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 バルコニーに出てゆるやかに手を振る内親王殿下を、民衆の誰もが見上げる。

 彼女のそばに控えるように立っているさくらは、それを羨ましいようなそうでもないような奇妙な気分で眺めた。群集のなかにはじぶんの名を叫ぶ者もひとりくらいいるのではと思ったが、遠目からではさくらをプリンシア・サクラと認識できないらしい。


 誰にも注目されないのは嫌なのだけれど、かといって舞台のど真ん中に立てれば満足なのかと問われるとそういうわけでもないのだ。目立ちたがりやなのか小心者なのか、もしかしたら相容れないそのふたつがうまいこと同居しているのかもしれない。



 ミュゼガルズに来てから、なんだかさくらはじぶんを見つめ直す旅に出ているような気分になるときがある。

 本当のじぶん。建て前のじぶん。矛盾する気持ちを紐解いて、心の奥の本音を探る旅だ。そしてこの旅の途中、さくらはじぶんが思ったよりも良いところのない人間だということに気がついてしまった。


 道徳の授業で相手の良いところを挙げる、というのがあったが、さくらが言われたのは「優しい」「まじめ」「頭がいい」などで、どうもこれらとはほとんど正反対といっていいタイプの人間だった。おそらくは言った当人たちも本気でさくらを優しいだとかは思っていないはずだ。

 おとなしくしているから、優しく見えるだけ。まじめに見えるだけ。勉強ができるように見えるだけ。

 おそろしいほどに上っ面だけの評価である。逆に言えば上っ面以外のところには特筆すべきものなどないということなのだろう。


「それではみなさま、私は城下へ行ってまいります」


 ミミリアはバルコニーから下がり、宮に集っていたひとびとに告げた。

 丸一日がかりの短い旅。これを無事に終えれば、彼女も晴れて成人の仲間入りとなる。夜には晩餐会が催されているので、彼女が城下をめぐっているあいだに召使いたちが死に物狂いで準備をするのだ。


 彼女はみんなに挨拶をしたあと、最後にさくらのもとへ戻ってきて、照れたようなはにかみ笑いを浮かべた。


「今夜の晩餐会には、私も成人として参加いたします。ですから、プリンシアのおとなりに座らせていただけるのは私になるはずです。こればかりは他の方にお譲りするわけにいきませんとお父様に直談判したほどなのですよ。だって私、ずっとプリンシアとお話がしたかったのですもの。ぜひ、異国のお話をお聞かせください。ね、絶対ですよ」


 握手を求めるように両手を差し出されて、さくらはぞっとした。

 このうるわしの姫君と、晩餐会のあいだずっととなりにいるというのか。彼女の護衛をするジンやリンナを背後に従えたまま、成人を祝うべく近づいてくる参加者たちの応対をさくらにも望んでいると?


 さくらが普段、どれだけ会と名のつく催しを厭うているのか知らないからそのようなおそろしいことを微笑みながら言えるのだ。

 位の高い男性やその奥方が放つ貴族独特の威圧感や高貴さにおびえ、まともな返事もできずにもたつき、怪訝な表情を向けられること幾数回。あまりの社交性のなさに、教養のない娘だと思われることもあった。

 いつも涙目で、早く部屋に戻りたいとばかり考えているさくらを、かつて後ろに控えていたジンもリンナもあきれながら見守っていたことだろう。


 嫌だ、晩餐会になんて行きたくない。


 席順に考えの及んでいなかった今朝のじぶんに言ってやりたい。仮病を使うなら今だ、と。だがもうすべては遅いのだ。姫君はさくらの同席を望み、あまつさえ約束をほしがっている。


 帰ってこなければいいのに。

 そうだ、姫さえ帰ってこなければ、晩餐会は行われない。だって、あれは彼女のお披露目を兼ねているのだから。


 妙な間をあけて、さくらはミミリアの手をとった。両手を使った丁寧な握手をして、楽しみにしておりますだなんて思ってもいないことを言った。

 言ったその口のなかで、あなたが帰ってこられないという知らせが届くのを楽しみにしております、と付け加える。もちろん誰にも聞こえなかっただろうが、さくらは彼女が階下へ姿を消すまで少しびくびくしていた。




 さくらの祈りに力はない。

 そういう結論が、ここ数日で出た。

 役目を果たしたことで失われたのか、あるいは最初からなかったのかは定かではないが、少なくとも今現在じぶんには本当になんの力もない。はずだった。


 けれど、そろそろ姫の旅が終わるだろう夕刻になって、彼女のための晩餐会が中止になったことを知らされた。


 ――まさか……。


 まさかじぶんの祈りで彼女の身になにかが起きたというのか。いやありえないはずだろう、とじぶんをなだめて王宮へ駆けつける。

 なのに、日が暮れても宮殿内は依然として騒がしいままで、騎士たちに運ばれようやく帰還した姫の青白い顔を見て全身に鳥肌が立った。

 何人かの御殿医が入れ代わり立ち代わり彼女を診察したが目に見える症状もなく、騎士の報告にあった「突然意識を失った」ことの原因を突き止めるには至らなかった。


 彼女はさくらの祈りによって意識を奪われたのかもしれない。


 周囲は首をかしげるばかりでわけがわからないといったふうだったが、さくらには天啓のように答えが見えた。それもそのはず、内親王殿下は意外にも風邪ひとつひかない健康優良児なのである。なんの前触れもなく気絶し、そのまま何刻も眠り続けるなどほとんどありえないといっていい。よしんば本人も気がつかぬ持病があったとして、タイミングがあまりにもよすぎる。


 御殿医がどれだけ考えをめぐらせても原因究明には程遠く、内親王殿下の日頃の生活を振り返りなにが悪かったのか意見が出されるうちについには誰の責任になるのかという話になった。


 宮廷料理人や侍女が断罪されかけたが、これまでの十六年間で内親王殿下が意識を失ったことはなかったため「今までになにもおかしなところはなかったのだから生誕日である今日の出来事こそ原因」と主張する王宮残留組と「積もり積もった毒素が、もっとも心身高揚の予想される生誕日に期が熟して牙を剥いた」と反論する旅程同行組が罪の押しつけ合いを始めるほどであった。


 翌日になっても内親王殿下は穏やかな寝顔をさらし続け、誰の呼びかけにも反応しない。


 さくらはその次の日も、そのまた次の日も、自室にこもってがたがたと震えていた。


 まさかじぶんのせいで? いやありえない。

 この問答を何度も何度も繰り返しては吐き気に襲われ、食事も喉を通らず、夜も眠れなかった。いつ騎士団がさくらを捕らえにくるのか、考えるだにおそろしくて涙がにじんだ。


 結局、罪の在処も判然とせぬまま、内親王殿下の眠りが十日を過ぎた頃、さくらの部屋に続報が届けられた。


「暫定ではありますが殿下の侍女どの、料理長どの、近衛騎士団の団長どの、以上三名が独房にて監禁と相成りましてございます」


 報告をしてくれたのは近衛騎士団の団員だ。彼の表情に憤りは感じられなかったが、心を痛めているであろうことは言葉尻から予想できた。


 さくらは、彼がじぶんを逮捕しにきたものだと思って顔面蒼白だったのだけれど、それを聞いて今度はまた別の方向へ恐怖を抱くことになった。


 内親王殿下への傷害に加え、今度は彼女の周りにまで悪影響を与えてしまった。思ったよりも、事態は深刻だ。こんなことを望んだわけではなかったのに。ただ、晩餐会が中止になればいいと……そのためにミミリアがなにかしらの問題を抱えることになったらいいのにと思っただけで。

 街は王宮と比べて警備も薄いし、常に移動しているとなればちょっとした通行妨害くらいはあるんじゃないかとありえそうな想像をしただけのつもりだったのに。


 なのに、こんなに大きな話になるなんて。ここまでのことなど望んでいなかったのに!


 さくらは愕然として、しかし、どういった行動をとるべきかわからなかった。

 とにかく怖くて、今からでも誰かに懺悔をするべきだろうかと考える。おそらくじぶんが彼女の不幸を望んだから、このようなことになったのだと。あのとき、本気で彼女の不幸を望んでしまったのだと。

 でも、もし、そんなことを告白したら、じぶんはどうなるんだろう。侍女たちみたいに監禁されるのだろうか。あるいは――悪くすれば処刑ということも?


 そこまで考えて、足元の感覚がおぼつかなくなった。


「プリンシア!」


 歯の根が合わない。手足が冷たくて、頭の重さでふらつく。立っているのもやっとのさくらを、騎士が慌てて支えた。


「どこかお加減が?」


 心配そうに訊ねてくれる若輩の騎士が、さくらの顔を覗きこむ。

 ひとの体温に触れて、少しだけさくらは正気を取り戻した。けれど、その体温こそ、さくらが奪ってしまったものの大きさを知らしめる。さくらは、あの少女から体温を奪ってしまった。いや、奪ってしまうところだった。それは、償う術もないほどに、とんでもない罪である。


 ――言うなれば、殺人未遂。


 まだ、間に合うだろうか。

 彼女の目覚めを望めば、この事態はおさまる。だって、さくらの祈りが通じたからこその今の状況なら、今度は逆を願えば問題は解決するではないか。

 さくらは、さくらの罪を誰にも知られることなくこの事件を終えられるかもしれない。


 心臓が早鐘を打っていた。どうしてすぐに思いつかなかったのだろう。早急に彼女の目覚めを祈っていればこんな大事にはならなかったはずだ。もう晩餐会なんてどうでもいいから、一刻も早く彼女の意識を呼び戻さなくては。あまり長引いてはジンたちに合わせる顔もなくなる。


 さくらは気が急くままに、わたしが祈るからと騎士に言った。


「礼拝堂に、行きます」

「ですが」


 具合の悪そうに見えるプリンシアを出歩かせたとなると、彼も都合がよくないのだろう。渋るようにさくらの腕を押してくる。


「あまり顔色もよくありませんし、一度お休みになられては? 今からでは夕刻も近いですよ」

「だめです、いそがないと……、だって、もう、あれから十日も経っている」


 背に腹は代えられないと結論が出たのか、騎士は渋々といった様子でうなずいた。

 さくらは、はやる気持ちを抑え、騎士と扉の外に配置されている護衛の兵士ふたりを連れて邸を出た。




 数ある建物のなかでも、指折りの建築技術を用いて造られた立派な礼拝堂。王のおわす宮殿を最高傑作とするなら、次席の座を射止められるくらい広い面積と荘厳な様式を備えている。


 礼拝堂の出入り口はひとつだ。常に扉は開かれていて、いつも誰かが礼拝席に腰かけていた。


 建物全体が乳白色で、丸く太った柱が黄金の装飾をまとって何百本と列なっている。このうち内部に独立して立つものは単なる装飾としての柱だった。

 聖都ミュゼガルズ二千五百年の歴史において、この地に呼び出されたプリンシアたちの像がその柱の天辺に立っていた。彼女たちは白一色の像であるせいか、髪型が違うだけで顔つきはみんな同じように見える。


 そんな歴代のプリンシアたちは思い思いの格好で、火を入れるためのランプを持っていた。ひとによっては手の平に炎を浮かべるように受け皿を持っていたり、丸いガラスのランプを腕に抱いていたり、カンテラを指先に提げていたり、各々の個性に合わせた照明器具を持たされているようだ。長椅子型の礼拝席はその柱のあいだを縫うようにして規則正しく並べられている。


 宮廷人や軍事関係者はことあるごとにここへやって来て祈りを捧げ、ときに懺悔をするのだ。これまでのプリンシアたちに見守られながら。


 総勢六十二名のプリンシアが、天窓から注ぐ夕の光を浴びている。

 完全に日が落ちる前にと、礼拝堂を管理する神祇官の面々が黙々と火を入れて歩いていた。もちろん背伸びしたくらいでは届かないのではしごを使うのだが、それはそれは天井の高い礼拝堂ではしごを持って歩くとガコガコといった雑音がやたら響く。天井は中央の天窓に向かって大きくアーチを描いているので、音が反響しやすいのだ。


 さくらは礼拝堂に入ると、迷わず前列のほうへ向かった。お役目の最中は毎日ここへ足を運んでは祈りを捧げる日々だったが、それが終わってからはめっきり通わなくなってしまっていた。


 入ってくる者を見定めるかのように、出入り口の正面に設けられた祭壇。そこにはさくらが三人いても抱えられるか怪しい花々が飾られている。まるで口を開いた貝殻のような花瓶に、毎朝毎朝豪勢な生花が捧げられているのである。


 神祇官たちはプリンシアの登場に一旦手を止めるも、深く一礼をしたあとは再び作業に戻った。他の礼拝者もだいたい同じ反応をした。


 ここでは身分の上下なく挨拶は立礼のみと決まっている。

 声を出してはいけないというわけではないようなのだが、ここに来るひとたちはみんな、誰に会ったとしても会話はおろかとなりに寄り添うことすら避けていた。なにか話があるときは目配せを交わして外へ出るのだ。

 他人と接してはいけないという暗黙のルールは、まるで、神とじぶんが邂逅している聖域を他人に侵されないためにあるようだった。


 さくらが祭壇前の床に直接膝をつくと、ちょうど神祇官たちの火入れが終わった。彼らが去れば再び礼拝堂は静けさに包まれ、静寂の世界に飲み込まれる。

 兵士や騎士は礼拝堂の外でさくらの祈りが終わるのを待つつもりのようだったが、彼らの予想に反してさくらは日没を迎えても祭壇から離れなかった。


 ――どうかあの清廉な姫をお返しください。わたしの浅はかなおこないを罰し、どうか、どうか姫をお救いくださいませ。


 祈りは懇願となり、夜更けを過ぎてもさくらは腰をあげない。震える手を握りしめて、そわそわしている騎士たちの視線を背中に感じながらもじっと耐えた。


 礼拝堂は一年を通して涼やかな場所。床は物言わぬ岩のように冷たく硬く、開け放した出入り口からは空風が吹き込んでくる。いくら布をたっぷり使ったドレスを着ているといっても、上着のひとつもなければ凍えるほど寒かった。


 しかし、騎士たちがさくらに上着をかけることはない。一心に祈るプリンシアにうっかり触れようものなら、内親王殿下の目覚めが遅くなるやもと危惧しているのだろう。

 礼拝中の人間には近づかぬのが暗黙の了解。

 プリンシアを部屋に戻そうにも、こればかりは声をかけあぐねるしかない。



 最終的に、さくらは己の恐怖に突き動かされるようにして一晩中礼拝堂に座り込んでいた。朝日が昇り、天窓から眩しいほどの光が差し込んでようやく、さくらは顔をあげた。


 外から漏れる陽の光。その光ににじり寄る芋虫たちの絵が、天井を這っている。ぶくぶくに肥った大小さまざまな芋虫たちは、天窓の外にある初代プリンシア像に迫る勢いでリアルに描かれていた。

 あれは、ミュゼガルズの創生に関わる描写らしい。


 ミュゼガルズの各地をおおう深い森には、あのような芋虫がたくさんいるのだという。それらは餌さえあれば無限に成長するワームという生き物で、永い時を経たワームは地の竜とも呼ばれるそうだ。地の竜ともなると、討伐するにも一個師団以上が必要になる。天災レベルの捕食行動はその名に劣らぬドラゴンのごとき破壊力という話だ。


 天窓の外、まるで太陽の光を後光のように背負っている初代プリンシアは、その光でワームたちの増殖および捕食衝動を抑えている――つまりは彼女の放つ神々しい光がワームを撃退している、というような描写を、天井全体を使って見せているのだ。

 ただ、真偽のほどは、あれほど壮大に作り込んだわりに定かではない。なにしろ現在のプリンシアは、戦いに赴くことなくこの礼拝堂でひたすら討伐隊の武運を祈るのを第一の任務としている。歴代最高といわれるさくらでさえ、後光が差したことなど一度もないのだから、あとはおして知るべしである。


 ――やっぱり、わたしには特別な力なんてないんだろう。


 ワームを直接見ることもないうちに、任務は終わった。後光はもちろん差さなかったし、単純に考えて討伐隊が優秀であったというだけの話にしか思えない。

 そうだ、やはりさくらに祈りの力などなかったのだ。証拠に、これだけ長いこと祈ったのに、未だ内親王殿下の目覚めの報が入らない。


 ――きっとわたしのせいじゃなかったんだよ。そうでなくちゃ、おかしいじゃないの。


 片方の祈りは聞き届けられて、もう片方は見向きもされないというのか。同じ人間から捧げられた願いを、選り好みするみたいに気まぐれに叶えるなんてことが果たしてあるのかどうか。


 どく、どく、と心臓が鈍く脈打つ。じわりじわりとなにかが這い寄ってくるかのようなおそろしさが、さくらの手を震わせる。


 これ以上祈っても成果はあがらないんじゃないかと遠回しに無罪を主張するじぶんと、まだ祈りの時間は足りていないと言って無罪を主張しきれないじぶんがせめぎあっていた。


 プリンシアの祈りに力があるのかないのか、どちらでもいいから誰かに答えを出してもらいたかった。


 と、そのとき、すぐそばでとんとんと床を鳴らす靴音がした。見れば、神祇官がさくらに一礼するところだった。黄金の縁飾りのついたケープを羽織った神祇官は、衣擦れの音を立てることなく控えめに出入り口のほうを手で示す。

 さくらは黙って振り向き、そこにリンナの姿を認めた瞬間吐き気が込み上げた。


 リンナだ。

 リンナが、来ている。


 なぜ。なぜ今。ジンが捕まり、否応なしに近衛騎士団団長代行を任されている男が、今までのようにただの様子見のためだけにさくらのもとを訪れるとも思えない。

 十中八九、内親王殿下の件だろう。

 さくらは胃を握り潰されるかのような痛みと気持ち悪さに歯を食いしばって耐えながら、立ち上がった。


 ここで戻るのをためらえば、勘のいい彼のことだ――さくらのなかのやましさに気づくに違いない。

 彼にさくらの罪がバレる、これほどおそろしいことはまたとないだろう。きっと、これまでの比ではない侮蔑の視線と軽蔑の言葉が放たれる。それを受けたときの痛みは、想像では余りあるほど壮絶な気がした。


 出入り口で待機していた騎士たちのところへ、さくらは焦りを隠して戻る。護衛についてくれていた騎士は、祈りを切り上げたさくらを見てほっとしているようだった。


「お疲れさまでございました、プリンシア。あなたの敬虔なるそのお姿は王宮の皆の励みになりましょう。神もきっとあなたの思いを汲み取ってくださるはずです」


 心から労われ、さくらはぎこちなく笑みを返した。

 ――あなたは騙されている。だってわたしは、信仰心のもとに祈りを捧げていたわけじゃない。これは善行ではなくて、罪の隠蔽だ。

 

「お疲れさまです。あなたがこちらにいらしていると邸の者にうかがったので、不躾ながら訪ねさせていただきました。祈りの邪魔をしてしまいましたね、申し訳ありません」


 リンナも心なしかやわらかい口調でさくらを気遣い、祈りを妨げたことを詫びる。


「それにしても、正直、少し驚いています」

「え」

「聞けばあなたは昨夜から一睡もせず礼拝堂にいらしたとか。最近は周囲のものごとから関心を失っておられたように感じていたのですが、私はその考えを改めねばなりませんね。あなたの無関心さに憤りさえ覚えていた我が身を恥ずかしく思います。申し訳ございませんでした」


 副団長ともあろうひとが、深々と、それも黙っていればなんの問題もない個人的な感情のことを自ら告白して謝罪している。

 さくらは、なんと答えていいかわからなかった。


 役目を終えて好きに生きていたさくらを、彼は無気力と評して腹立たしく思っていたのだ。ここ一年の彼の言動から薄々察してはいたが、面と向かって言われてしまうとかなりショックだった。しかも彼の部下や兵士の目があるのになぜ今言うのかと少し嫌な気持ちになる。さくらの性格の悪さを、彼らの前で暴露された気分だった。


 近衛騎士団副団長リンナ・ローウェルは融通の利かない朴念仁と悪名高い武骨なひとだが、決して空気の読めない男ではない。逆に、近衛という仕事柄、護衛の最中にその場の空気やものごとの流れに鈍感では困る。だとしたら、故意に? いや、誠実が服を着て歩いているとまで言われる彼に限って、ひとを晒し者にするような非道な真似をするだろうか。


 相当、腹に据えかねていたのだなとさくらは思った。じぶんの功績のうえにあぐらをかいてふんぞり返るさくらを、彼はこの国の誰よりも叱り飛ばしたかったのかもしれない。


「え……、なぜ泣くのですか」


 さすがのリンナも、驚いたようにまばたきをした。

 誉めたはずの相手がくちびるを噛みしめて泣き出したら、いくら朴念仁と言われる男でもうろたえる。

 リンナは、周囲の目をはばかるようにさくらの背に腕を回した。


「おまえたちは下がれ。あとは私がついている」


 部下たちに短く言い捨て、リンナは礼拝堂の影にさくらを誘導する。その手つきはふだんの冷たい眼差しや言葉遣いからは対極とも言えるほど優しげで、さくらはますます嗚咽が込み上げた。


 リンナに身を切るような言葉を投げつけられるのは今に始まったことではない。だが、これまでに受けてきた温度のない言葉の数々は、本音の十分の一にも満たなかったことだろう。彼は怒りを抑え、ずっとさくらを諌め続けてくれていたのではないのか。心底嫌悪する者に対して、どれほど我慢を重ねて護衛の任にあたっていたのだろうかと想像するとひどく怖い。


 今、このひとが優しくしてくれるのは、さくらが内親王殿下のために一晩中祈っていたと思っているからだ。けれどこれが彼女のためでもなんでもなく、じぶんが周りのひとから批難されないための隠蔽工作だと知ったら彼はさくらをどう思うだろう。


「なにをそんなに泣いておいでです」


 剣だこのあるかさついた指が、ぐいっとさくらの頬を拭う。


「泣いていてはわからない。私のせいですか?」


 とっさに首を振って否定したが、彼がそう易々と納得するわけもない。


「うそはけっこう。私の言動がお気に召さなかったのならばそうおっしゃればよろしいのです。……しかし、私はあなたをお叱り申し上げたつもりはなかったのですが、いったいなにがそれほど気に障られたのでしょうか?」


 心底不思議そうに、彼はわずかに眉を寄せている。

 わかっていた。誉められているのはよくわかっていたのだが、かえって恐怖が増すだけなのだ。彼に誉めてもらえるようなことは、なにもしていないから。今のさくらは、彼を騙して、彼の優しさを不正に受け取っている。


 時間が経てば経つほどさくらの呼吸は荒くなり、考えを巡らせれば巡らせるほど恐怖が涙とともに溢れた。リンナはそんなさくらの苦悩の片鱗を、しばしの沈黙のあいだに嗅ぎ付けてしまったようだった。

 彼は疲れたように短く吐息した。


「……言えませんか」


 任務では期が熟すのをじっと待つのに、さくらと対面しているときに限って彼はしばしば短気になる。挙動不審になって口ごもるさくらがもどかしくて鬱陶しくて仕方がないのだろう。


「答えたくないのなら、申し訳ありませんが、先にこちらの用件を伝えさせていただきます。ぐずぐずしていると上役たちが来てしまう」


 彼は淡々と、宮廷会議に参加してきたことを語った。

 どうやら国の上層部は、さくらの祈りに希望を託したらしい。

 内親王殿下ミミリアは、原因不明の病に冒されている。だが、ひとの力でどうにもできないものでも、プリンシアならどうにかできる。――【祈りの姫君】の力を、プリンシア本人が疑っているということを、彼らは知らない。本当はなんの力もないのかもしれないとは彼らはちっとも考えていないのだ。だから国の一大事を、プリンシアに託してしまえる。


 さくらは首を振った。おそらくじぶんにはなにもできないだろうと告げた。昨夜一晩粘ったが内親王殿下は目覚めなかった、それがこの話の顛末なのだ。さくらに祈りの力はなく、彼女の昏倒もワーム討伐もさくらとは無関係だった。そういうことだ。


「昨夜の祈りが通じなかったからといって諦めるのは早すぎます。討伐任務のときは二年間祈り続けたでしょう」

「で、でも」


 さくらはうろたえながら、しどろもどろに反論する。

 お役目のとき、祈りの対象は「討伐の成功」ではなかった。少なくとも、さくらのなかではもう少し詳細でピンポイントな祈りだった。

 月のはじめにどこそこの町を通ると知って「町での討伐作戦成功」と「町のひとや兵士の安全」を祈り、月の終わりに渓谷を抜けると聞けば「崖が崩れませんように」と願った。

 仮にさくらになんらかの力があってこういう細かい祈りが順に叶っていった、と考えると、わりと短期間で祈りは天へ聞き届けられてきたわけである。


「手応えのようなもの、が、なくて」


 だがさくらはそれをうまく説明できる気がしなくて、怪しい霊能者のような言い訳をした。もちろんリンナがそんな曖昧な表現で満足するわけもなく、彼の眉間のしわはますます寄るばかり。


「手応え? 手応えとはなんです? それが感じられないということは、祈りの強さか時間が足りないということなのでは?」

「だっ、て、これ以上やったって、無理なものは無理だ……」

「あなたは……、目の前にあなたの助けを求める人間がいるのにそのように簡単に諦めてしまわれるのですか? 二年間、任務に従事してきたあなたが、役目さえ終えればあとはどうなろうが知ったことではないと?」

「そ、そういうわけじゃ」

「ではなんです? 助けられる可能性があっても、それは任務ではないから本気で取り組まなくてもいいとあなたは思っているのではないのですか」


 そんな言い方って!

 いつになく攻撃的なリンナの言いぐさに、さくらも頭がかっかした。胸が、心が、痛い痛いと叫んでいる。


「どうして、そ、そこまで……っ!」


 涙がぼろぼろとこぼれて、目蓋がうまく開けられない。

 リンナは本当にさくらが憎たらしくて仕方がないのだ。

 がんばったことを認めてくれたのはもうずいぶん昔のことに思える。あんなにがんばったお役目も、今や過去のことにされている。もはや彼は、さくらを穀潰しの居候としか見ていないのだろう。悲しくて悲しくて、ひたすら悲しかった。


「わたしは、わ、悪くない」

「なにを……」

「あのひとが勝手に倒れただけ! わ、わたしが助けられないのは、わたしのせいじゃない、わたしのせいにしないで!」


 リンナは心底見下げたといったふうに、肩を怒らせ目を見開いた。わなわなと震えるこぶしを背中に隠して、彼は、押し殺したような低い声で唸る。


「言いたいことはそれだけですか」


 地を這うようなおそろしい声だった。

 さくらはびくつき、おろおろと視線を彷徨わせる。だが、彼はそんなさくらを許さなかった。


「私の目を見なさい」


 強く肩を掴まれて、揺さぶられる。顔をあげろ、目を見ろ、と叩きつけるように命令され、怖くて怖くて全身が震えた。


「あなたが努力を重ねて役目を終えたことは皆評価しています」


 リンナが、ゆっくりとした口調で言う。


「ですが、ここ一年のあなたの態度はいったいなんなのです。部屋からろくに出ず、礼拝堂へも足を運ばれない、ただ惰眠を貪って、やれどこそこの令嬢が悪口を言っただの使用人が手を抜いただのと泣きわめいて……。この世界はあなたの揺りかごではありません。この世界の人間はあなたの下僕ではないのです。ファウストには恩を仇で返す行為だと言われますが、私は申し上げずにはいられない。

 あなたは私たちを馬鹿にしていらっしゃる! 私たちは、あなたを慰める玩具ではない!」


 喉がひくついた。さくらは、しゃっくりが止まらなくなって、忙しなく泣く。


「あなたの涙の、なんと軽いことか」


 リンナは忌々しそうにそう吐き捨てると、先日のお茶会の顛末をさくらに告げた。


 さくらの機嫌を損ねた令嬢たちは、結婚適齢期にも関わらず縁談が途絶えたという。

 プリンシアの怒りを買った娘を誰が嫁にもらいたがるというのか。

 さくら自身は彼女たちに復讐するつもりがなくとも、周囲はそうは思わないのだ。お役目中ならまだしも、リンナの言うようにここ一年間のさくらの態度から考えてプリンシアが快く令嬢たちを許すとは思えない、と。


 さくらは、ひとびとに怖がられているのだろうか。軽んじられているかと思えば、そうやって腫れ物に触るみたいに距離を置いて、いつなにをやらかすかわかったものじゃないみたいに言う。


 お姫さまのように、特別に大事にされてみたかった。

 役目をまっとうする代わりにさくらが望んだことだ。誰にも言ったことはなかったけれど、神さまには届いていたのだろうか。その結果が、これかと思うと、だいそれた願いだったのかもしれない。


 それでも、なんの価値もないみたいに人混みに埋没するじぶんを、誰かが、誰かひとりでいいから、掬い上げて「あなたが大切だよ」って言ってくれたら。そう願わずにはいられなかった。今もだ。

 あなたがいてよかった、と役目を終えれば言ってもらえると思っていたのに!

 だからなによりも優先して祈りを捧げたのに!


 みんながさくらに感謝の気持ちを抱いたのは本当に最初だけだった。役目を終えたらじぶんの世界に帰るのが当たり前みたいに思われて、なんでいつまでもここに留まっているんだろうという目で見てくる。


 この世界では、プリンシアという存在が習慣化しすぎている。まるでシステムだ。そのせいだろう、さくらがどれだけ必死に役目を務めても「今回も無事に済んだ」とだけ思われてしまうのは。


 本当に、こんな世界は滅びてしまえばいいのに。

 でもそれは奇しくも叶わなかった。内親王殿下への呪いは具現化したのに、おかしな話だ。それとも、これからひとりずつ倒れていくのだろうか? だとしたら、少し楽しい。


「みんな倒れてしまえばいい……」


 頭で考えていたことが、ほとんど無意識に言葉になった。

 さくらをきつく睨んでいたリンナの瞳から、憤りが散っていく。後に残るのは、青ざめたフォレストグリーン。遠くから驚愕の色が迫ってきている。


「プリンシア・サクラ……じぶんがなにを言っているのか、理解したうえでの発言ですか」


 彼がなにかを言っている。しかし、さくらの頭のなかは真っ赤に染まっていて、ただの音にしか聞こえない。


「世界のぜんぶ……消えてしまえばいいの」

「プリンシア!」


 リンナが叫ぶのを、初めて聞いた。


「うるさい! あなたも、消えてしまえ!」


 そのとき、リンナの身体が傾いだ。驚きに見開かれたフォレストグリーンの瞳から、ゆっくりと光が消える。

 さくらは、はっとして口をつぐんだ。

 目の前で倒れゆく男の姿が、網膜に焼きつく。


「……え」


 膝をつき、胸を押さえて前屈みになるリンナの身体。どれだけ走っても、どれだけ剣をふるっても片膝すらつかなかった彼が、なんの前触れなく地に伏せていく。

 ああ、まさか……。さくらは血の気が引く思いで地面に崩れ落ちた。

 

「待って――うそでしょう?」


 倒れかける彼の肩を抱き止めて、ぽつりとつぶやく。


「わたしのせい……?」


 間違いなく、さくらのせいだ。


 胸にせりあがってくるものがあった。

 ――そんな、まさか、だって……。

 否定したくても、リンナがなんの理由もなく昏倒するわけがない。

 吐きそうになりながら、さくらは必死でリンナの身体を抱き締める。


「待って、ちがうの、ごめんなさい、ちがうの、ちがうの!」


 リンナが腕のなかでもがく。内親王殿下より体力があるおかげか、精神力の違いか、彼は消えゆく意識をかろうじて繋ぎ止めていられるようだった。

 さくらはそれにすがった。彼の生命力の強さを頼りにして、声の限りに願った。


「お願い、ちがうの、今のはちがう! このひとを連れていかないで、ごめんなさい、ごめんなさい、神さまお願い、お願いします」


 騒ぎを聞き付け何事かと様子をうかがいに来た神祇官や礼拝堂の参拝者たちが、叫ぶさくらを見つけて目を見開いている。


「プリンシア!? いったいどうなさったのですか!?」

「ローウェルどの! 誰か! ローウェルどのが!」


 わらわらとひとが集まってきたが、さくらは彼を放せなかった。それはまるで、おねしょを隠そうとするこどものようだった。


「ちがうの、ちがうの、ちがうの……、お願い、起きて……」

「起きて、いますよ……、プリンシア」


 祈りが、書き換えられたの、か。

 リンナがうめくのを聞いて、さくらは弾かれたように彼の顔を覗きこんだ。涙を散らすためにたくさんまばたきをする。


「大丈夫!? 大丈夫!? 痛い? 苦しい? ごめんね、ごめんなさい、ごめんなさい」


 フォレストグリーンの瞳が、わずかに光を取り戻してさくらを見上げた。


「なんて顔を、なさる……」


 彼は眼を細めて、唸った。そして、ゆったりとしたしぐさで地面に手をつき、さくらの腕から抜け出た。

 昏倒しかけたが、なんとか踏みとどまれたようだった。安堵で、また吐き気がする。


「私は平気です。転びかけた彼女を支えようとしたところ、少々バランスを崩しまして。情けないことにくずおれてしまい、プリンシアが驚かれただけのことです。お騒がせいたしましたが、問題ありません」


 リンナは少しだけだるそうにしながらも、しゃっきりと立ち上がった。泣き疲れ、安堵で放心しているさくらを難なく片腕に抱き上げ、彼は野次馬の群れを置き去りにして歩き出す。


「いや、えっ? ローウェルどの? 問題ありませんと言われましても、さきほどのプリンシアのご様子は尋常ではなかったようですが……」


 なにがなんだかわからない周囲は困惑しきりでリンナの背中を追おうとしたが、彼がそれを許さない。


「プリンシアは昨夜の祈りで内親王殿下が目を覚まされなかったことに、大変動揺されている。私がすぐに立ち上がれなかったせいで、内親王殿下と私が重なって見えたのではないかと」


 礼拝堂で祈りを捧げるプリンシアの姿を見ていた者たちは一様に納得顔をし、それを知らない者も「ああ、まあ、プリンシアだしな」といったどうでもよさそうな様子でふんふんとうなずいた。

 彼らのなかでのさくらがいったいどんなふうに印象付けられているのか。日頃の行いのせいだとわかっていても考えたくなくて、さくらは彼の肩口にしがみついて顔を伏せた。


「彼女には部屋でお休みいただきます。このことは他言無用でお願いしたい。彼女の名誉に関わることです」


 了解いたしました、と方々から声があがったが、どこまでひとの口に戸が立てられるだろう。

 リンナの冷たい声を聞きながら、温かな彼の体温を感じていた。

 彼の手が温かいのは、心が冷たいからなんだろうか。



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