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プリンシアが騎士団塔に逗留し始めてから、およそ一月あまりが経った。
宮廷のあらゆる部所では、変わらず反プリンシア勢が悪い噂話を流していたが、祭りのような騒ぎは沈静化していた。噂のネタが尽きたのもあるし、出処不明のとある噂が聞こえてきたからでもある。
「自警団の奴らが陛下に逮捕状の申請をしたらしい」
事件の容疑者が都にいる場合、自警団が王に逮捕状の申請をすることは基本的にない。刑の執行許可は取るが、いちいち一般人相手に正式な手順はとらないのが暗黙の了解だった。
ところが珍しく自警団の面々が宮廷に出仕して、そのめったに取られないはずの逮捕状の申請をした。
つまりこれは、宮廷の誰かが逮捕されるようなことをした、という警鐘だった。爵位に関わる者を自警団の管理下に置く際は、最大限冤罪を防ぐための措置がとられる。それがこの、陛下の逮捕許可あるいは任意同行の許可の取得だ。
このことを知って真っ先に怯えたのは、下働きや見習いの子弟。彼らの口をつぐませればあっという間に祭り騒ぎは小鳥のさえずりとなった。だがまだ水面下では反プリンシアの思想が渦巻いている。口に出せなくなったせいで余計に腹に溜め込む使用人も多かったことだろう。
だが、噂話に個人の姓や名が現れ始めると、日和見する者が増えた。
「ずいぶんと粘ることだ」
最後の灯火を長い棒で突いて消すや、衣擦れの音を立ててその人は通路を歩いた。足音は軽く、息もひそめてはいたが、高い天井の下ではあらゆる物音がよく響いた。
こつこつ、と硬質な靴音がそこへ混じるまで、その人はここに自分一人しかいないと思っていた。
「おや、こんな時間に懺悔でも?」
開け放した出入り口の扉からは、寒々しい夜の気配がする。
宵闇を背負って現れた幾人かが、高らかにかかとを鳴らして言った。
「神祇官長補佐殿、夜分におそれいりますがご同行願います」
「まさか。騎士団の方々が、なぜ私を?」
闇夜に紛れて彼らが掲げたのは、御名御璽のある任意同行許可証。差し向ける相手の名の欄には神祇官長補佐と書かれていた。
「他にも数名、ご同行いただいております」
「覚えがありません。撤回を要求します」
「自警団は逮捕状を申請しています。陛下はそれを憂い、あなた方の無実を信じてせめて任意同行許可証にせよと仰せになったのです。ですから、どうぞすみやかにご同行を」
このようなやりとりが、宮廷の数ヵ所で行われた。誰も彼もが身に覚えがないと訴えたが、腹に傷持つ者であることは本人たちがよく知っていた。
同行するしないの応酬は、このあと長らく続くことになる。
※※※※
そろそろジンが顔を出してくれるだろうと近衛騎士の人が言っていた。アデレートもよく嫌がらせに耐え、約束を守ってくれているようだった。
「誰か一人でも取調室に入ればこの嵐はおさまります」
近衛騎士は、外に一歩も出られないさくらを慰めるためにそう言ってくれるのだろうけれど、本当にそうなのかなと素人ながら思ってしまう。
このままごり押しして、なんとかなるものなのだろうか。それが宮廷での当たり前なのだろうか。胸騒ぎがしてならない。
さくらは大きな不安を抱えたまま、ジンが部屋を訪れるのをひたすら待った。
だが彼よりも早く、さくらに面会することになったのは、侍女を数人引き連れた王位継承権第一位ミミリア内親王殿下だった。しかも、彼女は陽の高い午後一番、公式に、さくらを訪うと各所に発表しての来訪である。これには近衛騎士団の面々も動揺を隠せず、すぐにジンへ知らせを飛ばしたものの間に合わなかったようだ。
「え、あの、殿下。ごきげん、うるわしく……」
忘れかけていた丁寧な挨拶をしどろもどろに言うと、ミミリアは怖いほど真剣な表情でつかつかとさくらの前へやってきた。そしてピンクのドレスの袖から覗く華奢な手で、さくらの腕を掴んだ。
鬼気迫る勢いにたじろぐと、彼女はこう言った。
「外に出ましょう」
どくりと心臓が鈍く脈打つ。相手が内親王殿下では軽々しく声をかけるのは憚れるため、騎士たちはひざまずいたまま動かない。
ミミリアはさくらの土気色の顔をじっと見つめたあと、おもむろに立ち位置をずらした。彼女の後ろには、鋭い眼差しを隠しもしない侍女がいた──さくらについてくれていた、あの侍女だ。
「ご無沙汰しておりますわ、プリンシア」
彼女は表情を崩さず、そつのない挨拶をする。
「ご無事のご帰還、なによりでございます。あなたがあの商人に囚われたとお聞きしたとき、自作自演と思っていたわたくしをお責めになりますか? プリンシア」
いきなり核心を突く質問をされてたじろぐが、誰かが助け船を出せる状況ではない。出そうとしてもきっとミミリアに止められただろう。彼女がさくらの侍女を連れてきたからには、もちろん、二人に話をさせるつもりなのだ。
だが。
──どうしよう、震える。
喉が痙攣して、声が出せなかった。
さくらは、たぶん、この人が一番怖い。
ミュゼガルズで、おそらく一番、この人のことを怖いと感じている。それはノーヴァに対するものとも、リンナに対するものとも違う。楽しげに陰口をささやくだけで人を攻撃できるこの女性が、さくらには怖くて怖くて仕方がないのだ。
「どうなのです」
詰問するような口調が怖い。
うろうろするさくらの視線を、今は、誰も受け止めない。
震える両手を擦り合わせて手汗を乾かそうとするが、まったくうまくいかなかった。
浅くなる呼吸と間隔の短い瞬き。
はあ、とこれみよがしにこぼされるため息に、血の気が引く。
「そう、そうなのよね。あなたは本当に、いつもそう。黙っていれば、誰かが意図を汲み取ってくれると思っている。傲慢で無恥でおまけにとんでもなく幼稚。でもね、」
侍女は、すっと息を吸い、高い声をあげた。
「あなたのために動いている人がいるの!」
呼吸が止まるほど身をすくませたさくらに、しかし彼女は容赦なく畳みかける。
「あなたみたいな人のためによ! わたくしだって、殿下が口利きしてくださらなければあなたのせいで牢屋暮らしが続くところだった。実家にも迷惑をかけたし、良いご縁も遠退いた。あなたのせいよ。全部、あなたのせい。宮廷にまであがったのに、たったひとりのくだらない人間のためにわたくしの人生は狂わされているの。たった今、このときも。そして前のように順風満帆の道を行くことはもう二度とできない。
これ全部、あなたのせい」
それでもと彼女は続ける。
「そんなあなたのこと、まだ、守りたいとおっしゃる方々がいるの。逃がしてやりたいと気を揉む方々がいるの。ねぇ、誰のことを言っているのかわかるでしょう? それなのにあなたは黙っているの? まだ、黙っているつもりなの?」
血走った目をこれでもかと見開いて、侍女はさくらをかつてなく盛大に怒鳴り付けた。
「いい加減自分の尻くらい自分で拭いなさいよ! いつまでもクソまみれでみっともないのよ、あんた!」
それは、その叫びは、悪意だけではなく、彼女の抱くもどかしさの発露でもあった。びくびくと迷い、焦燥感だけをつのらせていたさくらの背中を、その言葉が思いきり叩く。
動きたいけれどやり方がわからなくて、待っていろと言われたから待っていなきゃいけないんだと思っていた。でも、侍女はそんなさくらの葛藤を、クソまみれでみっともないと言うのだ。
「ほんとあんたってどんくさくてめんどくさい。商人にめっためたにされたと聞いて清々したわ。自業自得、ざまあみろよ。プリンシアなのにそんなふうに思われてるんだからあんた本当に終わってるわね。……だけど、惨い死に様をさらせばよかったとまでは、さすがのわたくしも思ってない」
「……はい」
「ハイじゃないわよ。あんたの一番の被害者はわたくしなんだから、そのわたくしに死ねと言われてもあんたに泣く資格はないわ」
そばで黙って聞いていたミミリアが、静かに微笑んだ。
すると侍女はしばし押し黙り、咳払いをする。
「あんた、商人のところでも、そうやって一方的に言われるまま聞いていたんでしょう」
思わぬことを訊ねられ、つい、侍女と目を合わせてしまった。彼女の眼差しは相変わらずキツかったが、睨むというほど鋭くはなくなっていた。
「わたくしは、自分の言ったことが間違っているとは思わないわ。わたくしにとってあんたは最低最悪の溝のゴミ。いつまでだって罵っていられる。ただ、あんたにも言い分があって当然だと、今は少し思うわ」
「え……」
「少しだけよ」
ぼそぼそと言いたくなさそうに侍女は言う。
「そもそも言い返せることがあるときは、言い返すべきだわ。全部受け入れて自分が悪かっただなんて思うのは悲劇の主人公気取りで腹が立つのよ。会話する価値もないと思われたら、つらく当たられるのは当然でしょう。だからあんたも言うの。わたくしに言い返せること、本当はあるんでしょう?」
大股で近寄ってきて、侍女の手がさくらの胸元を掴みあげる。これには騎士もミミリアもぎょっとした様子だったが、彼女の気迫が周囲を寄せ付けなかった。
「言えばいい! あんたにだってわたくしを詰る権利がある」
過激に言い切る声が、ただの怒声とは違って聞こえる。
「だってわたくしたちがあんたを影で笑ってたこと、馬鹿にしていたこと、知ってたでしょう!? わかるようにやってたんだもの、知らないとは言わせない。だからわたくしたちも、あんたに悪口言われたって文句言えないの。それなのに今、宮廷では大人げない馬鹿騒ぎが起きていて、またあんたは一言も言い返さない。周りの誰かが代わりに言ってくれるのをびくびくしながら待ってる」
がくんと揺すられ、こっちを見ろ、返事をしろ、と言外に要求される。
目を合わせられずにいれば、もう一度揺らされ、令嬢の細腕からは想像もつかない力強さで襟元まで締め上げられた。さすがに苦しいが、抵抗できる雰囲気ではない。
「ほらなんとか言ってみなさいよ! あんたはプリンシアでしょう。殿下も陛下も騎士団の方々もついている。これで何か怖いことがある? ──ないわよ。ないのよ! だからあんたが言うの! わたくしはてめぇらに迷惑かけた覚えはねぇわよって言ってやったらいいの! 宮廷中に迷惑かけるなんてあんたはそんな大層な人間じゃないんだから、わたくしたちに伏して謝ればそれで済むのよ!」
侍女はさくらを唐突に突き放すと、肩で息をした。手札はすべて使ったといわんばかりに鼻を鳴らし、こちらが茫然としているのにもかまわずさっさと部屋を出ていってしまう。今のが謝罪のベストタイミングだったのではと思ったときにはスカートの端も視界の外に消え、ミミリアの微苦笑と騎士たちのホッとしたような嘆息が耳朶をくすぐった。
「まるで嵐ですね。今のお気持ちは?」
おかしそうにミミリアが笑う。嵐をつれてきたのは彼女なのだが、間違ったことをしたとはこの場の誰も思っていないはずだ。
さくらは言うべき言葉に迷い、焦りも悲しみも苦しみも、勇む気持ちさえない呆然自失に近い状態で彼女と向き合った。
「よく、わかりません……」
「そうですか」
ミミリアの微笑みは崩れない。
「では、あなたは今、どうしたいですか?」
「ジンたちの邪魔は、したく、ない、です。だけど……何もせずに、わたしが、ここにいるのはよくない、とも、思います」
一語一語噛み締めるように、時間をかけて答えても、ミミリアは急かさないし眉一つ動かさない。悠然とかまえて、鷹揚にうなずく。
「なら、あなたはどうなったらいいと思っていますか?」
これにはさらに時間を要し、ただ一つ言えることだけをか細い声に乗せた。
「か……彼、が、つれていってくれる場所に、身一つでいい、ので、行けたらと。それを他の人たちが咎めずにいてくれたら……」
「……彼?」
「彼、の、手をとりたいのです」
彼の名前の呼び方に、この期に及んで迷う。こちらの世界の敬称はさくらには馴染みがなく、しかしフルネームで呼ぶには不粋に思え、そして気安く名を呼ぶには親しみが足りない。相手も、さくらがプリンシアでなくなったら呼び名に困るだろう。それだけの心の距離があるはずなのに、彼は、聖都ミュゼガルズに地位も名誉も仲間も置いてさくらの旅を先導してくれると言う。
ともに行きたいとさくらは応えた。
案内人が欲しかったのではない。
一緒に行きたいと思ったのは、彼がさくらという個人をきちんと見つめてくれているのがわかったからだ。優しくすることと甘やかすことの違いを彼は知っていて、厳しくすれば自身が煙たがられ怖がられるとわかっていてなお、言葉も行動も惜しまなかった。優しさも厳しさも、まるで親が子にするように与えてくれる。
報うチャンスが欲しかった。
「今、わ、わたしが持っているものは、何もないです。【祈りの姫君】は、もう、わたしじゃない」
この名は、次の少女へ引き継がれるまで伝承の中へ還る。
「わたし」が【祈りの姫君】だったわけじゃない。
【祈りの姫君】が「わたし」だったときがあっただけだ。永遠の名ではない。
「ミミリア内親王殿下」
「なんでしょう?」
朗らかにミミリアが問う。
「名を手放せば、わたしは『浜辺さくら』に戻れるのでしょうか」
「完全に一般の個人へ戻るのは難しいことと思います」
彼女の笑みは、言いながら深まっていく。
「ですがそれは致し方ないこと。我が王家も、娘が国内の殿方へ嫁ぐときは降嫁といって、王族の籍から外されます。これで表向きは一般に紛れることができますが、もちろん顔と名前は変えられませんから、元王族という印象は生涯続くでしょう」
とはいえ王家の娘が嫁ぐには家柄諸々、相応の相手が選ばれるはずだ。多くは宮廷に出仕する家臣だろう。一般に紛れたくとも、大きな御家に嫁げば元王族でなくとも目立ちはする。
では、本当に一般家庭に嫁げばどうなるのか。
「名家の娘は大なり小なり、そういった弊害に悩まされるものです。ですからプリンシア、私たちは努めて気にしないのです」
「え」
ミミリアはとても上手に、片目をつぶってみせた。
「試しに、ご令嬢? なにそれおいしいの? というお顔でお過ごしください。名と顔と元の肩書きが一致するのは神経過敏な上流の人間だけ。案外お忍びで市場へ出掛けても売り子は誰一人気付きませんでしたよ。ですから、ミュゼガルズを出てしまうという案はこれ以上なく名案です!」
「……お忍びでお出掛けをしたことが?」
「もちろん。私、けっこう身軽なのですよ?」
今度はさっきと違うほうの目を、器用につぶる。
と、そこへ、疲れたような声が性急に割り込んできた。
「あなたのお忍びにこっそりついていかねばならない私どもの苦労もお察しください。殿下」
「まあ」
軋み一つ立てずに扉を開けて入ってきたのは、待ち望んでやまなかったジン・ファウスト。疲労の滲む声色は演技か、やや紅潮した顔は全体的に血色よく、眼差しは炯々としている。今から騎馬戦に挑む男子中学生のようだ。
続いて、遠慮がちに入ってきたのは、
「ノックもなしに申し訳ありません。失礼致します」
上司の非礼を指摘したいのだが殿下がいるしどのタイミングで言うべきかと思い悩んでいるふうの、リンナ・ローウェルだった。
「あらどうしましょう。お二人とも、戸口で聞いていらして?」
咎めるようでいて、そのくせ悪戯っぽい口調でミミリアが訊くと、ジンが大袈裟に肩をすくめた。
さくらは失言がなかったかととっさに記憶をさかのぼり、血の気が引く思いだった。だがジンとリンナに怒っている様子もなければ、呆れているような空気も醸し出していない。
「申し訳ありません。聞き耳を立てるのは紳士らしからぬふるまいでした」
「とはいえ護衛たるものあらゆる音を聞け、ですか?」
「殿下は聡明でいらっしゃる」
まったく悪怯れずにジンがおだてる。
ミミリアは上品な笑い声をもらし、それ以上追及することはなかった。彼女の視線が笑みに彩られたまま、ゆったりとリンナのほうへ向けられる。
「あなたが、『彼』ですね」
「ご質問の意図がわかりかねます」
直立不動ながら、リンナはやや落ち着きなく睫毛を伏せる。
彼の手をとりたいと話したさくらの声を、彼も聞いただろうか。にわかに恥ずかしくなり、絶対目が合わないようにさくらも足元を凝視した。
「さて。役者が揃いも揃ってしまったので、始めましょうか?」
気を取り直してミミリアが声をあげると、ジンが心底困ったように苦笑いする。
「殿下の行動力には感服致します。我々をお集めになったのは殿下ですよ」
「急がせてしまいましたか?」
「慌てて飛んできたのは間違いありませんが、急いてはおりません。殿下のご助力のおかげで時間、労力の大幅な削減が叶いました。感謝申し上げます」
「あなた方の良い働きに期待します。行きましょう」
ミミリアはさくらに知らされていない計画の全容を、おそらく知っているらしかった。




