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プリンシア邸の寝室へ、リンナは直行した。いつもは談話室までしか入ってこない男だったが、今日の彼に迷いはなかった。
彼はさくらをベッドに腰かけさせると、じぶんは絨毯に片膝をついて目線を合わせてくる。
少しきつめのグリーンの瞳が、さくらの真実を突き止めようとしていた。
「私に、本当のことをお話しください」
厳しい声を受けて、さくらはぎゅっと目を瞑った。大粒の涙が一陣の風のように頬を流れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝罪していただきたいわけではありません。それよりもあなたには先に言うべきことがあるのでは?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「……まったく、あなたというひとは」
リンナの溜め息が、怖い。
裸で極寒の地に放り出されたかのような震えに身を委ねて、さくらはひたすら怯えた。
これから行われる尋問と、そのあとの断罪が怖くて、あまりのおそろしさに頭痛がする。痛むこめかみの振動と心臓の鼓動が、まったく一緒だった。ひどく荒々しくて、速くて、それなのに手足は氷水に突っ込んだみたいに冷たい。
「私は今、あなたに優しくものを言う余裕がありません。いいですか、もう一度だけ申し上げます。顔をあげて私に話してください、あなたがしたこと、考えたことをです」
「ひっ、ひっ……う」
しゃくりあげながら、さくらはしぱしぱする目を開けた。閉じていても滲んでくる恐怖の粒は、睫毛全体に絡まって目蓋を重くさせていた。
「……あなたのそれはなんのための涙なのですか。薄っぺらい涙をわざわざ拭って差し上げる手など、私は持ち合わせておりませんよ。あなたはごじぶんの今の立場をなにもわかっていらっしゃらない……。いい加減、泣いている場合ではないことくらいご理解いただけませんか」
普段の数倍容赦なく突き放されて、リンナがさくらの所業に正確に気付いてしまったことを悟った。
頭から音を立てて血の気が引いていく。
流れていた涙がやたらのろのろと頬を汚し、あごで止まった。
呼吸を忘れたように呆然として、さくらはリンナのグリーンアイを見つめ返した。またぽたりとあごから水滴が落ちて、ドレスの膝を湿らせる。
リンナはその様子を、心底どうでもよさげに見やって、短く吐息した。
「あなたには泣く資格などないと、なぜおわかりにならないのです。おおかた、あなたが殿下のご不幸を望んだのでしょう? さきほど私にしたように。……違いますか」
彼の言葉は間違いなく真実で、さくらの生命を脅かすほどに鋭利だった。
彼は実際、真偽など問うてはいない。すでに確信しているのだ。それでも訊ねてくるのは、さくらの自首を待っているからなのだろうか。
――詰み、だ。終わりだ。何もかも。
さくらはますます頭が痛くなって、眩暈さえしてきた。
できれば誤魔化し通したい。そんな事実はないのだと、彼を説得できるだけの強い精神と巧みな話術さえあれば。
けれど往生際悪く嘘をつこうとしても、リンナの凍てついた視線がそれを許さない。一度でも偽りを告げれば即座に国王を召喚し、国中にさくらの罪を流布させると言わんばかりである。
世界中の人間から批難されるかもしれない。
世界中の人間から否定されるかもしれない。
世界中の人間から死すら望まれるかもしれない。
今よりもっと、辛いことになるのは確実だ。それだけのことをさくらはしでかした。
でも、それが当然の罰だとは思いたくなかった。
一方で、ひとの意識を奪っておいてなに食わぬ顔で生きていけるとも思えない。
あちこちに思考が飛んで、なにが悪いのか、誰が悪いのか、責任転嫁を繰り返しては結局自己嫌悪に立ち返る。
「私は、本当のことを、あなたの口から聞きたいのです。なにもしていないならしていないと、はっきり言えばいいことでしょう?」
いいや、リンナ。さくらは、したのだ。もっともしてはいけないことを、したのだ。
それなのに、自らの罪を告白するには、途方もない勇気が必要だった。とてもとても、今のさくらには持ち得ない、世界を救えるほどの勇気が。
嗚咽の合間には、嗚咽しか出てこなかった。
「はあ」
リンナがわざとらしく息を吐いた。
びくりと震えて身を縮めるさくらを、彼は心の底から嫌悪するとでも言いたげな眼差しで蔑んだ。
「もうけっこう」
「……え」
「この期に及んでなにも言う気がないのなら、それは肯定と同じ。あなたはひとを呪った、それもよりによってこの国の宝を……」
「ま、待って、わた、わたし、そんなつもりじゃなくって……っ、あ……」
とっさに飛び出した反論は、罪の肯定以外のなにものでもなかった。
「そんなつもりではなかった、だと?」
「……う」
配慮のかけらもない、怒りの声。身がすくむ。
もう、誤魔化しは利かないのだ。ありったけの語彙を駆使しても、どんなに泣きわめいても、じぶんの発言は取り消せない。そしてリンナの中にわずかにでもあったはずの、さくらへの信頼も、彼の瞳から煙のように消えてしまった。
「どうやら今のあなたはごじぶんの身を守ることで手一杯のようだ。私には、そんな人間と話す意義があるとは思えない。失礼する」
敬語すら外れ、彼はそれだけを吐き捨てるとすぐさま立ち上がった。
――王様に言ってしまうつもりだ。
取りすがるようにさくらも腰を浮かせたが、その気配を先に察知したリンナがとどめの一言を叩きつけた。
「あなたには心底失望した」
ひどく押し殺した声が、さくらの鼓膜を貫いた。その一言は、頭蓋の内側で反響することなく、脳を分断するような鋭い爪痕を残して掻き消える。怒りも焦りも腹の中に押さえ込んで、まるでおまえと関わる気などないというふうに無情な言い方だった。
彼が去ったあと、さくらは激しく泣いた。なんの意味もない涙と言われても、泣かずにはいられなかった。
もう頭も回らない。どうして涙が溢れるのかもよくわからない。
ときおり吐きそうになりながら、悲痛の声をあげて泣きじゃくる。朝ご飯を持ってきた侍女がそれを見つけ、慌てて駆け寄ってきてくれてもしゃくりあげることしかできなかった。
「まあプリンシア、そんなに泣きはらして……。これではローウェルさまも渋い顔をなさるはずですわ」
仕方なさそうに、彼女はさくらの背を撫でてくれた。おそらく数刻後にはこの手の平も取り上げられることだろう。
「お願いですから泣いていないでお食事を召し上がってくださいまし、プリンシア。わたくし、ローウェルさまから言伝てされているんです」
「な、なんて……?」
久しぶりに言葉を発したさくらを、彼女は少しだけほっとしたように見上げた。
「お食事を終えたら内親王殿下の居室をお訪ねするよう仰せつかっております。男子禁制の後宮ですから、わたくしに案内をお任せになったのです」
冷えていた心臓が、また熱く鼓動する。
なぜ、なんのために内親王の部屋に行かせるのだろうか。さくらが犯人だとわかっているのに、どうしてすぐに捕まえないのだろう。
全身がひどく震えた。おそろしくてならなかった。
まさか、被害者の前で大勢に断罪させるつもりなのか。おまえはこれだけの罪を犯したのだという光景を鼻先に突きつけて、集まった高官たちから一斉に罵倒を浴びせられる。
そして最後には、冷たい眼差しの国王と対面して、お前を喚んだのがそもそもの間違いであったなどと言い捨てられるのだ。
待っている末路は幽閉か処刑か、どちらにせよまともな人生は送れまい。悪くすればあと数時間後には絞首台で神に懺悔している可能性がある。
――もうすぐ、死ぬかもしれない。
どうしようもないほどの恐怖が襲う。
――ああ、嘘だ、こんなの嘘だ……。
今度は涙も出なかった。首を絞められたみたいに、かすれて裏返った悲鳴が吐息に混じる。
悲壮な泣き声をあげて崩れ落ちるさくらを、侍女が驚いて見つめた。
「え、えっ、あの、プリンシア? いったいどうなさったのです? お食事の内容がお気に召されませんでしたか? でしたら作り直させますから、お好きなものをおっしゃってくださいまし」
侍女は、聞く耳を持たないさくらに畳み掛けるように言った。
「……どうしようかしら、早くしないとローウェルさまがわたくしをお叱りになるわ。――ねえ、お願いですからお食事をなさって、プリンシア。あなたはよくてもわたくしにとっては大変なことなんです。ローウェルさまのご命令を守れなかったら、わたくしは侍女の任を下ろされてしまうのですわ。そんなわたくしを哀れだとお思いになるのなら、どうかお食事なさって」
食事など、喉を通る気がしない。首を振って拒否したが、侍女は引かなかった。
背中に触れる手から苛立ちや焦りを感じ取る。急かす侍女の声が耳を撫でるたびに鳥肌が立った。今この瞬間にも罪を犯している気分だった。
さくらは自らを抱き締めて、耳をふさいだ。
その様子を、侍女は顔をしかめて見つめる。彼女は、唇を噛みしめていた。
「なんで……、どうしてあなたはわたくしの言うことを少しも聞いてくださらないの? ただスープをすくって口に入れればいいだけのことじゃないの! ――いつもそうよ、あなたはいつもそういうひとなの。わたくしが侍女を辞めさせられても関係ないということなんでしょう? 侍女だってあなたと同じ人間だってこと、考えてみたこともないんだわ」
侍女の訴えは、言葉を重ねるごとに必死さを増していった。ほとんど半泣きで、懇願しているようにも罵っているようにも聞こえた。
彼女は呆然としたままのさくらを見て堪忍袋の緒が切れたのか、さくらの肩を掴んでひどく揺さぶる。もがいても振りほどけない。さくらは彼女に無理矢理連れていかれるものと思って、ほとんど半狂乱で暴れまくった。
「いや! いやだ! 放してっ、わたし、行きたくないっ」
「ねえ! お願いよ、あたし、今までちゃんとあなたのお世話してきたじゃない。あなたの言うこと、ちゃんと聞いたわ。ご飯がいらないんだったら、殿下のお部屋に行くだけでいいから、あたしのためだと思って立ってくださらない?」
「いやだ、やなの……っ」
彼女はきれいにお化粧を施した顔をくしゃくしゃに歪めていて、涙が出ていないのが不思議なほどだった。
「もういい加減にして! 立ってよ! 食事はいいって言ってるじゃない、なにが気に入らないの!?」
揺する手は止まらない。それどころか、引き裂くような鋭い声がさくらを責める。
「あたしは譲歩したわ。これ以上は無理なの、わかるでしょ? お願いだから言うことを聞いてちょうだいよ、あたし本当に辞めさせられちゃうわ」
「やなんだってばぁ……、放してよぅ……」
泣き濡れた声で言い募る侍女を、腕でぐいぐいと押しやる。
拒絶するばかりのさくらに、とうとう彼女も容赦する気がなくなったようだった。
「これだけお願いしても無駄なのね……! 知ってるわ、あたしが裏であなたのことばかにしてるからなんでしょう? あなたはそのことをわかってるから、あたしが辞めさせられちゃってもざまあみろとしか思わないんだわ。……本っ当に最低なひと!」
吐き捨てられた言葉に、さくらは固まった。
「さい、てい……?」
「なによ、本当のことでしょ! 言っとくけどね、みんなだって思ってるわよ。あんたなんか早くいなくなればいいのにって。あたしたち、いつまで我慢してりゃいいのって、一日が終わるたびに言ってるの。それにも気がついていなかったなんて、どれだけ幸せな頭をしてるのかしら。すぐに泣くくせに、そういうところだけは図太いのよね。尊敬しちゃうわ」
「そん……な……ひどい」
「ひどいのはどっちよ! このひとでなし!」
侍女が真正面からぶつけてくる言葉のつぶてが、刺さって、刺さって、刺さって、痛い。
じわじわと広がる痛みが、さくらのやわらかい心をどん底へと引きずり下ろしていく。
失望され、最低だと叫ばれて、外から見てもじぶんはまさしくそういう人間なのだとわかった。じぶんが思っているだけじゃなかった。虎の皮をもってしても、根本は変わらない。かぶった皮の隙間から覗けば、さくらの本性はいつでも見透せただろう。今までは、敬意を表して誰もそれをしなかったから露見しなかっただけのことなのだ。
けれどこれからは違う。
誰もが本当のさくらを知ろうとするだろう。虎の皮ではもう隠し切れないところまできてしまった。こうなったら、もう、この世界にさくらの居場所などどこにもないのではないか。
結局、どこの世界でもさくらはさくらのままで、下手に権力を手にすればろくでもないことしか起こらない、そんな人間だったのだ。
ぼたぼたと、無意味な涙だけが流れ落ちていった。
さくらはふらつきながらも無言で立ち上がり、侍女を驚かせた。
「あ……行ってくださるの?」
返事はせずに、遠くを見つめてうなずく。今、さくらにできることは、姫君を起こすことだけ。逆に言えば、それ以外にさくらの存在意義はない。
――これを、最後の祈りにしようか……。
侍女はやや戸惑ったようだったが、すぐに枕元のベルを鳴らして別の使用人を呼んだ。食事の片付けを他に任せて、じぶんはさっさとさくらを案内するべきだと考えたのだろう。さくらの気が変わっては面倒だから。
すぐに入ってきた使用人は、鼻の頭と頬に赤みのあるおとなしそうな娘だった。新参者なのか、わたわたとお辞儀をして慣れない手つきで食器をカートに下げている。
「プリンシア、行きましょう」
侍女に促され、使用人のそばを横切る。
そのとき、使用人の小さな悲鳴が聞こえて、さくらはふっと振り向いた。
「あっ、申し訳ありません」
使用人の娘は慌てて頭を下げたが、侍女は振り返りもしなかったし返事ももちろんしなかった。
さくらはエプロンドレスの前で合わせられた娘の手がわずかに血に濡れていると気が付いたのに、声をかける気力もなく視線を外した。娘のほうは目蓋の腫れたさくらの顔にびっくりしていたようだった。なにか言おうとしたのか彼女の口がぱかりと開かれたけれど、さくらはそれを待たない。ただ、娘の手についた血の色だけがいつまでも脳裏を染めていた。
内親王殿下の部屋に着くまでに、「大丈夫?」と一言かけてあげればよかっただろうかと何度か思った。




