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 身一つでかまわないとさくらが言ったとおり、旅立ちは着の身着のままだった。

 金も着替えも持たされないことになんの不安もないと言えば嘘になるが、下手に荷物を受け取ると口さがない誰かに好き勝手な噂話を流される可能性があった。そして宮廷の皆の気が変わらないうちにさっさとミュゼガルズを出たほうがいいことも、さくらはちゃんとわかっていた。だから荷造りはしない。頼みの綱はリンナだけだ。


 ──彼には、しなくてもいい苦労をかけてしまう。もしかしたら一緒にいるあいだは、ずっとそうなのかもしれない。何か彼の役に立てることがあるといいのだけど……。


 おそらく今後さくらに関わる必要経費は彼のポケットマネーから支払われるのだろう。支度金、のようなものを彼が王やジンから受け取っているとは思えなかった。呼び名には困っても、そういうのを拒む人だということくらいなら知っている。


「最低限の餞別です。路銀に困ったら売り払ってもかまわないそうです」


 元、さくらの侍女が唇を引き結んで厚手の布を持ってきた。フェルトのような肌触りの、薄い茶色の外套だった。フードもある。

 侍女は捧げ持った外套をずい、とさくらに押しつけたかと思うと、なぜか思い直したように自分の胸元まで引き戻す。

 隣ではリンナが騎士の剣をジンに返却していた。代わりにジンの私物だという装飾的な細身の短剣を譲られている。思えばリンナは、ジンと違って見慣れた制服を着ていない。これがスタンダードな格好ですと言わんばかりの白いシャツに黒いパンツを合わせ、上着はVネックの羊毛セーターに丈の短いジャケットを重ね、遊びのない焦げ茶の外套を羽織っている。この外套はさきほどさくらに差し出されたように、ジンから贈られた。


「あの、後ろを向いていただけますか」


 いかにも不本意というふうに侍女が声をかけてくる。何がしたいのかはよくわからないが、リンナとジンの話が終わるまでならさくらも自由にしていてかまわないだろう。人目はまだあるけれど、国王と内親王が立ち合ってくれているのだから変な噂は立てられまい。


「最低限の餞別です」


 それはさっきも聞いた。

 と思ったら、肩にふわりと布がかけられた。柔らかな外套の感触だ。


「これがわたくしの、最後の仕事です。どうぞ息災で」


 息災とは、こちらでは神の息吹が災いを防ぐという意味があるらしい。さくらの故郷から持ち込まれた言葉だ。でもきっと、元から似たような意味の言葉だったんじゃないかと思う。もう原点を知ることはできないけれど。


 さくらに着せかけた外套を手早く整えてくれるのを、感慨深く見守った。

 今までなら、それで終わりだった。

 でもここが、新たにさくらの原点となるなら。


「ありがとう」


 侍女は一瞬だけ手を止め、うやうやしく一礼してから見送る人々の輪の中へ消えた。


「準備はよろしいでしょうか」


 リンナがさくらをうかがう。返事を待っている。

 落ち着いたグリーンの瞳には、珍しく緊張の色があった。制服を着ていないせいか、いつもの厳格さが半減しているように見える。まるでさくらに合わせて市井に身を落としてくれたみたいで、彼の変化に戸惑うやら嬉しいやらで表情がうまく作れなかった。

 だけどそれでいい。

 これから長い旅が始まるのだ。彼のことは、その旅路の中で否応なしに知っていくことになる。緊張も不安も、ぎこちなさも、やがては消えていく、そんな予感がした。


「もう大丈夫、です」


 リンナがうなずきを返し、かすかに、本当にかすかに口元に微笑みを浮かべた。

 もう大丈夫。期待ばかり重ねた、重たい名前は脱ぎ捨ててきた。

 お姫様にはなれなかったけれど、今はいっそ清々しい気分だった。




 これで苦しいお話も一区切りつきました。ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。


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