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プリンシアに気に入られたい。
孤児院に住む女の子は、だいたいがそう考えていた。
彼女の祈りには力があると言う。育ちすぎたワームを倒すのも、彼女の祈りなしには成し得ないことだったと聞いた。実際に戦ったのは軍のひとたちで、傷ついたのも、死んだのも、兵士だと知っているけれど、それでもプリンシアが祈ってくれなかったらもっとひどいことになっていただろうとマザーは話す。
だから、もしかしたら、プリンシアに気に入ってもらえたら、じぶんの幸運を祈ってくれるかもしれない。誰もそうとは言わなかったが、みんな考えていることは同じだった。
「どうしようね、プリンシアさま、あたしたちになにか怒ってるのかな」
「昨日、あたしたちがあの男のひとにばっかり世話を焼いてたから気にさわったんじゃないの?」
「きっとそうよ! わたし、そういえばプリンシアさまに挨拶すらしてないかも」
「あたしもー。すれちがうとき、頭を下げるのを忘れちゃったわ」
資産家の男に引き取ってもらうため、必死になるあまりプリンシアをないがしろにしてしまった。彼女がじぶんたちの不幸を望んだらどうしよう、と誰かが言って、別の女の子が「あの男のひとが誰も選んでくれなかったら、プリンシアに優しくしなかったせいってことになるの?」と言い出す。
その場に集まった少女たちは総じて顔を青ざめさせたが、ちょうどそこに薪を持って現れたおかっぱ頭の子どもが冷静に断じた。
「祈りって、そういうものじゃないでしょ」
プリンシアの取り巻きたちと同年代にあって、その子どもだけはいつもひとりで行動していた。資産家が来たときも興味がないとばかりに中庭で本を読んでいた。
切れ長の瞳が、取り巻きの少女たちひとりひとりをねめつけていく。
「あんたたちってさ、あのひとのこと、魔法使いかなにかだと思ってるみたいね。祈りは魔法じゃないと思うけど」
「なによ、リコーだけ物のわかった顔しちゃって」
「そういうんじゃないけどさ」
リコーは薪を抱え直し、バケツを囲んでたむろする少女たちから視線を外した。
廊下の向こうで、ひとりぼっちの人影がせっせと床磨きをしている。あのひとは、他人に仕事を押し付けてのうのうとしていたかと思えば、意外と熱心に掃除をするひとだった。どれだけこすっても床板にこびりついた染みはとれやしないのに、あのひとだけはいつまでもこすり続けている。昨日もそうだった。隙間に挟まった埃や砂を掻き出して、休憩時間も無駄にしていた。
プリンシア・サクラ。幻の異界からやってきた救世主、【祈りの姫君】。
もっときらびやかで、高飛車な女だとリコーは思っていた。
でも実際に見たプリンシアは常になにかに怯えるような情けない顔つきをしていて、いつも誰かの顔色をうかがうばかりの人間だった。
正直に言えば、ほっとした。
このひとのおかげで世界は救われたなんて、どう見てもあり得なかったから。孤児院の男たちが言うように、やっぱり軍のひとたちががんばったおかげなんだと改めて思った。
でも、誰もが簡単にぞうきんがけをして終わらせてしまう廊下掃除を、黙々と続ける姿を見たとき、このひとは本当はどんなひとなんだろうとほんの少し興味が湧いた。
彼女が床の隙間に見出だしたものは、本当に埃だけだったのだろうか。そこから掻き出したものは、もしかしたらもっと別のなにかだったのかもしれない。例えば、ずっと昔に失くしてしまった大切なもの、とか。あるいは、ほしくても手に入らなかったもの、とか。想像の域を出ないけれど、それくらい一生懸命清掃をしていた。
あのひとはちゃんと汚れたものをきれいにすることができるひとだ、と思った。絹や宝石に囲まれてふんぞり返って満足していられるようなひとではないのではないか。というより、豪華なものが似合うひとにはとても見えなかった。
「私たちがいくら祈りを捧げてもなにも起こらないのに、どうしてあのひとの祈りにだけ特別な力があると言えるの? 討伐の成功を祈ってたのは、なにもあのひとだけじゃなかったと思うけど」
「それでもプリンシアさまは異界の方だわ」
冷たく言い切った言葉に、強い口調で返される。取り巻きのリーダー格、孤児院の子どものなかでは最年長の女の子の反論だった。
「きっと異界のひとには魔法が使えるのよ」
まるで現実味がない、と切って捨てようとしたが、リコーは口を開くのをやめた。言い返すのは簡単だが、頑なな人間を説き伏せるのは骨が折れる。
いくら魔法は存在しないと説いたところで、彼女は納得しないだろう。魔法の有無を証明できる証拠があるわけではないから、いっそう面倒だ。リコーは奇跡など信じない。奇跡さえ起こらないのに、なぜ魔法があると思えるのだろう。だからきっとプリンシアの祈りにだって、力はない。もし本当にあったのなら、リコーの兄は討伐を無事に終えて帰ってきたはずだ。
だから。だから。だから。
兄が死んだのはワームのせいで、無能な指揮官のせいで、決してプリンシアのせいではないのだ。
取り巻きたちの厚意を突っぱねたその日の晩、夕食を終えて部屋に戻ろうとしたさくらを、当の彼女たちが引き止めた。
さくらの仕事まで任せてしまったことへの報復だろうかと顔面蒼白になって震えたのだが、彼女たちは人気のない廊下でいきなり頭を下げた。
「プリンシアさま、どうかお許しください!」
「あたしたち、あの資産家の方に引き取っていただきたくて必死だったんです」
「だってここにいられるのもあと少しなんです! 十八になったら出ていかなきゃいけなくて、そしたらどこかで一生下働きをして暮らしていくしかなくなっちゃうんですもの」
どうやら昨日のじぶんたちの態度を反省しているようだった。これまでであったら、あんなふうにないがしろにされたら腹を立てたかもしれないが、不思議なほど怒りや苛立ちはない。そもそも、あれのおかげで静かな時間が持てたのだ。もう取り巻きでいる必要はないと言うチャンスではないかと、さくらは手に汗を握った。
「い、いや、昨日のことは……」
「本当にごめんなさい!」
「あたしたち、なんでもしますから」
「明日はもっとがんばってプリンシアのために働きます!」
「だから、わたしたちのこと怒らないで」
「わたしたち、幸せになりたかっただけなの」
「プリンシアさまもわかってくださるでしょ? だってたくさんのひとたちの幸せを祈ってらしたんだもの」
「あたしたち幸せになりたいんです」
「だから、できるなら、資産家のひとがわたしたちのうちの誰かを引き取ってくれるように祈ってもらえませんか」
さくらは言おうとしていた言葉を、飲み込んだ。
女の子たちは必死に、土下座でもしそうな勢いで謝罪をしている。いいや、謝罪に見せかけた、懇願だ。
ふっと意識が遠退くような感覚に襲われる。
「お願いします、あたし、すごくがんばってプリンシアさまのお役に立ちますから」
「プリンシアさまにならできるって信じてます」
「だってあたし知ってます」
――やめて。
女の子たちの、毒さえ飲み下そうという鬼気迫る眼差しが怖い。
「プリンシアさまのお祈りは、天の神様に届くんでしょう?」
「プリンシアさまが願ったことは全部叶うって聞きました」
「そうなんですよね?」
「だから討伐は成功したんだし」
「世界は平和になったんだわ」
「プリンシアさま、そうなんですよね?」
ひとり歩きをしているプリンシアの評価の、なんと恐ろしいこと。
でも一番怖いのは、違うとはっきり言えないじぶんだ。
「わ、わたしには、よく、わからな」
「そんなはずないでしょう?」
期待に満ちた目。
違うのなら許さないという目。
じぶんでじぶんの首を絞めたら苦しいとわかっているのに、今この場で糾弾されるのが怖いというだけの理由で首を横に振れない。虎の皮が冷や汗と涙で貼りついて、うまく脱げない。
「お願いしますプリンシア」
「あたしを」
「わたしを」
「私を」
「あのひとに選んでもらえるように、祈ってください」
「あなたが祈ったらその通りになるんだから、簡単でしょう?」
「あたしたち、あなたがここにきてからずっとお世話をしてきたじゃないですか」
「これからもがんばるから、ちょっと祈ることくらいできますよね?」
「私を」
「わたしを」
「あたしを」
「私よ」
「わたしだって」
「あたしを選んで」
「なんであんたが」
「あんたなんか」
「選ばれるのはわたしよ」
「違う、あたしよ!」
「プリンシアさまがお選びになったひとが、お金持ちの子どもになれるのよ」
誰を選ぶの? という眼差しが、さくらに迫る。誰かひとりを選ばないのなら、殺してやる。脅迫じみた目付きだった。
さくらは一歩さがる。彼女たちは一歩踏み出す。
「わ、わたしには、選べないです……」
「私を選んでください!」
「あたし、いつも朝あなたのために水汲みしてるわ!」
「わたしはごはんを用意してる!」
「プリンシア、わたしが普段あなたのためにどれだけ働いているか知ってますよね」
「私の方が働いてるわ」
「あんたは黙っててよ!」
「そっちこそ黙りなさいよ!」
どんどん、だんだんと、口論が熱を増していく。
「い、祈りがその通りになる保証なんて、あ、ありません」
小さな声でそう諌めても、彼女たちの興奮はおさまらない。むしろ、仲間に向けられていた苛立ちがさくらに攻撃を始めた。
「そんなわけないでしょ!?」
「あたしたちのこと、誰も選びたくないからそんなことを言うのね」
「ち、ちが」
「なにが違うの! はっきり喋りなさいよ! 甲斐甲斐しく世話してやったのに、なんて恩知らずなの!?」
「なんでもいいからあたしを選ぶと言ってよ!」
「わたしの幸せをあなたに邪魔される筋合いないからね!」
「もうだめよ、きっと今夜にでもあたしたちの不幸を願うんでしょ? 絶対そう、今あなたすごく嫌そうな顔してるもん!」
眠り続ける白い顔の姫君が脳裏をよぎる。
もうひとの不幸は望まない。人を呪う恐ろしさを知った今、決してそれを望むことはない。けれど彼女たちにとっては、さくらの事情もさくらの心も、どうでもいいことなのだ。女の子たちが宮廷での出来事を知っているかどうかは関係ない。さくらは他人から見て、人の不幸を望む女に見えている。さくらの人間性が、知り合って間もない人間にさえ察知されるほど醜悪だということが、身に染みて辛かった。
――わたしはほんとうに、最低な人間なんだな……。
ぎゃあぎゃあと騒ぎが肥大化して、さくらがもはや口を開くことも声を聞いていることもできなくなった頃、ようやくマザーたちが駆けつけてきた。
わめく女の子たちを身を呈してなだめ、マザーはさくらに謝った。
「この子たちは少し夢見がちなところがあるんです。ですからどうか許してやってください」
年頃の女の子にはよくあることなんです、と口々に言われて、さくらはうなずくしかできなかった。
集団でひとりを脅迫するほどの願望が、およそ普通とも思えなかったが、なにも言わないでおいた。口を開けばさくらの悪いところが露呈する気がして、じぶんでじぶんを抱き締める。
そこへ、話を聞きつけた侍女がやってきて、驚いたように現場を見回した。
「いったい何事ですか」
「申し訳ございません。この子たちがプリンシアに願いを叶えてもらおうとしたようなのです。ですが、決して……決して悪気があったわけでは」
「……事情はわかりました」
そっけなく応じ、侍女がさくらを見る。いつにも増して冷酷な眼差しだった。凄惨な事件を起こした犯人を見るような目だった。
「プリンシアはこちらに。みなさま、お騒がせいたしました。この件については後ほど話し合いましょう」
マザーが青ざめて侍女を引き留めようとしたが、彼女はそれを微笑んで制する。
「わたくしが目を離したのが悪かったのです。わたくしの責任ですから、どうぞお気に病まず」
怒られる。
さくらは侍女のあとを歩きながら、鼻をすすった。
何度怖い目に遭っても、泣くのに飽きるということがない。
ぐすぐすと鬱陶しかろうが、勝手に喉がひきつれてしゃっくりが出る。
「お入りください」
部屋の扉を開けて、中へ通される。
いつものように寝台に腰かけて、侍女の言葉を待った。彼女は向かい側の寝台には座らず、入り口のあたりに立ったままだ。
「あの子たちに、なにを吹き込んだのです?」
容赦のない、糾弾の声が突きつけられる。
「願いが叶う? そのようなことをおっしゃったのですか?」
ちがう、と言いたくても声が出なかった。首を振って否定すると、侍女の溜め息が聞こえた。
「なにか甘い誘惑のようなことをおっしゃったのでは? あんな年端もいかない子どもに夢を見せるだけ見せて、なにが楽しいのですか。昨日、資産家の男性がいらしたばかりですものね、あの方に引き取ってもらえるように祈るなどとささやいたのではないのですか?」
「ち、ちがう、ちがう……」
「そうですか。まあ、素直にお話しいただけるとは思っておりませんから。それより、今後はこのようなことのないよう、頼みますよ。あの子たちも、あなたに近づかせないようマザーに申し上げておきますから、明日からあなたはあの子たちに手伝ってもらうわけにはいきませんよ」
「……は、はい」
「では、もう、おやすみください。わたくしはマザーとお話をしてまいります。この件、王宮には報告させていただきますから、ご自重なさってくださいね」
「……はい」
それきり、その晩は侍女が帰ってくることはなかった。
悲しいのか怖いのか、よくわからない涙が溢れる。けれども眠らないとまた侍女に怒られてしまうから、いつ帰ってくるとも知れない彼女の気配を探しながら毛布に隠れていた。
翌日からは、侍女の言う通り、取り巻きはひとりもいなくなった。
孤児院の子どもたちはみんなさくらを遠巻きにして、マザーはそれを気遣ってさくらだけでできる掃除場所の清掃を頼んだり、あらかじめ食事を用意しておいたり、席や桶をひとつだけ空けておいたりしてくれた。
けれどそのことがさらに子どもたちの反感を買い、特に取り巻きだった女の子たちの態度には顕著なものがあった。
彼女たちはプリンシアの存在を無視することに全力を注ぎ始めたのだ。
いやそれだけならまだいい。周りにマザーがいないときはあからさまに嫌みを言ったし、さくらが嫌がらずに掃除をすることがわかると、今までの労を返してもらおうとするみたいにさくらに任せきりにもした。
さくらはひとの目がないと、心に余裕ができるタイプの人間だった。だから、彼女たちがわざと掃除の担当場所を空けてさぼっていたら、ついそこにまで手を伸ばして掃除がしたくなる。最初は共有していた担当場所だけだったが、次第に彼女たちの担当まで肩代わりするようになり、しかもそれを苦にしていないせいでさらに悪化していった。
だけどそのことで、マザーたちに告げ口をするつもりはまるでなかった。
まじめに取り組むだけ。さくらはずっと、そう言い聞かせて彼女たちのくすくす笑いを聞いていた。
醜悪な人間でも、掃除ならできる。いや、それくらいしかできないから、なにを置いてもまじめに取り組まなければならないと考えたのだった。
そんな生活が続いたある日、孤児院はにわかに浮き足立った。
資産家の男性が子どもを名指しした。明日、会いに来るらしい。
さくらには関係がなく、興味もないことだったから、来訪者のある日も黙って床を拭いた。
拭いたら拭いただけ汚れがとれる。床はあまりきれいになった気もしないのに、ぞうきんだけが汚れる。まるでさくらの汚れを拭っているようで、最近はこういうふうに床磨きをするのがくせになっていた。これを完璧に拭ききれれば、心がまっさらだった頃に戻れる気が少しだけしていた。
床の隙間に埋まった埃を掬い出すのは、心に刺さった杭を抜く作業に似ている。今までに心が受けてきた痛みの数だけ、杭が刺さっている。全部抜くのは無理だろうけれど、抜けば抜くほど優しい人間になれるような感じがして、これもまたくせになっていた。
さくらは掃除が好きだ。
もとの世界にいたときはじぶんの部屋なんてごちゃごちゃのめちゃくちゃだったけれど、ここ数日で思うところがあった。
汚れたものをきれいにするには掃除をするしかない。トイレをきれいにしたら美人になる、そんな言い伝えを思い出し、掃除を通して、じぶんを磨く。
ひとを不幸にする人間だと思われないようになるまで、あとどれだけかかるだろう。時間がかかることはあまり得意ではないけれど、それでもぞうきんを手放す気にはなれなかった。
「リコー! リコーはいないかしら」
マザーが中庭を走っていく。確か今日は資産家の男性が名指しした子どもに会いに来ているのではなかっただろうか。
さくらは立ち上がり、四角くくり貫かれた窓から中庭を覗いた。木の幹に背を預けて本を読んでいる女の子のもとに、マザーが行く。
リコーという少女が、名指しされた子どもの名前らしかった。黒のおかっぱ頭で、小さな鼻と細い目が特徴の女の子だった。十五くらいだろうか。億劫そうに腰をあげた彼女は、他の孤児たちに見守られながら男性のところへ向かった。あまりうれしそうな雰囲気ではない。
さくらはかすかな焦燥を感じた。
選ばれたいと願っていた元取り巻きの女の子たちは、なにを思ってこの光景を見ているのだろう。リコーは取り巻きのなかにはいなかったはずだ。単に「うらやましい」「よかったね」で済むようには思えなかった。
少女たちの狂気を孕んだ眼を思い出す。またさくらを責めにくるだろうか。それともリコーを責めるだろうか。
うすら寒い思いで、さくらは掃除に戻った。
※※※
夕飯時、マザーはみんなの前で発表した。
「リコーは今夜からノーヴァさまのお屋敷に引き取られることになりました。みんなで食べる最後のお夕飯です。うんとお祝いしてあげてね」
食堂はざわざわとした喧騒に包まれ、そのなかで冷めた顔をしているリコーにみんなの視線が集まる。
こんなときまで冷めきった目をするなんてありえない。数日前までプリンシアのご機嫌とりをしていた少女は思った。あんな無愛想で無口な女を、なぜノーヴァ家のひとは選んだのだろう。じぶんのほうが話上手だし、顔も髪も服もきれいにしていたのに、どうしてなにもしていなかった彼女が。
きっとプリンシアのせいだ、と思った。あの晩、みんなでよってたかって急かしてしまったから、きっと嫌われたのだ。なにしろプリンシアは侍女に言って、じぶんたちがプリンシアに近づかないよう図らせた。だから絶対、じぶんたちの輪に入っていなかったリコーを彼女は選んだのだ。
悔しかった。
我こそはと思っていた。
なのに、プリンシアのせいで。
少女は仲間と話し合った。
世にも珍しいプリンシアのことをノーヴァに話せば、おもしろがってじぶんたちのこともつれていってくれるのではないだろうか。
プリンシアは彼と邂逅していない。もしかしたら、彼から隠れていたのかもしれない。だったらなおさら、彼に教えてあげたら喜んでもらえるかもしれない。
仲間内で意見は一致した。このなかの誰かひとりが選ばれていたら、じぶんたちは悔しいながらも祝福しただろう。けれど努力もしていない欄外の子どもが選ばれるのは我慢がならない。そう選ばれるように仕向けたプリンシアも許せない。
だからリコーが引き取られていく前に、彼に話してしまわなければ。仲間がいることを最大限に活かし、リコーの支度を待つ馬車のところで、少女は彼とじぶんだけの時間をつくることに成功した。
「ねえ、ノーヴァさま。ご存じですか?」
「なんだい?」
「この孤児院にはね、プリンシアがいらっしゃるんですよ」
「へえ」
耳打ちするように言ってみる。彼はなにが楽しいのか、わずかに笑い声をもらすほどの笑みをつくっている。
「もしかしてもうご存じなのかしら。驚かないんだもの、つまらないわ。ねえ、いつからわかっていたんですか?」
「んー、どうだろうねぇ」
ノーヴァの男はにこやかに、けれど少しだけ嘲るように孤児院全体を眺めた。秋の夜の肌寒い風が、ワンピースの裾を揺らす。今日は特別に寒い気がして、思わず腕をさする。
「じゃあ、誰がプリンシアだったか、おっしゃってみてくださいな。もしかしたら間違ってらっしゃるかも」
話を引き伸ばしたくて言ってみるのに、やはり男はのらりくらりとかわすばかりだ。
ここで諦めたらなんの意味もない。半ば意地になって、少女は男の腕にすがった。本当は触っちゃいけないとマザーに言われていたのに、つい我を忘れた。
けれど高価な服に触られても男は怒るどころか笑みを深めて少女を見下ろした。その顔が、月を背にしたせいか暗く見えて、一瞬だけ心臓が大きく鳴った。なぜだろう、興奮が一気に冷めた気分だ。
少女は小さく謝って、手を引っ込めた。
「ごめんなさい、あたしったら」
「――きみはそんなに、僕と一緒に来たいの?」
「え?」
顔をあげて、そっと彼の瞳を覗く。きらりとした大きな目が、光を写していないことに気がついて、思わず表情をつくり忘れた。
「そんなについてきたいなら、来る?」
「え、でも、そんな」
宝石のついた指輪が、月の光を反射する。きらきらの手が差し出されたのに、願ってもないことなのに、なぜだかその手を取れない。
「来たかったんじゃないの? なんだ、まあそれでも別にかまわないけど」
下げられてしまう手が、とても惜しいものに見える。どうして躊躇ったのかわからないけれど、今を逃したらもう機会は巡ってこないかもしれない。
少女は慌てて彼の手を両手で捕まえた。なにか怖いことがあるのかもしれないが、そんなことはあとで考えればいい。今は、運命を信じたいと思った。
「そう、やっぱり来る?」
「はい!」
「じゃあ僕からマザーに言ってくるから、馬車に乗って待っててね」
「は、はいっ」
「いい子だね」
男は感情の読めない顔でにこりとした。それから御者を一瞥して、ひとつうなずく。そばを離れる合図なのだろう。彼が去ったあと、御者が降りてきて馬車の扉を開けてくれた。
これで幸せになれる。少女はどきどきして、馬車に乗り込んだ。




