導入する必要があり。
現代農業のWebページや書籍を参考にする場合、その品種がいつ導入されたか確認しよう。
戦国時代の時点ではマメ科で緑肥に導入できそうな作物は、ヤハズエンドウくらいしかないので注意。
なお、肥料にする草木を余所から持ってくる場合は「刈敷」と言う。
現代だとこの辺が混同されてるのは入会地の概念が消失したからなのだろう。
単純に在来植物を緑肥にするだけならA判定、輸入して導入するならばC判定となる。
利用する品種とその育成、開花時期と田植え時期にズレがないか注意しよう。
例えばレンゲは前述の保温折衷苗代の導入で早稲化すると、稲の品種によっては開花時期がズレ込んで緑肥として使用できなくなる。
・肥料と新田について
戦国時代の主な肥料は刈敷、人糞、厩肥、草木灰など、入会地や自家から採取される自給肥料が大半。
当時の農地はこの自給肥料が得られる範囲ではほぼ開拓し尽されていた(特に古代から開発されている畿内など)。
低湿地や干潟を新田開発した場合、こう言った自給肥料を得ることは必然的に困難であり、金肥が無ければ新田開発は覚束ないことを念頭に置かなければならない。
なお、江戸時代には江戸、大坂などの大都市の近郊では下肥も金肥として取引されていた。
しかし戦国時代の場合、大都市と言えば京都くらいしかなく、人口が5000を超えるような都市も稀のためこの手法は成り立たないと思われる。
銃火器関係は調査でちょっと詰まったので一旦、農業関係を調査。
「お前らもっと稲作でチートしろよ!」と言う不満もあったので……
適当につらつら挙げていくので、漏れや間違いがあったら指摘をお願いします。




