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 ミミリア内親王が眠りに入ってから、およそ二十日。彼女のそばで目覚めを祈っても成果はなく、いたずらに三日を数えた。今日、朝陽が昇れば四日目となる。早くも約半月、経ってしまった。


 さくらは、じりじりと焼けつくような焦燥感にさいなまれ、ほとんど不眠不休で祈り続けている。

 このまま目を覚まさないと、かなりまずいはずだ。

 起きて食事をする、ということができない以上、ふだん通りに摂取できるのは水分に限られる。

 眠ったままパスタだのオムレツだのを咀嚼できればなんの問題もないが、そんなわけにもいくまい。磨り潰せる食材だけペースト状にできたとしても、そう多く飲み下せるとも思えなかった。無理に与えて誤嚥の危険性を高めては本末転倒であるし、果たして嚥下食と水でどれだけのあいだ彼女の身体が耐えられるのか。元々少食なようなので、少ないエネルギーで体調を維持することに慣れたひとだったのは間違いなく幸いだ。


「おねがい……、おねがい、めざめて」


 いつもは声に出して祈ったりはしないが、今回ばかりは彼女の様子に変化がないので幾度となくつぶやいてしまう。

 そうすると部屋の隅から、姫さまとささやく声が聞こえる。乳母もさくらと同じく、まともな休息も摂らずに祈りを見守っている。

 さくらは握った両手に力をこめた。

 やはり、だめだ。


 ――どうして目覚めないの? もしこれが罰なら、殿下の代わりにわたしを眠らせるのじゃなきゃ道理に合わない。


 なぜ目覚めないのだろう。眠らせることはできるのに、なぜその逆ができないのか。


 ――わたしはもう、神さまに見限られてしまったのかな。


 そうとしか考えられなかった。最初は気に入ってくれていたのかもしれないが、今もまだ好かれているとうぬぼれられるほどの悪人になった覚えはない。神さまに、ざまあみろと思われていたらと考えると、世界にたったひとりだけになってしまったような感じがした。さくらはひとりきりで、死んでいかねばならないのかもしれない。


 再び死ぬことへの恐怖で震え始めた頃、殿下の寝室を来訪した者があった。

 応対したのは乳母で、訪ねてきた人物は女性の兵士だった。兵士は乳母に何事かを耳打ちし、扉の外へ引っ込む。

 さくらは、とうとう判決を下されるのかと察して、処刑を覚悟したはずの身がガタガタ震えるのを情けない思いで押さえ込んだ。


「プリンシア。後宮の外で騎士団の方がお待ちだそうですよ」


 乳母に声をかけられ、思わず悲鳴をあげそうになった。いくら投げやりな気分になっても、最後まで死ぬのは怖いのか。


「わ、わたしは、まだ、殿下を目覚めさせることが、で、できていません」


 まだ祈れる、まだ見限らないでくれ、そんな思いを込めて言ったが、乳母はありがたそうに微笑んで「勅命がおりたようですから」と首を振る。

 勅命とは、王からの直接の命令のことだ。

 これ以上どこまで血の気が引くのだろうというくらいに顔色を失って、さくらは絨毯に手をついた。それを乳母は実に好意的に受け取り、何度も何度もお礼を言う。


「仕方がありませんわ。陛下にはなにかお考えがおありなのです。どうぞ、姫さまのことはわたくしにお任せくださいな」


 なんたって姫さまの乳母ですからね、と彼女はじぶんの胸を叩いて豪気に言い切る。

 さくらには返す言葉もなく、さくらの侍女に半ば引きずられるようにして部屋を出た。


 ――ああ、ついにわたしは死ぬんだ。


 もとの世界のことも、この世界で見てきたものも、なぜか頭に浮かばなかった。たった今生まれたばかりだというように、すべての記憶がまっさらで、なにもなかった。呼びたい名前も、すがりたいと思うひとの顔も、なんにもない。

 正真正銘、さくらは独りぼっちだった。

 侍女に連れられるまま歩いて、騎士団の誰かと合流しても、さくらにはほとんど意識というものがなかった。音は遠く、誰かがなにかをしゃべっているのをなんとなく見つめる。なにを言っているのかはわからなかった。


 さくらはさらに移動した。騎士のひとたちはときおり首をかしげてさくらを見るのだが、さくらにはそうされる理由がわからない。ぼんやりとした目を足元に落とせば、騎士たちも前を向いた。


 途中で侍女がどこかへ消え、やがてさくらが馬車に押し込まれたところでまた戻ってきた。その手には皮の鞄がある。とても頑丈で、ずいぶんと大きな鞄だ。

 最後の審判に必要なものを、必要な場所まで運ぶのだろうか、罪人ごと。

 それにしても、刑が確定したならさくらの扱いはことさらひどくなるものだと思っていたが、馬車の中で罵声を浴びせられたり腕を引っ張られたりすることは一切なかった。それどころかしばらくして着いた先では、騎士が大切そうにさくらの手をとって馬車から降ろしてくれる。

 降ろされたところは、どうやら子どもたちのたくさんいる施設のようだった。

 周りよりも背の高い建物で、四角い塔が四棟あり、それを繋げるように楼門がある。馬車はこの楼門をくぐり、中庭に入っているようだった。多くの子どもたちは、その中庭で一行を迎え、賑わう声を響かせている。


 さすがになにかおかしい、と思って、さくらはまばたきを繰り返した。子ども用の収監施設だろうか。いや、それにしては空気が自由すぎる。来訪者がいるのに、こんなにわらわらと罪人を庭に出しておいていいものなのかと考えると、もっと別の目的を持った建物のような気がしてくる。


「こ、こは」


 かすれた声で問うたさくらに、侍女や騎士が答えるよりも早く返事をしたひとがいた。


「よくいらしてくださいました、プリンシア。ようこそ、我がカントナ児院へ!」


 総勢五十余名の女性たちが、入り口と思われる門扉のそばに整列していた。全員、薄灰の質素なドレスと、長方形の白い布で口をおおう姿で揃っている。

 口布はひらひらとして、しゃべるたびに揺れ動く。紐で吊っているらしく、どうぞこちらへと言ってきびすを返した女性の頭の後ろにはその紐の結び目があった。蝶々結びに色のついた石がいくつか通されている。


「ではプリンシア。お元気で」


 騎士が、別れの挨拶をした。

 聞き返そうとしたのを、侍女にねめつけられて押し黙る。


「あなたならきっと、殿下のご病気も治すことができます。がんばってください!」


 熱心にそう言うや、彼らは馬車に乗って帰ってしまった。残されたのは侍女とじぶんだけ。これはいったいどういう展開なのだろう。

 意味がわからず侍女を見るけれど、彼女は騎士がいなくなったとたんふてくされたように唇を引き結んで、口布の女性たちを追いかけていった。慌ててさくらも続くものの、なにが起きているのか理解できなかった。


 さくらと侍女にはふたりで一室使うよう部屋を割り当てられた。固そうな木造の寝台がふたつと書き物をするための、これまた毛羽立った木造の机が寝台のあいだに置かれている。窓はない。


「油は貴重なので、私たちは朝日と共に起床し、日暮れと共に就寝いたします。陛下には、カントナの規則通り子どもたちと同じ暮らしをしていただけるよう配慮せよと申しつかっておりますので、いささか無礼に感じるかもわかりませんがそのようにさせていただきます。どうぞご容赦くださいまし」


 薄灰のドレスの女性は、子どもたちの面倒を見る役目を持ったマザーというひとたちだった。

 ここはどうやら孤児院のようで、要するにさくらは王宮を追い出され、孤児院に預けられたということのようだ。


 世間的には「集団生活のなかで規則正しく生き、子どもたちのお世話を通して精神修行をし、役目を終えたことで薄まってしまった祈りの力を取り戻そうとしている」ということになっているらしい。ものは言いようである。切れ目のない長ったらしいその一文は、まるでどこぞの社訓のようだ。


 マザーは陛下からの言葉を伝えると、さっそく孤児院内での生活を説明した。おそらく細かい決めごとはたくさんあるのだろうが、重要ないくつかだけを優先して彼女は教えてくれた。


「ここでの食事は一日二度。朝起きましたらまず二の棟の一階へ行っていただきまして、そこで顔を洗ってください。水場と台所がありますから。それを終えたら洗濯班と食事班に分かれて、ひる)十刻まで活動します。朝食を食べましたら各部屋の清掃、水汲み、薪割り、裁縫、写本、さまざまなお仕事が待っております。午三刻には再び食事班が集まり、暮れ五刻に夕飯、六刻には就寝ということになります」

「ではわたくしたちはまずなにをいたしましょう」


 侍女が訊ねると、目尻にほくろのある若いマザーが答えた。


「これから朝食ですので、ご一緒にどうぞ。動きやすい服装に着替えてくださると助かります。食事を終えたらすぐに片付けに入りますから、おそらく夕刻までこのお部屋には戻れません」

「承知いたしました。でしたら少々お時間をいただけますか。すぐに着替えてまいります」

「もちろん。食堂までご案内いたしますわ」

「ありがとう。助かります」


 マザーを扉の外に待たせて、侍女はすぐに鞄をあさり始めた。中から次々出てくる布を吟味して、彼女は薄っぺらいワンピースドレスをさくらに寄越した。


「そちらにお召し替えくださいね。無理を言って孤児院から支給していただいたものです。これからお仕事をするんですから、きれいじゃないとかかわいらしくないだとかは聞きませんよ」


 なにも言っていないのにやや苛ついた語調で注意されて、さくらは小さくなった。

 さくらが邸であれが嫌いこれが好きと言っているのを、彼女はいつもこういうふうに答えたいのを我慢して、にこにこしてくれていたのだろう。きっと腹立たしく思いながら聞いていたに違いない。


 さくらは歯を食いしばって、何度も洗濯を繰り返したようなくたっとした服に着替えた。生成り色の綿の服だ。足首が隠れないし、袖も七分丈、襟ぐりはボタンで留めても伸びきった印象だ。これに薄汚れた白いエプロンを紐で首と腰に結ぶ。靴はかかとの低いシューズに替えた。底が薄くて、板も入っていないから、剥き出しの床の冷たさや些細なでこぼこが足の裏に直接伝わってくる。


「終わりましたか? 今日から身の回りのことはごじぶんでなさるんですよ。ここではそういう決まりですからね。あなたもお聞きになったはずですわ」

「うん……着替えた」


 もとよりひとに手伝ってもらわない生活のほうが長かったさくらだ。

 この世界ではコルセットというウエストを引き絞る下着が主流だが、これはよほどサイズの合わないものでなければひとりで着られるようにできている。

 よくヨーロッパ諸国の貴族がメイドに手伝ってもらって締めているのを映画で見たけれど、ミュゼガルズではそこまで絞らなくてもかまわないのだ。あくまでもこの下着は身体の芯を支えるためのものなのである。

 だからこそ、コルセットさえどうにかなれば、あとは豪奢なドレスでない限り頭からかぶって終わりだ。装飾の多い硬い生地のドレスでも、背中に手が届くなら足元から引き上げて後ろでボタンや紐をかけて着ることができる。

 ただ、問題は髪だった。


「髪飾りもとっていただけますね。ここじゃ、なにもかも王宮とは違いますから。ああ、おやつもおそらくないでしょう」

「……はい」


 宝石を散りばめた白銀の櫛を髪から引き抜き、茶髪をひとまとめにする。

 ゴムなんて便利なものはないから、おだんごにして櫛を挿し、固定するしかない。けれどもさくらの髪の毛は強情で、しかも伸ばしていたからかなり長かった。これを毎朝縛り直さなければならないと思うと鬱陶しい。もしかしたら毎夜洗うこともできないかもしれない。いやそもそも、風呂には入れないのではないか。


 ――いやだな。すぐには死なないとわかったら、わたし、お風呂に入れるかどうかなんていうどうでもいいことを考え始めるんだ。


 国王はさくらにここで精神修行をしてほしいようだ。どうやら罰は処刑ではないらしい。やはり、プリンシアという存在を殺すのは躊躇われたのだろうか。

 しかし、そうやってぬか喜びさせておいて、姫が目覚めずに命を落とすようなことになったらそのときこそ殺す可能性もないわけではない。

 だがひとまず、さくらは命拾いした。あとは姫を救うだけ――だが、これがなかなか厳しいことであるのをさくらは悟っている。


「さあ、マザーが待っています。行きましょう」


 侍女に背中を押されて、さくらの孤児院での生活が始まった。




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