036頁
さくらはアデレートに、ここに来たことを邸の誰かに言ってきたかと訊ねた。
誰にも知られていないとしても、あれだけ騒げばすぐに噂は広がるだろう。何食わぬ顔で戻れる自信が彼女にあるならまだしも、そうでないなら邸に戻るには相当の覚悟が要る。
「今戻れば、針の筵に座ることになるかも、しれません。だからあなたの、こと、ここで匿えないかジンに相談してみようと、思うのですが」
「いいえ、プリンシアさま!」
しかしアデレートが真っ先に首を横に振った。
「もうこれ以上は、わたくし、恐ろしくて……。どこへも逃げられませんし、隠し立てすることもできそうにありません。邸を追われても、勘当されても、罪を抱える恐ろしさに比べれば一瞬の苦しみでございます。ですから、わたくしは邸に戻り、天の采配に身を任せようと思うのです」
「けど、あの、ジンたちが今、動いてくれているんです。事が起こるまではまだ猶予があると思うので……だから、ええと、……それまでのあいだ、どうするのがいいのか相談、したほうが……」
さくらは騎士の面々に視線を移す。彼らの団長が立てた計画を邪魔しない道筋があるのなら、さくらはそれを知りたかった。
顔色をうかがうさくらに、年長の騎士がうなずいてみせた。
「リンダイト嬢には今後我々にご助力を賜りたい。どちらにせよ、我々としてはご令嬢にはいったん邸へお戻りいただくほうがよろしいかと存じます」
協力ってなんの、と訊ねる前に、アデレートが鬼気迫る勢いで「いかようにも」と応じる。先程まで泣いていた余韻がまだ残っているものの、呼吸は概ね落ち着いたようだった。
「わたくしは何をすればよろしいのでしょうか」
「邸の者に子細を訊ねられたときには『懺悔をした』とお話しください。それだけでかまいません」
難しい作業ではなかった。だが、もし、さくらがそれをしろと命じられたら、進んでやろうとは思えなかったかもしれない。
懺悔をしたとあらゆる人物に正直に告白するということは、己の罪を暴露するのと同じことだ。泣いて伏して命で償うとまで言ったアデレートがその罪を周囲に知られるのだ、男爵令嬢にとって本当に致命的な告白だ。
しかも「おまえは何をしにプリンシアのところへ行ったのだ」と訊く者の中には十中八九共犯者がいる。その人物に、自分はあなたがたを裏切ったのだと教えることにもなる。それはつまり、あなたがたの罪さえわたくしは皆に話すぞという脅しになるわけだ。
「い、いけない。そ、それだと嫌がらせをさ、されるかもしれない。嫌がらせで済まなかったら、すごく、怖い思いをすることになります」
壮絶な制裁を下される可能性は十分ある。恐ろしい悲劇が起きないとも限らない。
まるで鬼の巣窟にスパイを潜り込ませようとしているみたいで、さくらは恐怖に駆られた。アデレートも顔色を悪くしていたが、否とは言わない。言えないのかもしれない。
ドレスやアクセサリー、かっこいい男の人、素敵な音楽、楽しいダンス、美味しいお菓子、そんなものたちの話をお茶会で延々しているご令嬢が、鬼を相手に丸腰で戦えるとはとても思えなかった。
それでも騎士は戦えと言うし、アデレートも拒否しない。
「リンダイト嬢がここへ来たことはじきに宮廷中に知れ渡ります。そのとき彼女の身が害されれば、共犯者の存在が浮上するだけ。【祈りの姫君】に懺悔した者を、わざわざ追撃するような不信の徒はおりません」
祈りの姫君は確かに神憑りの存在だが、さくらの評判を知っている宮廷人たちは「不信の徒」となる可能性が高いと思う。とはいえ表面上は、祈りの姫君に無礼を働けば不敬罪に問われることになっている。
しきたりや習慣、暗黙の了解が勝つか。あるいは世論が勝つか。
「邸の警備には我々の協力者を配置します。もしものときは必ずやお助けいたしましょう。危険は五分五分といったところかと存じますが、それでもご協力いただきたく思います」
騎士の協力要請は暗に、おまえの罪を償う機会だと言っていた。だからアデレートは断れない。
「いかようにも、と申し上げたのはわたくしです。どんなに未熟者であろうとわたくしは御家の一端を担う女。蝶よ花よと育てられるのと同時に、よその女と戦う気位も育てられてきました」
アデレートは言った。
「どうせこのあと勘当されると思えば、誰に楯突いたところで失うものなど何もございません。わたくし、やり遂げてみせますわ。邸の皆様に真実をお伝えしてまいります」
これを受けて、近衛騎士たちは数日後、団長から計画の変更を聞かされたようだった。アデレートが邸に戻ったあと逐一様子を知らせてもらっていたさくらにも、そのことが伝えられた。
「おかげさまで奇襲をかけずに済みそうですとのこと。火のないところに煙を立たせますと後々ボロが出ますからね、まあ宮廷に火のないことなんてないと俺は思っていましたが」
などと若い近衛騎士が早口で語り、同僚に頭を叩かれていた。「言葉遣いに気を付けろ!」だそうだが、内容を否定することはなかった。
かくして、準備は着々と整っていく。
※※※※
リンナには、自警団と腹の探り合いをしろと言われたが、どうもその必要はなさそうだった。
「珍しく出頭したかと思えばようやくその話か。遅ぇんだよ!」
自警団の団長は、品位の欠片もないしぐさで舌打ちした。王の舌打ちとはまるで違っていて、こんなところにまで育ちの差が生まれるものなんだなとジンはおかしく思った。
「出頭とはなんなんだ、おい。仮にも団長同士の会談だというのに、まったくあなたは」
ジンよりも僅かに年嵩の自警団団長は、傷持ついかつい顔をしかめて吐き捨てた。
「こちとら溝を泳いで生きてるもんでな。あんたと違って、お綺麗な言葉はみんな泥の中に沈んでる」
「さようで」
「そんなことより、さっさと本題に入ってくれ。あんたと仲良く茶を飲むためにここへ通したんじゃねぇんだ」
ジンはやれやれと肩をすくめた。なぜこうも個性的な人物ばかり相手にしなければならないのか。本人にはもちろん言わないが、王もリンナもプリンシアも自警団の団長もみんな違う方向に向かって個性を突出させている。
「プリンシアの件だが、あなたはどこまで事情を知っている?」
「どこまでって……。王に疎まれ、宮廷に疎まれ、孤児院に追いやられて人攫いに遭ってまた宮廷に戻った。だいたい合ってるだろ?」
略し過ぎだが違いない。
「プリンシアとは何度か顔を合わせたことはあるが、出回ってる噂ほど悪どい女には見えなかったけどな」
「まあ、そうだろう。別に法は犯していない」
「でも、ありゃ腹に一物抱えてる質の女だな。おとなしいことはおとなしいが、口を開けば文句ばかりだったりな。きっと粘着質だぜ、他人に掠り傷のひとつでもつけられりゃ一生覚えてるような女じゃねぇか?」
眉をひそめて続きを促すと、彼はにやりと笑う。
「一言で言うなら、そう……感じ悪ィ女ってとこだ。俺は嫌いだね、ああいうのは。めそめそしてりゃあ誰かが守ってくれると思ってる。ナメ腐ってるだろ? 特に、咎めたくてもなんて言って咎めたらいいのかわかんねぇようなことをするのが最高に腹立たしい。扱いに困るんだよ」
「そこまで言うほど酷く見えたか」
「あくまでも一般論、経験論。地味な女ほど面倒な性格をしてるもんだ。警戒心も強いから、おだてて言質とることもできない。語弊を恐れず言うと、ふとした拍子にぶっとばしたくなったりするんだよ、あの手の女は」
それはさすがに短気すぎる。こいつの拳でぶっとばされたらジンだってただでは済まないというのに、体幹も何も鍛えていない女性が彼の拳を受けたら、文字通り吹っ飛んで大怪我をするだろう。恐ろしいことを平気で言う男だ。そしてそれをやりかねない男でもある。
「ただ、ああいう女が心を開いてなついたときは最高に可愛いんだよな」
「そんなことは聞いていない」
何を思い出したか、にんまり笑う彼を一蹴すると、つまらなそうに鼻を鳴らされた。
「俺の所見はまあ、いいとして。あんたがリンナ・ローウェルを無理矢理捩じ込んできやがるから、なんかあると思って俺の方でも調べた。どうだ、あんたの方は何か収穫があったか? 俺のシマで好きにさせてやったんだから、なくちゃ困るが」
「あることは、あったが。おかげで絶望的な道筋を垣間見た」
「たとえば?」
探るような目を受けて、ジンは口をつぐんだ。
一呼吸の間をあけてから、ささやくように告げる。
「……自警団が悪の組織と癒着している、とか」
自警団団長は、鋭い眼差しをジンに向けた。さすがに荒くれ者を相手にしている男だけあって、威圧感がすさまじい。思わず腰のものに手をやりそうになったが、実戦で彼に勝てるかどうかは自信がない。何しろこの男は相当な力自慢でもあり、かつては近衛騎士の団長にと望まれていたこともあるくらいだ。
粗野で粗暴なところさえ直せば、とは王の言だが、たぶん宮廷の空気は肌に合わないとかなんとか言って要請を蹴ったに違いない。いや、彼のことだから、宮廷の水は腹に合わないなんてことも言ったかもしれない。
「俺が国を裏切ってるって? そう言いてぇのか?」
「端的に言えば」
「おい、ファウスト」
彼は強い口調でジンを呼ばわる。若干笑いを含んでもいる声だったが、当然、ちっとも愉快そうではない。
「おい、おいおい。ジン・ファウスト、おまえ、腹の探り合いをしにここへ来たのか? この俺の城へ?」
彼は大仰に、日焼けした両腕を広げてみせた。
活字なんか読まなそうな顔をしているくせに、書籍がぎっしり詰まった本棚に周囲を囲まれた彼の執務室。都の大通りを見守るように作られた堅固な自警団本部はまさに彼の城だ。騎士団よりも男臭く、常に野太い怒声や掛け声が響いている。
ここは戦士たちの砦。そして彼はここの主。彼の人となりからして、悪事に手を染めることも、部下の裏切りに気付かないということも、確率としては低いだろうと思いはする。
それでも。
「悪いと思ってはいる。だが好きであなたを疑っているわけじゃないんだ、俺だって。ただ、もし本当に、本当にそうなら、……俺の手には負えない。もう俺たちだけでは手詰まりなんだ」
ジンは自分が情けなく見えているだろうとわかっていたが、そう言うしかなかった。
「違うなら違うと言ってほしい。言質がほしい。──アリエル。俺はあなたに借りを作りに来たんだ」
自警団団長、アリエル・セヴランは切り傷の走る眉をぐっと寄せた。不快そうな表情を隠しもしない。
「本気で言ってんならあんたには人を見る目がない。貴人の護衛なんざ今すぐやめちまえ」
「そういうわけにはいかない。怒らないでくれ。あなたが俺の言動に怒りを覚えているというだけのことならいくらでも謝る、だから真実を教えてほしい」
「……ずいぶんとナメた口を利くようになったもんだな」
セヴランが声のトーンを落とした。あたりの空気は一瞬で冷え、緊張が走る。
「なあファウスト。団長ともあろう男が情けねぇ面で寝言か? たとえ俺が悪に手を染めていようと、あんたのやるべきことは貴人を守り、敵を倒すことだろうが。他に選択肢なんかあると思ってんのか。戦え。誰が敵でも戦え! 近衛騎士を名乗るなら相応の仕事をしろ。しねぇなら今すぐ俺の城から出ていってくれ」
これだから脳筋男は、と思わないでもないけれど、正論ではある。喉の奥で反論を飲みこみ、低くうなる。
「わかった、わかった。もうやめだ。子ウサギのような懇願はもうしない。するだけ無駄だった。俺はあなたの言う通り、これから宮廷と戦う」
「宮廷? 宮廷の誰だ」
セヴランがいぶかしげに訊ねてくる。
答えは一つ。躊躇うのも、もうやめだ。
「誰じゃない。宮廷そのものだ。この件に関してはお飾りのような王だけが味方なんだ。だからもしあなた方のうち誰か一人でも裏切っていたなら、私はあなたを殺しに来る」
ひゅう、と口笛を吹かれる。セヴランは笑っていた。殺されない自信があるふうだったが、待っていると彼は言った。
「宮廷に仕えて腰抜けになったかと思ったが、それなりに成長したようだ。ガキくせぇ面も多少ジジイらしくなってきた」
「やめてくれ、俺はまだ若い。ジジイなのはあなただけだ」
「言っとくがまだ枯れてねぇぞ」
「そんなことは聞いてねーよ」
ジンのほうから乱暴に会話を打ち切って、一礼した。
しっしっと追い出されながらもなんとか別れの挨拶だけはして、ジンは彼の執務室を出る。扉の横には彼の補佐と思われる青年がいた。
「うるさくして悪かった。失礼する」
彼にも会釈してすれ違おうとしたとき、すっと右手が出される。とっさに、応戦するべく身構えそうになったが、彼の手には剣ではなく紙切れが握られていた。慌てて背筋を伸ばす。
「団長が独自に調べさせたものです。ご一読なさったあとは適切なご処分を、とのことです。それと……団長は俺が殺させませんから。では」
そう言うなり彼は背を向けて去っていく。とんだ部下だ。うちのリンナも同じように言ってくれるだろうかと考えそうになって、やめた。このままだと彼を手放すのが惜しくなりそうだ。
ジンは周囲を見回し、その場で内容を改めた。
そして目を通し終わるなり執務室の扉を思い切り蹴りつけた。中で笑っているだろう男の顔が目の前に見えるようだった。散々非協力的な言葉を吐いておいて最後の最後にこんなカワイイ手紙とは。
「名探偵かよ、クソッ……」
思わず品のない悪態が飛び出す。
年長者におちょくられる自分が馬鹿馬鹿しかった。
でも悪い気はしない。まだまだだ、と思った。
自警団本部を出たジンは、すぐさまリンナと連絡をとり、近日作戦を決行すると伝えた。
「腹の探り合いは失敗した。奴は全部お見通しだったよ。これで標的が絞れるようにはなったが、なんというかまあ、こんなに悔しいことは久しぶりだな」
「あの方は並の人ではありませんから。『相談』してみてよかったですね」
さらりとリンナに茶化されて、もしや全部お見通しだったのはこいつのほうなのかもしれないとジンは思った。あの日の絶望感を返してほしい。
かくしてこちらも、準備が整っていく。




