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さくらは、孤児院ではお客さまのような扱いを受けた。朝起きて水場に行けば、マザーの指示で子どもたちに順番を譲られる。冷たい水を張ったバケツに手を突っ込もうとすれば、横から絞ったぞうきんを差し出される。邸での待遇から少し質が落ちたくらいで、根本的なことは変わらなかった。
最初は物珍しさがあったのか、数日間、さくらの周りは幼い子どもたちの姿で溢れていた。けれどそれを過ぎると、だんだん、周囲の人間は入れ替わった。
一部のマザーが気を利かせてさくらを優遇するように言うと、無邪気な彼らは必ずぶすくれた顔をするのだ。当然だ。気に入らない、と思われて当たり前なのだ。新参者のために我慢を強いられた子どもたちは、理不尽を感じて離れていった。
代わりに、少し歳を重ねた少女たちが群がるようになった。ちょうど、貴族の娘がプリンシアに媚びを売るのと同じように、彼女たちはさくらに優しくした。いつでも仲間の輪に入れてくれて、子どもがさくらにいたずらしようとすればなにを言わずともたしなめてくれる。さくらの悪口を言う男の子をこらしめてくれるのも彼女たちだし、ぞうきん絞りも水場や食事の順番待ちも、重いものを持つのも、全部、まるごと、彼女たちの役目になってしまった。
孤児院のルールに従って暮らすように言われているのに、さくらはそれを守れていない。侍女は誰かに助けてもらっているさくらを見かけるたびに嫌な目をした。よくもじぶんだけのうのうと暮らしていられるわね、そんな声が聞こえるようだった。
侍女は宮廷での仕事を取り上げられ、さくらのせいで孤児院にまでついてくることになってしまったのだとここに来て三日目の夜に知った。仲良くなったらしいマザー数人を相手に愚痴を言っているのを聞いてしまった。だから彼女がとても怒っていることも、知っている。本当はさくらのことなんて置いていって、宮廷で別の主人に仕えたいと思っているのだろう。申し訳ない、と思った。
「起きて。起きてください」
侍女は孤児院に来てから、ほとんどさくらのそばにはいない。プリンシアとも呼ばないし、目が合わないどころか顔を見てすらいなかった。ずっとそっぽを向いて、つっけんどんにさくらを促すだけだ。
さくらはばきばきと鳴る身体を一生懸命起こして、寝台に座る。少女たちが様々な仕事を肩代わりしてくれているのに、さくらは日に日に疲労が溜まっていく気がしてならない。一年間、散々ぐうたらと過ごしてきたツケが回ってきたのだろうか。一日立っているだけで疲れるとは、予想以上に体力の衰えが著しい。
侍女の冷めた声に急かされ、重怠い腕にワンピースの袖を通す。
部屋の外に出て階下へ降りると、都の家々は黄金の光に照らされていた。赤い煉瓦材で組み立てられた街並みは、理路整然として、隙がない。雑草の一本も生えない道路がどこまでも続いていて、孤児院の中庭といえども例外なく無駄のないよう整備されていた。
今日も一日が始まる。まばゆい朝の日差しが都の汚れを一掃するかのように横面から駆け抜けてきて、さくらを追い越していく。光の中にあっても、さくらだけは輝いていないような、そんな気がした。
「おはようございます、プリンシア」
「ごきげんよう、プリンシア」
「よく眠れまして? さあ、ここでお顔を洗ってくださいな」
中庭に面した水場では、子どもたちが押し合いへし合いしている。けれどさくらが行くと、十五歳くらいの女の子たちがわらわらと集まって、桶をひとつ確保してしまう。井戸から汲み上げられた水を意図せず一人占めするかたちになったさくらを、いくつもの幼い眼差しが睨んだ。
「まただぜ、あいつ! めしつかいにぜーんぶやらせて、じぶんはふんぞり返ってんだ!」
「誰がめしつかいよ!」
すぐさま少女たちが反論し、ここ最近恒例となっている口喧嘩が始まった。
「どう見てもめしつかいだろ! へこへこしちゃって、ばかみてぇ。プリンシアだかなんだか知らねぇけど、おれらのとこにいきなり入ってきて王さま気取りされたんじゃ腹立たねぇほうがおかしいぜ」
「なんてこと言うのよ! 不敬よ!」
「そうよそうよ!」
「なにがフケイだ! だったらちゃんと順番くらい守れよな。決まりごとも守れねぇくせにえらそうにすんじゃねぇよ、なあおい、うしろで突っ立ってるだけのあんたに言ってんだけど」
じろりと睨まれ、急に水を向けられて、さくらは肩を跳ねさせた。ごく当然のことを指摘されて、頬が熱くなった。思わず唇を噛んでうつむくと、女の子たちがさらに大きな声で男の子を批判した。
「あんたみたいなガキが直接話しかけていいお方じゃないっつーの! プリンシアさまに膝をついて謝んなさいよ!」
「そうよ! プリンシアさまみたいな方が、あたしたちみたいにちまちま順番なんて待つ必要あると思ってるの? この国の聖女なのよ? 特別な方を特別な方法でおもてなしするのが当たり前でしょ。そんなこともわかんないなんてほんっと、男ってばかねぇ」
「はあ? ばかはそっちだろ! 国を救ったのは討伐隊の兵士たちだ! そいつは城の中でぬくぬくしてただけで、ワームの一匹だって倒しちゃいないんだろうが! ひとに仕事押しつけて、じぶんは楽してんだ! 町のみんなだって言ってる、ほんとは討伐隊のひとたちのほうががんばってるんだって。いっぱい死んじまったけど、それでも討伐隊のひとたちは国のために戦ったんだ。だからほんとに讃えられるべきはそいつじゃなくて兵士たちなんだよ! そんなこともわかんないのか!」
「なんですって!」
「プリンシアさまだってねぇ、毎日お祈りしてくださってたのよ! ずっとよ! 一日中よ! 長い間お祈りしてるのがどれだけ大変か、あんたが一番知ってんじゃないの!?」
「……うっ。で、でもおれだったら、祈ってる暇があんなら剣を持って戦いに出る! 祈りなんてくその役にも立ちやしねえ、おれはそんなもんには頼らない!」
「最っ低! じぶんがお祈り苦手なだけじゃないの!」
やいのやいのと言い合う彼らを、マザーたちが呆れた目で見ている。
「あなたたちも毎度毎度同じ話題で喧嘩して、飽きないわねぇ」
すると今度はマザーに向かってじぶんの言い分の正当性を訴え始める。
「お祈りのひとつも満足にできないやつが悪いのよ!」
「群れてご機嫌うかがいばっかしてる女に言われたかねーんだよ!」
「はいはいはい、もう、いい加減になさいな。今日はお客さまがいらっしゃいますからね、お行儀よくするんですよ」
はあい、とふてくさた返事を最後に、男の子と女の子の攻防は幕を閉じた。
彼らの生活を乱している――自覚があるだけに、マザーのお叱りはまるでじぶんに向けられたみたいに思えた。
孤児院に来る客と言えば、だいたいが孤児を引き取らんとする資産家だ。だから孤児たちはいつもよりも身綺麗にして、おとなしく一日を過ごす。喧嘩なんてもってのほかで、なるべく良い子に見えるよう来訪者のそばでにこにこしているものらしい。
今日の客は特に多額の寄付をしてくれた大金持ちの男で、遠目で見た限りでは成金の匂いがした。
訪ねてきて早々に札束をマザーに渡し、高そうな指輪がたくさんついた手で子どもたちの頭を撫でていく。
体格はすらりとしたもので、手も足も長い。そのスマートな体躯をドレッシーなスーツに包んでいて、あまり気軽に近寄れる雰囲気でもない。けれども彼の顔には常に柔和な笑みが浮かんでいて、子どもたちは彼に触れられないかわりにずっと周りをうろちょろしていた。
そんなわけで、この日に限ってはさくらの取り巻きは資産家の男に夢中だった。
「今日はお手伝いの子がいらっしゃらないんですね」
ひとりで廊下掃除をしているところに通りかかった侍女が、珍しく声をかけてきた。さくらは木のタイルをぞうきんで磨く手を止め、顔をあげる。
「そんなに細かくやっていては終わりませんよ」
忠告のようなことを言い置いて、彼女はあっさりと去っていく。さくらを見下ろす目には相変わらず温度はなかったけれど、声をかけてくれたことがなんだか少しうれしかった。無視をしないでいてくれる、それがどれだけ心暖まることか、さくらは久々に思い出した。
タイルに挟まったごみを取るのを一旦やめて、彼女の言う通りひとまず廊下全体の水拭きを進めた。水は冷たく、ぞうきんは茶色に染まっていたけれど、黙々と作業をすることは案外苦痛ではなかった。むしろ、女の子たちに気遣われて、掃除ともいえない楽な掃除をさせてもらっているときのほうが辛かった。
誰の目も気にしなくていい。
ひとりきり、朝の日差しが差し込む廊下でぞうきんを絞る。遠くでは子どもたちのはしゃぐ声が響いていて、近くでは戸を外した窓枠で青い小鳥が囀ずっている。
かじかんだ手が、気にならない。赤くなった指も、土が詰まった爪も、気にならない。
本来なら、さくらはそんなものを気にする人間ではなかった。今のこの穏やかでしんとした空気の方が、宮廷の賑やかしい空気よりもずっとずっと身に馴染む気がする。
――わたし、疲れていたのかな。
深く息を吸えるじぶんに気がついて、さくらは熱心に床磨きをした。
――誰もわたしを知らない場所で、静かに暮らしたいと言ったら……あのひとたちは驚くのかな。
リンナは清々するだろうか。ジンは形だけでも惜しんでくれるだろうか。国王陛下は、どうだろう。あまり会って話したことはないから、想像がつかなかった。
けれど確かなこともある。
おそらく侍女たちは喜ぶだろうということだ。喜んで、安堵して、あいつは史上最高に嫌なやつだったと笑いながら言い合うことだろう。そうされても仕方の無いことを、さくらは彼女たちに強いた。
今はまだ、謝る勇気が出せないけれど、いつかあのひとたちに感謝と謝罪を伝えることができたらいいと思う。
――こんなこと、邸にいたときは思ったことがなかったっけ……。
虎の皮をかぶる必要の無い場所でなら、さくらは少しだけゆとりのある心でものを考えることができるのかもしれない。そのことをしみじみと感じて、ずっとそういうじぶんでいたいなと思った。
昼時も、子どもたちは来訪者にべったりだった。男も終始にこにこして、特に女の子とよく話した。どうやら彼は女の子を引き取るつもりらしい。小耳に挟んだ話によれば、彼には病弱な妹がいて、その子の話し相手を欲しているのだという。
毎日さくらに張りついてあれこれと世話を焼いてくれていた女の子たちは、こぞって彼の目に留まろうと必死だった。さくらとすれ違っても急いで走っていってしまって、挨拶もろくに返ってこない始末だ。
さくらは彼女たちの邪魔にならないよう、資産家の男からは離れて一日を過ごした。手伝いがないぶんいつもより仕事の進みは遅かったが、休憩時間に床磨きの続きとしてタイルの隙間に詰まったごみをほじくりかえすのはなかなか楽しかった。ひとり遊びが得意なさくらは、やはりこういった地道な作業が好きなようだ。
最近では誰かに肩代わりさせてばかりだったことをちゃんとじぶんでやってみて、なんだかちょっとだけ地に足がついた感じがした。これをひとは充実感と呼ぶのだろうか。でも、もっとたくさん働かなくては、充実しているなんて言ってはいけない気がして、その日の晩は寝つけなかった。
早く明日になったらいい、それで今日よりも少し多く、仕事をしよう。そして明後日には、明日よりさらに少し仕事を増やそう。そんなふうにして、だんだん、たくさん、がんばれるようになるといい。まるで遠足の前の晩みたいに、笑ってしまうほど高揚していて眠れなかった。
もしかしたら変われるかもしれない。そのことが、さくらの心をかつてないくらい温めていた。
「プリンシア、そんなことはわたしたちがやりますから!」
「そうですよ! さあさあ、ごはんを召しがってくださいな」
翌朝、客が帰った孤児院はいつもの顔を取り戻した。資産家の男が孤児を引き取る予定でいても、さすがにその日に連れ帰ることはない。数日後に、引き取りたい子どもを指定して、今度は指名した子どもに会いにやってくるらしい。
よそいきの顔をする必要がなくなった女の子たちは、今まで通りにさくらの仕事を代わりにやってしまう。金持ちの家のお嬢様になれる可能性が出てきたせいか、彼女たちは俄然やる気を出していて、さくらが断る前にすでに水を汲んでいたり、食事のトレイを運んでいたりするからたまらない。せっかくじぶんのことはじぶんでやろうと意気揚々としていたのに、出鼻をくじかれた気分だ。
「あの、わたし、」
「どうなさったの?」
「あっ、ぞうきんですか? 今、絞って差し上げますから!」
「そ、そうじゃなくて」
「いいんですよ、さあ、今日はお天気がいいですから窓際でお待ちになって!」
さくらが言葉を声にする早さでは、彼女たちに追い付けない。話しきる前に、見当違いな方向に了解されてしまって、訂正しようにもやっぱり途中で台詞が切られてしまう。
もっと早く話さなければ。わかりやすいように、簡潔に、さえぎられる前に言い切らなくては。
そう思えば思うほど舌が絡まる。しまいには声も出しづらくなって、最初の音ばかりを二、三回繰り返してようやく言葉になるというありさまだ。
「あ、あっあ、あの、それ」
「なんですか? あっ、ぞうきんが汚れたんですね、わかりました!」
「ち、ちちちが、違う……っ」
床を拭いたあとのぞうきんはざらついて、ちょっと触るだけで手が真っ黒になる。けれどそれをひとに渡して洗ってもらいたかったわけじゃない。
さくらはぞうきんを握りしめて、女の子たちにとられないようにした。
「わ、わ、わたしっ……じ、じぶんでできる、から」
「え?」
手を差し出してくれていた女の子が、笑みを作り損ねたみたいな顔をする。
ひとの厚意を無下にすると、しばしばひとは彼女と同じ表情をつくる。さくらはそれが怖くて、ずっと声をあげられなかった。けれど今、変わろうとしなかったらこの先も永遠に変われないままな気がして、ついに言ってしまった。
「え、えーと、ごじぶんで?」
さくらに向けた手をゆるゆると引っ込めて、彼女はお腹のあたりで揉み手をする。周りで作業をしていた他の女の子たちも、気を引かれたようにこちらに顔を向けた。
いくつもの視線が突き刺さる。
心臓が冷たく鳴いた。
――どうしよう、怒ってる……? 怒らせたのかな、どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
頭から血の気が引いて、地面に立っている感覚がおぼろげになっていく。
やっぱり、おとなしくされるままになっていたらよかったのだろうか。
でも。
それでは。
なにも変わらない。
さくらはいたたまれなくなって、早口に言った。
「じぶんのことは、じぶんでできます。大丈夫。平気です」
彼女の返事を聞く前に、さくらはその場を逃げ出した。
掃除用具入れから別のバケツを取り出して、昨日したように水を汲み、またひとりで廊下の掃除に取りかかる。遠くで女の子たちが固まって、なにやら話しているのが見えても顔をあげなかった。いや、あげられなかった。
ぞうきんを洗う手が震えている。水が波を立てるほど、ほとんど痙攣のように震えていた。




