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食事が運ばれてくるたび指折り数えて、ひたすら黙す日々が続いていた。何かしなければならないはずなのに何もすることがないということの焦燥を改めて実感する。
当初は一晩だけ泊まるつもりが、今やジンやリンナの許しがあるまで部屋を出てはいけないことになっていた。
──きっと、彼らはわたしのことで何かに煩わされている。
宮廷から去るには準備が要る、とリンナは言った。それが具体的にどういったものなのかさくらにはわからないが、塔に日々やってくる宮廷人たちと間違いなく関係があるだろうから、やはりさくらの帰還問題なのかもしれない。少なくとも近衛騎士団全体が、何かしらの計画に沿って動いている。
それなのにさくらはただ、じっと、部屋にいるだけ。
事態はしばらく膠着状態であるように見えた。
「あ、あの」
「いかがなさいました?」
「わたしがここに来てから、今日で何日経ったのか、教えてください」
勇気を出して騎士に訊ねたその日は、塔に入ってちょうど三週間目だった。
そしてタイミングを見計らったように膠着がとけたのも、この日だった。
「失礼いたします! お取り込み中、申し訳ありません。プリンシア・サクラに懺悔申し上げたいという使用人が、謁見を求めております。不躾ですがプリンシア、その者に、お心当たりはございますか?」
「え……」
身に覚えはなかったが、近衛騎士は最下級の使用人がさくらに謝るために塔に来ていると言った。件の書簡を隠し持っている可能性があるので中には入れていないようだが、追い返そうにも泣き伏すばかりで埒が明かないという。
「どこかの部所から遣わされた者ではないのか? プリンシアさまには心当たりがないようだが」
さくらに日付を教えてくれた騎士が、眉を寄せて言う。
知らせに来てくれたほうの騎士は心底困った様子でさくらに視線を向けた。
「それが、彼女はプリンシア邸の使用人だというのです。リンダイト男爵家のご息女で、名をアデレート殿と。お邸のほうには三年前からご奉公にあがっている方です」
続けて容姿の特徴を説明されたが、使用人の名前も顔もまったく記憶にはない。三年間共に過ごしたと言えるほど、使用人との交流などなかったのだ。侍女でさえ、名前で呼んだことは一回もなかった。それなのに側近くには寄ってこない最下級の使用人と面識があるかと問われても、そもそも使用人が何人いたのかすらさくらは知らない。
「す、すみませんが……あの、わたしには……」
「やはりお心当たりはないようですね。これは官の策略かもしれません。プリンシアさまはどうぞお気になさらず、ここは我々にお任せを。──自力で帰らないのであれば邸の責任者を呼ぶしかあるまい。何人たりともこちらへは近づけるな」
「了解いたしました。すぐに手配を」
騎士たちが対処のために部屋を出ていこうとする。
だがさくらには、その使用人を追い返してそれでおしまいにしてはいけないような気がした。
「ま、まってくださいっ」
ついに、自ら動くときが来たのだとさくらは思った。
官に何かを吹き込まれ、それをさくらに伝えるために彼女は来たのかもしれない。また胸の痛くなるような紙の束を渡されるのかもしれない。
次も耐えられるだろうか。泣かずに話を聞けるだろうか。
戦々恐々と部屋で使用人を迎えた。
そしてさくらは、鼻の頭と頬を真っ赤にさせた娘が部屋へ入ってくるなり崩れ落ちたのを見て、考えを改めるべきだと思った。
プリンシア邸の使用人だというその娘は、パンパンに腫れた目を、なおも涙で濡らして床にひざまずいた。
「申し訳ありません、申し訳ありません! プリンシア……あなたさまに、いったいなんとお詫びすればいいのか……。わたくしはもう、このままのうのうと生きてはいけません……! 本当に本当に申し訳なくっ……」
あうあうとしゃくりあげ、額を床板の継ぎ目に擦り付けて激しく許しを乞うている。
彼女にここまでさせる理由が、さくらにはまったくわからなかった。
あの邸で嫌な思いをしたことはたくさんあったけれど、陰口を言われたとか嘲笑われたとかしょせんその程度のことだ。さくらのプライドや心そのものを傷つけるにはそれでも十分だったが、公的に罪に問えるかといったら難しいと思う。それがわかっていたから、邸にいた頃、さくらは彼女たちの嫌みな態度を誰かに訴えることができなかった。
「ご用件を」
同席すると言って譲らなかった若い近衛騎士が、謝罪の声をさえぎって威圧的に促す。
使用人の娘は武装した騎士たちに囲まれ、彼らの同席を認めざるをえない状況だった。彼女には彼女なりの理由があってさくらにだけ聞いてほしい話があったようだが、騎士は騎士でまっとうしなければならない仕事がある。さくらに何かあったとき、責任をとるのはさくらではなく近衛騎士団の面々なのだ。
「わ、わた、わたくしは……っ」
焦っているのか、娘はまともに口がきけない。
まるで自分を見ているようで、さくらはいたたまれなくなった。
騎士の囲いの向こうにいる彼女と、さくらは目線を合わせようとした。膝を折り、床に腰を下ろして、涙の膜で揺れる鳶色の瞳と視線を交わす。
彼女は睫毛の長い女の子だった。
「いそがなくて、大丈夫。ゆっくり話しても、大丈夫です。わたしは最後まで、ちゃんと、あなたの話を聞きます」
「プリンシア、さま……」
十六歳くらいの女の子が、本当に、本当に今にも死にそうな真っ青な顔で、さくらの眼差しに応えている。ばたたっと音を立てて、彼女の大粒の涙が床に落ちた。
「わ、わたくしは、罪を犯したのです。天に仇なす行為です。あなたを……プリンシアさまを、わたくしは裏切りました」
裏切り。
周囲の騎士が気色ばんでざわつく。
「なんということだ、それは爵位を持つ家の者だというご自覚あってのことか!」
「もっ、申し訳ありませんっ! 申し訳ありません! ですがわたくしは、プリンシアさまを害そうなどと、そんな恐ろしいことを考えたわけではないのです!」
「ではどういうことです! 答えによっては男爵家のお取り潰しもありえることですよ」
騎士の強い口調がリンダイト嬢を責める。
「はい、はい……おっしゃる通りでございます。本当に、なんと浅はかなことをしたものかと今になって思います……。──わたくしは、上の方々に訊かれるまま馬鹿のように答えていたのです」
「いったい何をお話しに? 上の方々とはどなたです」
「プリンシアのお邸でのご様子を、侍従長や、その上の方々にご報告申し上げていました。どんなささいなことでもよいと侍従長さまがおっしゃるので、本当に逐一……。ときにはお手紙で、王宮の人事部門の方にもお届けすることがございました」
おそらく侍従長のほうからもどこかしらへ報告をあげていたはずだ、と彼女は白状する。その報告を記した書付けを誰々に渡してくるようにと何度か頼まれたようだ。
「最初はただそれだけのことと思っておりました。しかしここ最近の宮廷でのお噂、あまりにも不敬で、恐ろしく……。わたくしはとんでもない悪事に加担してしまったのではないかと急に怖くなったのです。ただプリンシアのご様子を上の方々に話すだけ、何も悪いことはしていないはず、と思い込みたかった。プリンシアさまがいかにお過ごしか逐一ご報告申し上げるだけで、わたくしはあのお邸を追い出されずに済むからです……」
自分の要領の悪さを自覚している彼女は、さくらの情報を売ることで己の身を守っていたのだ。
数人の騎士たちが部屋を出ていき、残りの者たちが詳しく話すようアデレートに迫っている。
アデレートはさくらの日々の暮らし方を人に話してしまった。職業によって守秘義務は様々ある。特に貴人を世話する立場にある者には、より厳しい制限があるはずだった。その点では、誰にどんな非難をされても彼女は反論できなかっただろう。
ただ、彼女は別に意図的に悪口を拡散しようとしたわけではないし、さくらのことをあるがまま語ったに過ぎない。しかも自分の上役に頼まれたことだ、職務上必要なことと判断するのが普通だ。
それでも彼女や騎士たちが異様なほどざわめくのは、今、宮廷全体に満ちる『プリンシア・サクラへの悪感情』が強いうねりを見せているからだ。
さくらへ届けられた、意見書の数々を脳裏に思い浮かべる。あれをまだ、さくらに渡せていない人々がいる。だからいろんな部所の官が、この塔へさくらに面会を求めて来る。あの手この手でさくらにそれを読ませ、故郷へ帰りたくなるよう仕向けたがっている。
それの大元、ネタとでも言うべき根元を彼らに提供したのはアデレート・リンダイト。そして彼女の上司、侍従長──プリンシア邸で奉公する使用人たちの中にはまだ何人かいるのかもしれない──あるいは、さくらの侍女であった、あの女性も?
ぽっかりと口を開ける、水の枯れた井戸を覗き込んでいるような心地がした。
だがもう、五感が麻痺したように悲しいとか苦しいなんてことは思わなかった。
ひたすらに、疲れはてた感じがする。
なんで、どうしてと考えるのも億劫で、さくらは黙ったままでいた。
宮廷のすべてが、本気で、さくらを排除しにかかっている。
だというのに、ジンとリンナは外でそれらと戦っている。
さくらの代わりに戦ってくれている。
頼むから元の世界へ帰ってくれとさくらに懇願してしまえば楽なのに、自らの立場を脅かされるような危険さえ犯して戦っているのだ。
「プリンシアさま、本当に申し訳ありません……」
アデレート・リンダイトの謝罪が右から左へ流れていく。
なんと答えればいいのだろう。
なんと答えるのが正解だろう。
さくらを貶めようとする流れに逆らう気はない。されて当然という思いがある。だが、ジンやリンナの苦労を考えると、自らのおこないを棚にあげて彼女をなじりたい気分にもなる。
さくらは力なく懺悔者の泣くさまを見つめ、ふと引っかかるものを感じた。
アデレートは手と手を重ねて、震えを止めようと必死だ。謝罪の声は悲鳴じみて、こちらも必死の様相で。
──ああ、そうだ。あのときの。
邸で泣き叫んだ、かつての自分が眼裏に見えた。
「あの」
プリンシア邸を出るとき、カップを割ってしまった使用人に声をかけようか迷ったのを思い出す。手を怪我していたのをわかっていたのに、大丈夫の一言もかけてあげられなかった。
そのツケが、今まさに返ってきているのだということをさくらははっきりと自覚した。
「あ、アデレート・リンダイト。……手の怪我は、な、治り、ましたか」
彼女の泣き張らした目が見開かれる。
どうして忘れられるだろう。他者への労りを欠いた自分に、そう簡単に幸福は訪れない。これから、ひとつひとつ、自分が踏み抜いた綻びを塞いでいかなければならないのだ。
「食器か何かで、手を切ってしまったのを見た、ので。あの、邸の、わたしがいた部屋で……」
「プリンシア、もしや、──わたくしを覚えておいでなのですか?」
「あ、あの、す、すぐに思い出せなくて、すみません。あのとき、あなたに声をかけられなかったことが、とても情けないとずっと思っていて。忘れられなくて。本当に申し訳なかったと……」
「そんな……」
アデレートは、今度こそ本気の悲鳴をあげて床に突っ伏した。怒りに満ちていた騎士たちもこれにはさすがにうろたえ、彼女を起こそうとやっきになる。
だが彼女は、渾身の力で床板にしがみつき、額が擦りむけるほど頭を下げ続けた。
「ああ、ああ、なんということを……っ。わたくしは本当に至らない! 申し訳ありません! 申し訳ありませんっ! このうえは、わたくしの命をもって償いをせねば……。ああ、プリンシア、プリンシアさま、どうかあなたの身に幸福が訪れますように。わたくしの蒔いた不幸の種が花をつけることなく斜陽によって焼き枯れ、わたくしの生涯に用意された祝福がせめて、あなたのお髪に降り注ぐやわらかな光となりますように」
「至らないのは、わたしのほうです」
さくらは一言、そう言って、両手を組んだ。
この正直な娘が、誰かにそそのかされることなくまっすぐに生きていけるように願いたいと思った。
壮絶な懺悔と祈りを受けて、これが演技とは思わなかった。たとえ何かの画策があって騙されたとしても、受け入れ、信じてもいいと思った。
「わたしは、あなたを恨みません。筋違いだからです」
あちこちから、いろんな声が上がる。許してはいけない、示しがつかない、断罪を、騎士たちの強い声が責めのように聞こえてくる。
「ただし、使用人としての規律に従ってください」
さくらは手を組むのをやめて、顔をあげた。
「規律違反があるなら罰則を受けてください。アデレート・リンダイトの行動によって不利益を被った方がいるなら、誠意ある対応をしてください。その方が断罪を望むならそのようにしてください」
それを前提に、さくらは彼女を恨まない。
「アデレート・リンダイト嬢」
「は、はい」
「ご了承いただけますね」
数秒、彼女は呆けていたが、我に返るとすぐにうなずいた。
「も、もちろんでございます! わたくしは、プリンシア・サクラさまのご指示の通りにいたします」
「では、わたしへの謝罪は、もうけっこうです」
絶望に満ちたアデレートの視線に、ぎこちないながらも笑みを返す。
「わたしはあなたに断罪を求めません。だから、もう、謝らなくても大丈夫、ということです」
アデレートはそれを聞き、両の手で口を押さえた。静かに崩れ落ち、床にうずくまって、やはり静かに肩を震わせていた。
さくらの判断に困惑する騎士たちに視線を移し、今度は彼らに向けて言葉を考える。
団長に与えられた仕事とはいえ、彼らは親身になってさくらの側にいてくれている。宮廷ではきっとさくらの悪い噂がわんさと流されているだろうに、それをものともせずに世話してくれる。
彼らこそ、ないがしろにされてはいけない人たちだ。
さくらは三つ指をついて、頭を下げた。精一杯、誠意をこめて頭を下げた。
「わたしは、みなさんのご厚意に感謝しています」
「プリンシア! いけません。我々にそのような……」
慌ててさくらを起こそうとした騎士がいて、ふと目が合う。
姿勢を正し、一人一人の目を一生懸命追いかけてみる。さくらの話を聞こうと、みんながこちらを見てくれていた。怖いとは思ったが、どこも痛くはなかった。彼らの眼差しには悪意がなかったからだ。
つっかえないよう、さくらは必要以上に間をとって丁寧に、ひたすら丁寧に話した。
「みなさんのご協力があってこそ、わたしは、ここにいられます。わたしがわがままを言って、あの書類を受け取ってしまったり、この状況で人に面会を求めてしまったりして、みなさんのご忠告に従わず大変なご迷惑をおかけいたしました」
頭を下げたくて、下げたくて、仕方がない。謝るためだけではなく、ありがたく思ってそうしたくなる気持ちを、さくらはミュゼガルズに来て初めて知った。
土下座をするということは、心が伴ってはじめて意味を持つ。すれば許してもらえるものでも、強制されてやるものでもなく、ひたむきに謝罪と感謝を伝えたいときのための最後の手段だ。
「それでもどうか、どうかもう少しだけ、わたしをこちらに置いていただけないでしょうか」
しん、と世界中が沈黙したような気がした。
誰も何も言わなかった。それぞれの胸のうちで、さくらの言葉を各々が咀嚼している。
やがて一人が、こう言った。
「どういたしまして」
誰が言ったかわからぬうちに、また一人が言った。
「どういたしまして、プリンシア」
それから続けて、
「こちらこそ、もうしばらく室内でご辛抱いただかねばならず申し訳なく思います」
「この通り武骨でむさ苦しい塔ですが」
「実は窓を開けても景観はよくありませんが」
「私は誠心誠意、仕事をまっとうします。あなたが私どもに向けてくださる、その敬意に応えるために」
私も、私も、と声が上がる。
これまで、式典やお茶会があるたびに護衛を務めてくれていた、彼ら。ずっと近くにいたのに、ただ守ってもらっていただけだったなんてなんともったいないことをしてきたのだろう。
もっと早くに、声をかけてみれば良かった。いろんな人に、声をかけてみれば良かった。そうしていたら、さくらがこの聖都に永住すると言っても、彼らは歓迎してくれたかもしれない。
もしもを考えても虚しいが、何も考えないよりはマシだとさくらは思う。
思考を止めてはいけない。
自分が、今どうあるべきか、常に問い続けるのだ。




