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ミミリア内親王殿下の居室は王宮の奥向きにある。
生まれたのが男児であれば早い段階で王宮を出て宮廷の敷地内、獅子宮に住まいを移されるらしいのだが、ミミリアは女の王族なので国王の庇護のもとで大切に育てられていた。
女性の王族は自立の必要がないからなのだけれど、逆を言うと王侯貴族に嫁ぐ以外の道などそもそも想像すらさせない軟禁状態でもある。
一般兵や男の使用人はおろか、貴人の専属騎士に任じられているのでなければ近衛騎士団の団員でも容易には足を踏み入れられない後宮の一画。特に国王のハレムがあるわけではないが、国中の令嬢が行儀見習いに来ることの多い王族子女の住まいは、原則男子禁制となっている。
さくらは侍女を唯一の護衛としてここを訪れ、まず内親王殿下の部屋付きと面会した。
「よくぞいらしてくださいました。――まあまあ、プリンシア。どうなさったのです、こんなに泣きはらしたお顔をされて……」
内親王殿下の部屋付きは彼女の乳母であった。ふくよかな身体をコルセットできゅっと締めて、ふんわりした声とは対照的に背筋をぴんと伸ばしている。
彼女に気遣われ、さくらはどきりとした。なぜ罵らないのだろう。
「……あ、あの」
「わかっておりますとも。姫さまのために泣いてくださったのでしょう? あとで目を冷やすものを持ってこさせますからね。さあ、こちらです、プリンシア。侍女どのも、お疲れさまでございます」
「ええ、あなたも」
侍女が深く頭を下げて応じ、さくらは黙って会釈をした。どうやらさくらの予想は外れたみたいだった。まだ、リンナは事の真相を広めていないらしい。少しだけ身体の強張りがとけた。
応接室を抜け、彼女の寝室へと向かう道すがら、乳母は沈痛な面持ちで語る。
「姫さまはときおり、我々の声をお聞きになると目蓋を震わせることがございます。ふだんから食の細い方でしたから、あまりものを口にせずとも姫さまのお身体はそれに慣れていらっしゃる……これを幸いと申し上げてよいものか、わかりかねますけれど」
「心中お察し申し上げます」
いつもは貼り付けたような顔ばかりしている侍女も、このときに限っては本気で胸が痛むような表情をしていた。
さくらは寝室に通されてやっと、断罪の場に連れてこられたわけではないことを認めた。高官はひとりもいない。乳母も憎しみの目を向けてこないどころか、期待するようにさくらを促す。
――処罰される前にやるべきことをやれと……?
リンナの意図を受け入れ、さっそく指先を組み合わせて目を伏せた。天蓋から下がるカーテンを片側だけ開けてもらい、乳母が用意してくれた椅子ではなく、さくらは絨毯に膝をつく。乳母と侍女は扉の横で直立不動の体勢だ。他にも使用人や女性の兵士が数人部屋に待機しているが、誰も物音を立てない。
――わたしが殺しかけたひと……。
目を瞑る前に見た、青白い顔の姫君。透き通った肌には血管が浮いて見え、首は病的なほど細かった。
寝台で眠る姫君と、式典で見た姫君の姿が重ならない。さくらを震え上がらせるような存在感とその発言を思い出せば、未だに絶望感と苛立ちがよみがえる。
それでも、彼女に悪意などなかった。そこだけは、さくらにもわかっていた。姫は無邪気だったのだ。ただ、それだけ。
けれどさくらには、彼女の純粋さを受け止める器も余裕もなくて、今のこの状況を作り上げた。
あんなにもか弱い生き物だけれど、さくらはそれが羨ましかった。妬ましかった。
でもあの日あのとき、彼女に消えてほしいとは願っていないのだ。
晩餐会で彼女のとなりに座らなくて済めばそれでよかった。あまりにじぶんと彼女は違いすぎて、単純に彼女がいなくなったところでさくらが世界中からちやほやしてもらえるとはとても思えなかったからだ。
彼女がいてもいなくても、さくらが姫君の扱いをしてもらえるほどの大それた人物ではないということに変わりはない。わかりたくはなかったけれど、本当はちゃんとわかっていた。じぶんの存在の軽さと、器の小ささは、もとの世界にいたときから感じていたものだ。
――神さま、神さま、神さま。もしも、神が天におわすのなら。世界を七日で創ったというその知恵と力で、眠りの縁から姫をお救いください。
さくらは祈った。そしてこれが済んだらこの世界にお別れをしよう。そう、思った。
だって、もう疲れてしまった。
プリンシアでいるために考えることも、思うことも、願うことも。
だから、姫君が目覚めたら、終わりにしよう。処刑されることになったら、殺されてやろう。
「お願い、目覚めて……」
さくらのか細い声を聞いて、控えていた乳母が小さくすすり泣いた。
「おいたわしや、姫さま……。今、プリンシアがお救いくださいますからもう少しの辛抱ですよ」
そのとき、胸のうちを、ぎゅっと掴まれたような気がした。
乳母の優しさに溢れた声が、さくらの荒んだ心に杭を打ち込む。さくらの祈りでは、彼女は救えないような気がする。もしそうとわかったら、この乳母もじぶんを罵るだろうか。大事な大事な姫をおまえに殺されたと言って、さくらを殺しに来るのだろうか。
さくらの祈りの合間には、ときどき、むせび泣く声が混じっていた。
3
三年前、ミュゼガルズに異世界の人間を呼ぶと最終決定を下したのは、他ならぬ当代国王ギディオンだった。
たったひとりの愛娘が深い眠りについてからおよそ一週間弱、なんの進展もないことに痺れを切らした官吏たちはもはやプリンシアの助力をあてにするしかないという見解を示している。
だが、本来は地の竜を討伐すべく呼ばれたプリンシアに医者まがいのことをさせて意味があるのかと疑問を持たずにはいられない。
彼女の祈りは天災をおさめるために捧げられるものだ。
いくら王家の人間が関わっているとしても、単なる人助けのために使われていい力なのだろうか。娘の命がかかっているから、父としては強く反対できないものの、そういう便利屋のような使い方をしてしまうことに躊躇いと不安を覚える。
国王は国王ゆえに、プリンシアの扱いには慎重にならざるをえなかった。
なにしろ相手はミュゼガルズとは違う世界から呼び出した人間なのだ。こちら側で呼ぶ人間を選べない以上、プリンシアの選出が神の意向に左右されるものであることは疑いようがない。
そんな人間を軽々しく扱って、神の怒りを買わないなんてことがありえるのだろうか。今代にはなんともなくとも、次代やその先の世代で地の竜が再び現れたとき、プリンシアを呼べなくなっていたというのでは困るのだ。
しかし、このままでは娘が死んでしまう。
不思議と呼吸や鼓動は安定しているというが、いつまでも傍観しているわけにはいかない。
――亡き妻の忘れ形見だ、失うことがあってはならん。
書き机に肘をついてうなだれる王の姿の、なんと情けないことか。
文献には、プリンシアが生まれる世界には高度な文明が栄えているという。もしもその一端さえあれば、この国でも娘の眠りを覚ます医術が発展していたかもしれない。なのに王には、娘にしてやれることは今のところなにもなかった。
昔、異世界の技術を取り入れようとプリンシアに直接訊ねてみたことがあったが、高水準の生活様式が当たり前すぎてなにがどういう仕組みで動いているのか、使っている本人すらよくわからないらしい。
歴代のプリンシアについても、宮の人間は彼女たちから技術を聞き出すことはできなかったようだった。
誰もが口を揃えて「とても便利で物が溢れた世界」と言うばかりで、なぜそうなのかまでは知らないのだ。
最初はいぶかしんだものだが、最近はなんとなく理由がわかってきた気がしている。
彼女たちは皆総じて若い。仕事を持ったことも、家事手伝いすらもしたことのないような少女が、技術の粋に関わっているはずがあろうか。こちらに招いたとき、彼女らはいつもなぜここに呼ばれたのかわからずに泣いたりわめいたりするという。
そんな少女が現実を受け入れ、地の竜の討伐に力を貸してくれるのだ。
天はひとに二物を与えないという有名な言葉がある。とても古い言葉だ。これによると、ひとりのひとが多方面に秀でることはそうそうないということのようだ。
つまりじぶんたちがたったひとりの女の子――例えプリンシアといえど――に、なにもかもを望むのは、酷というものなのだ。
じぶんたちが神に頼んで「地の竜を倒すための人材」を寄越してもらったのだから、それ以外のことで彼女たちに頼ってはいけない。
なぜなら彼女たちは万能の存在ではない。まだひとの世も満足に知らぬ幼い少女だ。
神だとて、この世界のなにもかもを解決させるために彼女たちをここへ運んだわけではあるまい。官吏がなにを進言しようとも、ギディオンだけはいつもそう思うのだ。
王の執務室に、軽いノックの音がした。礼を尽くした衛兵の挨拶があり、来訪者の存在を告げられる。
先刻、急ぎの用件がある旨を書簡で受け取った。おそらく書簡の送り手が、返書を受けてさっそくやってきたのだろう。
開かれた扉の向こうには、やはり見慣れた姿があった。
近衛騎士団団長を欠いた今、多忙を極めるはずのリンナ・ローウェルである。
彼は厳めしい顔付きで深く頭を垂れると、部屋の中央まで入ってきて膝をついた。濃い紅の絨毯に腰の剣を置いて、再び頭を下げる。
堅物と言われて否定もしないこの男。笑う顔などついぞ見たこともなかったが、たいへんに情に厚い人物であることは王も知っていた。
なにしろ厳しい稽古のあとでも彼を罵る兵はほぼいないといわれている。
怠惰な者には厳しく、勤勉な者には相応の敬意を払う裏表のない性格、そして不正を許さない実直な人格。真面目すぎるのがたまに傷だと団長はよく笑うけれども、こういう人間こそ信用に足るものだとギディオンは考えている。
それにしても、彼のまっすぐすぎる性根は彼の出自や育ちに由来があるのであろう。それを知る王は、近衛騎士団の副団長にまで上り詰めても彼にはまだこの世は生きづらいのではないかとときどき不憫に思うことがあった。
「よい、面をあげなさい」
扉を守る衛兵には人払いを任せ、窓も閉めきった室内は無音に包まれる。机に積み重なった書類に、手元の書簡をさらに重ねた。
「どうした? ローウェル」
仕事は中断だ、という意思表示をしても、ローウェルは顔をあげない。それどころかますますうつむいて、平伏す勢いだ。
彼からの書簡には「プリンシアと内親王殿下のことについて相談がある」というような内容が書き付けてあった。
本当ならば彼は数日後に王と面会できればといった風情だったが、ギディオンが官吏に予定を調整させてわざわざそれを早めたのだ。
なんといっても可愛い娘と、大事な救世主の話である。その辺の占い師が言ったのであれば書き付け通り三日後に会ったかもしれないが、ローウェルはこの三年間救世主に一番近い場所にいた人物だ。なにかしらの鍵を手に入れてもおかしくない立場であるために、ギディオンは彼の来訪をなによりも優先した。
「ふむ……なにかよくない話かな」
探るように話を振ってみると、彼は黒い前髪の下で眉を寄せた。
「まだ、わかりかねるのです」
「というと?」
「実を申し上げますと、いましばらく時間が必要なお話なのです」
「なんと」
今度は王が眉間にしわを作る番だった。早ければ早いほどいいと思っていた面会は、少々お節介だったようだ。らしくなく、ことを急いた。
「それはすまんかった。出直すか?」
「いえ。この際ですから、早いに越したことはないでしょう。あまり楽しいお話ではございませんが、どうかお聞き願えますか」
「そうか? おまえがよいというのなら私はかまわん。言ってみなさい。重要なことなのだろう」
今一度深く頭を下げ、彼は言った。
「プリンシア・サクラを、宮廷からお出しください」
「は?」
言われた意味がわからず、ぽかんとする。
「なぜだ? なぜ、今、そのようなことを」
「プリンシア・サクラはもはや以前の彼女ではなくなっておられます。陛下も、すでにおわかりのことと存じ上げますが」
「……いや、しかし」
確かにここ一年のプリンシア・サクラは周囲のひとびとをないがしろにするような奔放な振舞いが目立つと報告を受けている。それも多数。礼拝堂にも足を向けなくなったと渋い顔をする官吏も目にしたことがある。
けれどもそれが、宮廷から追い出していい理由になるとはとても思えない。
ただし、ローウェルの人柄を知った上で、彼にそれが必要だと言われると、無下にもできない。
「どうしてそう思う? プリンシア・サクラがここを出たいと言ったのか?」
それもまたありえる話だ、と思いながら、むしろそうであってくれと願った。彼女の自由すぎる要望なら、いくらでも対処のしようがある。だが、騎士からの嘆願ではプリンシア・サクラの了承を得ることから始めなければならない。いかにして彼女をなだめ、宮廷の外に出すか、考えるだけで頭が痛くなる。
しかし、ローウェルは王の苦悩など歯牙にもかけないといわんばかりに無情を告げた。
「いいえ、彼女がそれを望むことはないかと思われます。すべては私の独断です」
「……そうか。では、その理由を聞かせてもらおう。なにもなく彼女を外に出すわけにはいかないのでな」
「承知しております。それでも彼女にはここを出ていただき、新たな場所に根を張る必要があると私は思うのです」
さすがに頭を抱えたくなったが、ローウェルが王を痛め付けるために言っているのではないことだけは確かなので、かろうじて堪えた。
「敷地の外に邸を建てろということか?」
「いいえ、そうではありません」
「では、どこへ? なんのために?」
「気分転換に外へ出るのでは意味がないのです。彼女の生き方を、根本から変えなければなりません」
「い、生き方?」
思わずきょとんとしてしまった。
「ああ、もしや使用人たちからまた苦情でもあがったのか? だから庶民にまぎれさせて、下々のものの考え方を学ばせようと?」
「いいえ、そういうことではないのです」
これは彼女の人生に関わることだ、とローウェルは至って真剣に話す。
「昼頃からプリンシア・サクラには殿下のお側で眠りが覚めるよう祈っていただいています」
「あ、ああ、高官たちが決めたことだな」
「ええ。しかし、彼女に直接話を聞いたところ、どうも状況は芳しくないと」
「なんと。それは、つまり、彼女の祈りをもってしてもミミリアは目覚めぬと?」
「それはまだなんとも。ただ、彼女の心の有り様がお役目の頃とは一変していらっしゃるのです。今の彼女では、殿下をお救いすることはどうしても難しいように思われます」
「なぜ……そんなにも、変わったと? たとえばどんなふうに? 神に願いを聞いてもらえないほどに、悪に染まったというのか?」
「否定はできないと申し上げるほかないと私は考えます。彼女は、じぶんが幸福でいられるのならば、他人の不幸には目を瞑ってしまえるひとです。もしかすると、出会った当初からすでにそういう人間だったのかもしれません。いつもひとの顔色をうかがっているのに、それがひとを思いやるための行動に生かされることはほとんどなかった……今思い起こしてみると、彼女は彼女のためだけに動いていたように感じられるのです。最近では、それが目で見てわかるほどに顕著であると申し上げなければなりません」
プリンシアに頼ってはならないといいつつ、やはり王も彼女の力をあてにしていたのだ。ギディオンは己の無力さを噛み締めながら、やけにきっぱりと言い切るローウェルを見下ろす。
常々厳しい男だとは思っていたが、救世主である少女を相手にそこまで言ってしまえるものなのか。これが「冷酷なローウェル」と言われるゆえんなのかもしれない。身内にも容赦なく首斬り鎌を振るえる人材の、なんとおそろしいこと。しかしこういう人物がいればこそ、王は安寧の中で政ができる。
「そこまで彼女の奔放な振舞いが悪化していたとは……。通りで最近、箱が使用人の陳情書で溢れていたわけだな」
宮廷を腐らせないため、先代が前プリンシアに助力を得て考案した使用人のための意見箱がある。
これには、匿名で様々な訴えが日々投函されている。
王の仕事はそのぶん増えるが、王だけがその箱を開ける鍵を持つのは、一部の官吏が甘い汁をすすったり下の者を使い潰したりしないよう見張るのに最適な方法だった。
設置した当初は誰も使わなかったらしいが、近年徐々にその匿名性に安心したひとびとが利用し始めている。
三日に一度はプリンシアがらみの訴えが寄せられることを、当然王は知っていたから、ローウェルの告発にそこまで驚くことはなかった。
しかし、ついにここまで恨まれる存在になってしまったのかと彼女を哀れむ気持ちが溢れた。ここに留まるなら留まるで、もっと穏やかに暮らせるようじぶんが配慮するべきだった。豪華な生活がそのまま彼女の幸福に繋がるわけではないとあらゆる物語を読んで育った王にはわかっていたことだったのに。
「おまえの言い分はわかった。一理あるとも思う。しかし、彼女を宮廷から出して、それでどうする」
「彼女は邸での生活にいささか疲弊しているご様子です。ですから、気兼ねなく暮らせる場所に、けれども甘やかしては現状の二の舞になりますから、孤児院で受け入れていただくのはいかがでしょう。集団生活を経験すれば、おのずと周りの人間のことを考えるようになるでしょうし、うまくいけば人間性を高めることもできるのではないかと」
「しかし、プリンシアを孤児院へやるというのは前代未聞だぞ。まあ、なんやかやと理由をつけて話を取り付けることはできると思うが、それで彼女の心根が良い方に変わるだろうか」
「やってみなければわかりません」
ローウェルらしくない、曖昧な返答だった。けれども彼の口調は、ものを断言するときと変わらぬ強さを持っていた。
「どう転ぶかはわかりませんが、少なくとも今のままでは埒があかないのでは? この一年、悪化の一途を辿るばかりだったのですから。この調子ではいつまで待っても殿下の目覚めは期待できない――三日です。三日後にも、なにも変化がなければ孤児院へ。殿下のお身体を思えば、早急に対処すべきかと存じます」
「ふむ、それは、確かに」
今のままでいいとはギディオンも思ってはいない。しかし、市井に紛れ込ませるのはいいとして、よりによって孤児院とは。子どもが多くて賑やかな反面、プリンシアに無体を働く者も必ずいるはずだ。孤児院のマザーが彼らを全員押さえ込んでおけるものだろうか。
「あの方には、きらびやかな世界は似合わない……」
どこか信頼のおける孤児院につてはあっただろうかと考えているギディオンの耳に、かすかなつぶやきが聞こえた。それは本人も気がつかぬほどに苦しげで、気遣わしげでもあった。王はそれを聞かなかったことにし、王都にある著名な孤児院の名を挙げた。
「カントナ児院はどうだ。あそこなら規模も大きく、マザーも多い。……まあ、無法な子どももそのぶん多いだろうが、所在が目と鼻の先ならばいくらかおまえも安心だろう」
「カントナ、ですか」
ところがローウェルはかすかに顔をあげ、嫌な記憶を思い出したというように目をすがめた。
「気に入らんか? しかし、あそこ以上に設備の整った孤児院は近くにないぞ。食べ物も着るものも、おそらく困ることはない」
「ええ、それは存じ上げておりますが、規模が大きすぎるのではありませんか?」
「まあ、子どもは多いだろうが」
「そういうことではありません。ここは聖都です、彼女の悪い噂を聞いた者もいるでしょうし、誰が紛れ込んでもわからない警備体制では連絡も滞るのでは?」
「それを言ったらどこも同じようなものではないか。孤児院は常に外へ向けて開かれていなければならん。孤児たちと都の人間のあいだに壁を作ってはならないからだ。それはおまえも承知のはずだろうに」
「ですから、目が行き届く範囲の規模で運営されている孤児院であるべきだと申し上げているのです」
どうやらローウェルには、すすめたい孤児院があったようだ。もしかしたら、この話をするにあたって、国の孤児院を一から十まで調べたのかもしれない。
しかし、ローウェルが挙げた孤児院は聖都から遠く、それも宮廷の目録にも載らないような小さな施設だった。さすがにそれは、許可できない。
「言っては悪いが、あまりに遠すぎる。ほとんど国境だろう」
「そうおっしゃると、わかったうえで申し上げました」
「まったく、おまえという男は」
この男には無意識にひとを従わせる癖があると思えてならない。例え王が相手でも、媚びへつらう様子がまるでない。だからこそギディオンは彼を重用してきたのであるが。
「プリンシアを孤児院に住まわせるとなるとそれなりの理由が要る。聖都最大の孤児院へやるのと辺境の孤児院へやるのとでは、わけが違うんだ。官吏も納得せんぞ。そもそも、そんなに遠く離れていてはなにか起こってもすぐには駆けつけられない」
プリンシアにもしものことがあったらどうする、との問いには、にべもなく彼は言った。
「私が共に行きますのでなんの問題もないかと」
「お、おい」
「最初からそのつもりでした。必要ならばこの剣もお返しいたします」
「おまえな……」
とうとう王は頭を抱えてしまった。厄介ごとがこうも続けざまに訪れるとは、地の竜に端を発した頭痛の種は日毎に膨らむばかりだ。
「ジンが牢にいるというのに、おまえまでいなくなってどうする」
「殿下の危機です」
「……ぐ。それを言えば世の父どもが逆らえぬことを知っていて言ってるな。だがしかし、こればかりは二つ返事で許可を出すわけにいかんのだ」
しかも、ローウェルの表情を見ている限りではミミリアのためだけにこの提案をしたわけではないとギディオンは勘づいていた。
「ローウェル。おまえはこの王宮にいる誰よりも、プリンシアをこそ、お救いしたいと思っているのかもしれんなぁ」
するとローウェルはまばたきするのをやめ、少ししてからゆっくりと目を瞑った。
「おっしゃっている意味が、わかりかねます」
王は苦笑した。
彼はミミリアよりもプリンシアを優先しようとしている、そんな可能性を感じる。彼は口で言うほど、プリンシアを否定してはいない気がするのだ。その証拠に、プリンシアをどこの孤児院へ行かせるべきかを、あれだけ酷評したくせに王よりよっぽど真剣に考えている。
「おまえは規模の大きな孤児院では不安なのかもしれんが、わかってくれ。それと、ついていくというのなら、ジンやおまえの代わりが務まる後任を選出してからだ。異論は聞かん」
現在の騎士団に彼らを越えて人望を得る人物がいないでもないが、引き継ぎの問題がある。もともと補佐官である副団長が団長代行を任されるのと、平団員がいきなり団長代行を押しつけられるのではだいぶ違う。王は無茶を言った自覚がありつつも、冗談では片付けなかった。
ローウェルはかすかに眉を寄せ、これ以上は無理だと悟ったのか従順な姿勢を見せる。
「御意のままに」
どう見ても彼は納得していなさそうだったが、反論はしてこなかった。なにか他に考えがあるのかもしれない。あるいは、じぶんが彼女についていかず、そして懸念の残るカントナに行かせても大丈夫な方法を、これから考えるつもりなのかもしれなかった。
ローウェルが去ったあと、ギディオンは書類の塔から先ほどまで手をつけていた一枚を机上に戻した。
署名部分に名を記しながら、ふと引っかかるものを感じて筆を止める。
「――そういえば、あの国境のあたりは彼の故郷だったか」




