冷遇生活を嘆いたらとんでもないことを頼まれてしまった話
「もう、限界……」
テクラはぼろぼろと涙を溢れさせ、自室の床にうずくまっていた。
侯爵家に嫁いで三年。
若くして王国騎士団の副長を務める夫フリッツから、初対面でいきなり「家門の名を汚さぬよう振る舞いには気を付けろ」と吐き捨てられたこと。
そこから一度も会わずに結婚式を迎え、初夜は当たり前のように朝まで待ちぼうけを食らったこと。
同衾すら叶わぬまま半年が経つと、侯爵家の義両親から「遊んでないで跡継ぎを産め」と毎日叱られたこと。
段々と精神を病み始め、ならばさっさと子供を産んで実家に帰りたいとフリッツに訴えたところ、「阿婆擦れ」と罵られ寝室から追い出されたこと。
──嫌なことばっかり!! もうたくさんだわ!!
テクラは情緒不安定から来る悪態を何とか飲み込む。
今まで何度も何度もフリッツに跡継ぎの話はしたけれど、侯爵家に赤子の産声が上がることはなかった。
テクラは政略結婚と言えども、それなりに結婚というものに憧れを抱いていたというのに。
騎士団の副長フリッツと言えば、血筋良し器量良しの優良物件として有名な男だった。パーティーが開かれるたび未婚の令嬢から猛アタックを受けているところはテクラも目にしたことがある。いや、どうやら結婚した後もそれは変わらぬ光景だったらしいが──。
ともかく、そんな競争率の高い男とテクラが結婚できたのは、ひとえに貴族の都合だ。同じ派閥に属しているちょうどいい家が、テクラの伯爵家だったというだけ。
それゆえ周囲のやっかみは凄かった。
婚約が公表されるや否や、それなりに仲良くしていたはずの令嬢たちは手のひらを返し、面白いほどテクラを虐げた。
茶会に招待されて予定時刻通りに向かったら、「もう終わりましたが?」とにっこり微笑まれ。とあるパーティーではワインを頭からぶちまけられ。どんな噂を聞いたのか、頭の悪そうな男から「良い宿があるんだ」などと誘われ──。
思い出すだけで胸がムカムカとする。込み上げる嘔吐感を抑えるため、テクラはこれまでの地獄のような三年間を振り返るのをやめた。
「私が何したって言うのよぅ……あんな、あんな顔だけの男、私だって願い下げよ」
フリッツは心ない噂を全て鵜呑みにして、テクラのことを「売女」だの「娼婦」だのと罵るが、テクラは正真正銘の乙女である。当然だ。初夜を過ごすべき相手に断固として拒否され続けているのだから。
浮気という点であれば、責められるべきはフリッツのほうだろう。彼は既婚の身でありながら様々な女性と二人きりで食事をしているし、何ならそのまま朝まで帰ってこないことなんてザラにある。
女物の香水を纏わせて「また男と遊んできたんだろう」と説教されたときは、さすがにその辺の花瓶をぶん投げそうになった。
「はあ……こんな生活もう嫌──」
「そんな貴方に朗報です!」
「キャアーーーー!?」
どこからともなく降ってきた声に、テクラは甲高い悲鳴で応じることとなった。
恨み言や愚痴を誰かに聞かれてしまったのかと、慌てて青ざめた顔を上げてみれば、そこで見知らぬ青年が膝立ちになってテクラと目線を合わせている。
フリッツより少し年下であろう青年は、柔和な笑顔でテクラの手をそっと握った。
「テクラ嬢、侯爵夫人が嫌なら大陸最強の剣士にならないかい?」
「何て??????」
その青年は「聖剣の守護者」と名乗った。
テクラはあまりの胡散臭さに辟易しお引き取り願おうとしたのだが、自称守護者は彼女をまあまあと宥めて勝手に話を続ける。
曰く、王宮に安置されている聖剣が魔王復活の兆しを察知し、己に見合う使い手を求めてピカピカ光りまくって大変なことになっているらしい。秘すべき宝物庫全体がド派手にライトアップされてしまい、慌てて聖剣を地下に移したとか。
「ある日、聖剣が一際強く輝いてね」
「ええ……それまで以上に……?」
「凄かったよ、地下なのに真っ白で逆に何も見えなかったぐらい。それで僕はすぐに悟ったわけ、お城に聖剣の使い手が来てるんだって」
その日に登城した者を片端から調べていくと、聖剣がピカり始めて以降まだ一度も城に来たことがなかったのは侯爵夫妻──つまりフリッツとテクラだったのだ。
すぐさま城の者たちは騎士団の副長を務めるフリッツこそが剣の主だと踏んだのだが、後日彼だけ呼び出しても聖剣を鞘から抜くことは叶わなかったという。
「まさか……」
「そう。これ多分テクラ嬢だなということで全会一致して」
「一致しないでください人違いです」
「いやいや来れば分かるよ、すぽって鞘から抜けるはず。ほらテクラ嬢、こんなドブ啜るみてぇな生活クソ食らえって言ってたじゃん、お城においでよ」
「そこまで言ってません待って待ってちょっと! 剣なんて握ったこともないのに! どうせならフリッツに剣持たせて魔王に殺してもらってああーッ!!」
かくして聖剣の勇者テクラはここに誕生したのである。
□□□
「誕生したのである。じゃないのよ」
テクラは無駄に光る抜き身の聖剣を片手に、遠い目をして立ち尽くしていた。
──聖剣は守護者の言った通り、スポッと鞘から抜けた。それはもう呆気なく。
彼女の目の前にはガッシャガッシャと封印の結界を破らんと暴れまくる何か、たぶん魔王的な何かがいる。
辺境の樹海深くに封じられた魔王なんてお伽噺だと思っていたのに──現実逃避中のテクラを見て何を思ったのか、隣に立っていた自称守護者がにこりと微笑む。
「さすが聖剣の勇者テクラ嬢、魔王を前にしても平然としているね」
「違いますが!」
「大丈夫だよ。使い手が王国史上最速で見付かったから、今なら剣をブスッと刺すだけで封印できると思う」
「近付くのも怖いんですが!!」
「そう言わずに」
怖いと怯える女に「そう言わずに」と返す男なんて初めて見た。もっと人の心に寄り添え。
「どうして私がこんな目に……」
テクラの声は震えていた。恐怖もあるが、それよりも自分の不幸さを呪う気持ちの方が大きい。
両親のように穏やかな夫婦に憧れていたのに、この状況はあまりに理想から遠すぎる。というか何で魔王が出てくる!?
巷で流行りの小説だって、不遇な娘は優しい王子さまに助けられて、虐げてきた者たちを完膚なきまでに叩き潰しつつ幸せな生活を送るのに……自分は魔王を叩き潰さねばならないらしい……。
ぐすぐすとしゃくり上げて泣いていたとき、不意に背後からそっと抱き締められる。
テクラが驚いて振り返れば、自称守護者は彼女の赤い目許を優しく撫でて囁いた。
「早く魔王刺してきて」
「この野郎!!」
ちょっとときめいた自分が馬鹿だった。テクラは思いきり青年を突き飛ばし、ヤケクソで魔王の元へ駆け寄ったのだった。
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──魔王、復活阻止!
──聖剣を手に立ち向かったのはフリッツ副団長、ではなく彼の元妻!
──テクラ嬢が聖なる剣を一振りすると、たちまち魔王は荒ぶる魂を鎮めたと関係者は語る。
──不倫の噂を鵜呑みにした元夫、謝罪と共に再婚を望むも見事玉砕!
平民の間で出回っているゴシップ誌には、侯爵家で行われたテクラへの散々な仕打ちについても詳らかに語られていた。
と同時に、フリッツが不倫三昧の元妻を三年も手放そうとしなかったのは、彼女が初恋の人だったからだなどと馬鹿馬鹿しいことも書かれていたが、まあこれは嘘だろう。再婚を提案してきたのも自分の評判のために決まっている。
そんなことよりも、とテクラは向かいのソファに悠然と腰掛ける人物に目を向けた。
「……関係者とは貴方様のことでございますか」
「そうだね」
「私が気付いたらフリッツ様と離婚していて、気付いたら第一王子殿下の婚約者になっていたのも貴方様の仕業でございますか」
「そうだね。ところでテクラ嬢、前みたいに気楽に話してくれて構わないよ。貴方様だなんて他人行儀な……僕と君の仲じゃないか」
「お戯れを、殿下」
自称聖剣の守護者、もとい第一王子ディートリヒは茶目っ気あふれる仕草で肩を竦めた。
「一国の王子が他人の屋敷に堂々侵入なさるなんて……」
「魔王の封印は早い方が良いからね。聖剣の持ち主が分かっているなら尚更…………言っちゃえば手続きが面倒臭かっただけだけど」
「殿下」
「それにしてもテクラ嬢、本当に僕のことを聖剣の守護者だと思ってたね。もしかして精霊的なものとして接してた? はは、可愛い」
「あの時はいろいろ限界だったのです! そしたら変な人が来て変な話をしてくるのだから適当に受け入れておくのが無難でしょう!」
「こんにちは、精霊さんだよ」
「こ、この……ッ」
完全に馬鹿にされている。テクラは手に持っていたゴシップ誌を振りながら捲し立てたが、ディートリヒはからからと笑うだけだった。
ムキになっても遊ばれるだけだ。ようやく気付いたテクラは深い溜め息をついて、くすくすと肩を揺らす王子をじとりと見詰めた。
「……殿下。私は……その、信じられないことに本当に聖剣の使い手だったわけですが」
「ん?」
「よろしいのですか? 私などと婚約して」
夫婦らしいことは何一つしたことがなくとも、テクラは離婚歴のある女となった。全てデマだったとは言え良くない噂だらけだったテクラは、第一王子の婚約者として相応しくないのではと懸念を口にする。
ディートリヒは柔和な笑みを崩すことなく、ふわりと小首をかしげた。
「妻が聖剣の持ち主ってことで僕には箔がつくわけだけど、それ以外に何か問題でも?」
「えっ。で、ですから、殿下には、伴侶を選ぶ権利があるといいますか」
「君が剣を振る姿は美しかったよ、テクラ。それこそお伽噺の妖精のようだった」
流れるように告げられた称賛の言葉に、テクラは何の反応も返せなかった。真顔である。
ほんの僅かな沈黙を経て、いやいやこれはまたからかわれているのだと彼女はかぶりを振ったが。
「三年もの間ひどい仕打ちに耐えていたおかげかな? 恨み辛みの乗ったとても素晴らしい太刀筋だったよ。ちなみに怯えて泣いている姿も可愛かった」
「へ、変態でいらっしゃいますか?」
「式が楽しみだねテクラ。子どもは二人ほど欲しいな、男女は問わないよ。まあ君が望むなら三人でも四人でも」
「変態! 間違えた、殿下っ!」
じわじわと頬に熱が集まりだしたテクラは、これ以上喋らせまいと身を乗り出す。しかし伸ばした手を軽々と引き寄せられ、気付けば彼女はディートリヒの腕の中に閉じ込められていた。
大きな手で優しく背中を撫でられれば、心臓がどくりと音を立てて……。
「あ。魔物退治に付いて来てもらうこともあるから覚えといてね」
「え!? き、聞いてない!!」
──それからテクラは大陸中を駆け巡り魔物を討伐し最強の剣士に、なることはなく。
伝記によれば、変な夫と可愛い子どもたちと共に、何だかんだで幸せに暮らしたそうな。
登場人物
テクラ
伯爵家の長女。聖剣の勇者の血をちょっと引いてたっぽい。基本的に大人しいけど心の中がうるさいタイプ。ストレスが溜まりすぎると爆発しやすい。
フリッツ
侯爵。テクラが初恋の人だったが、婚約前に彼女の男遊びの噂を聞いて落胆。三年間の冷遇は更正を促しているつもりだったらしい。
ディートリヒ
王子。魔王復活の兆しが出てきたので試しに自分も剣を抜こうとしたが失敗。さくっと切り替えて剣の使い手探しを始める。




