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プリンシア・サクラは七日間、騎士団塔に逗留している。
彼女の世話を任されたごく少数の近衛騎士たちの中には、最低でも一人くらい「わがままを言われたときの対処法」を考えていただろう。
けれどすべては杞憂だった。
何かを頼まれることも、嫌だと拒否されることもなかった。ただ静かに書類に目を通し、出された食事に口をつけ、ドレスもアクセサリーも要求せずにおとなしくしているという。窓には戸が嵌まったまま、外に出たいとも言わない。
むしろ彼女に会いに来る諸官を追い払うほうがよほど手間だ、とは全員の口から聞かされた。
これらのことを近衛騎士の仲間から聞いたときのリンナの無表情を、ジンは解読しかねている。
「相変わらずわかりづらい奴だな、おまえも。そんなんであのプリンシアと二人旅なんてできるのか……」
独り言をつぶやくジンを、リンナがいぶかしげに見てくる。
なんでもないと気を反らせて、宮廷の外、町に降りていられる貴重な時間を浪費せぬうちに本題へ入る。
ジンは厚底の酒瓶片手に、軋みの激しいソファに腰かけた。
「で、どうだった。若旦那の取り調べは」
「一貫して覇気がありませんね。反抗はしませんが、協力的でもない。訊かれないことには答えませんから、訊き方を間違えると話が進まないのです」
「必要な言質は?」
「それに関しては抜かりなく」
「まあ最低限、言質さえあればでっちあげるのはそんなに難しくもないが……」
ノーヴァの件で、リンナには単独で自警団と足並みを揃えさせている。ただし、プリンシア誘拐などの案件を解決するのが目的ではない。今のリンナに、おそらくそのへんのことを気にしている暇はないだろう。
ジンはプリンシア・サクラとリンナを安住の地へ逃がすため、宮廷全体のプリンシアに対する意識から変えてしまいたいと考えていた。
もちろん一朝一夕に済むことではないし、下手を打てば宮廷に多くの敵を作ることになる。
それでも、諸官が今を好機と見ているのと同じく、ジンもこれを好機と思っていた。
用済みのプリンシアを排除したい上層部、それに引き上げられる形で賛同している彼らの部下、使用人たち。もしも長官の誰かが、あるいは立場ある官が、プリンシア弑虐の容疑で捕まったとするなら?
同じ波に乗っていた誰もが、おそらく肝を冷やすことになるだろう。
使用人が人目を憚らず声を揃えていられるのは、自分たちの上役が同じ道を歩いているからこそだ。
しかし、志を同じくする仲間が、上役が、罪人として捕まれば話は別だ。それに同調していた自分たちまでもが『プリンシア弑虐』に関与していると勘繰られたが最後、社会的に、あるいは物理的に首が飛ぶ。そういう空気が流れる宮廷で、いったい誰が声高にプリンシアへの反感など叫び続けられるだろう。
(この計画の要は思想の統制ではなく、あくまでも『殺人未遂の容疑で要人が拘束される』というところにある。一人でも二人でも、とりあえずいったん捕まえてしまうことに、意味がある)
なにも、本当に犯人としてでっちあげる必要はない。最終的に無実とし、拘束を解くことになっても、その頃にはすでに宮廷の高波は収まっているはずだ。
(ただひとつ問題なのが、火のないところに煙は立たないことだ。なんとしてでも、俺たちは火種を探し出さなくてはならない)
「自警団の奴らはどうだ? 何か言ってくるか?」
「いえ、何も。いっそ泳がされているようにも感じますが、こちらの動向を邪魔しないために配慮してくださっているようにも見受けられますね。ジン、あなた相当強く圧力をかけたのでは?」
「何言ってる、もちろんかけたに決まってるだろ。口を挟むなとまでは言っていないが、こちらに深い事情があることは確実に伝わっているはずだ」
すでに自警団への根回しはしている。リンナを捜査に加えさせているのがその最たるものだ。プリンシア絡みの事件だからこそ、近衛騎士の団長としてかなり強引な手を使った。あとで自警団の役職者あたりにぐちぐち言われることになろうが、ジンを突き動かしているこの使命感の前では小鳥のさえずりに等しい。
粗削りのテーブルに書類を広げながら、リンナの報告と推察が続く。
「ジン。あなたは、リコーという少女に面識は?」
「いや。顔は見たかもしれないが名前と一致しない。被害者の中でも特に、あの男の側に置かれていた子だったと思ったが」
「ええ。ノーヴァはどうやら、プリンシア・サクラについてずいぶんと詳しい様子だったと彼女が」
「というと?」
「宮廷での噂だとか、あの方がプリンシア邸でどのように過ごしていたか、だとか。そういうことをよく知っていたそうです。周囲の環境や、性格、思想、行動の型、彼はあの方を分析していたようですね」
ちゃぽんと瓶を揺らして、ジンは思案する。
知ろうと思えば調べられない類いの情報ではない。ある程度の立場と金があればという条件はつくが、あらゆる金持ち連中と裏で人身の取り引きをしていたノーヴァには容易かったことだろう。
「それからミミリア内親王殿下のことも、彼は宮廷の誰より正しく把握していたと思われます。彼の妹と同じ症状だったせいでしょう。プリンシアの祈りの甲斐なくお眠りになられたままだったことを知っても、彼はあの方を求めた。諦めきれなかったわけではありません。彼には行動を起こすだけの材料が揃っていたのです」
「詳しく話せ」
リンナが珍しくためらいを見せた。
彼は自分の口から説明するのを嫌がるそぶりをみせ、一枚の書類をジンの前へ滑らせた。
書面の一行目には『カントナ孤児院リジア・調書』と書かれている。確か、カントナ孤児院からの被害者は二名。リコーと、もう一人いた。それがこの調書の子だろう。
「リジアというのか。おまえが火事の中を助けたのは」
「もともと、その子どもを助けようとしていたのはプリンシア・サクラです。私はそこに居合わせただけで、もしもプリンシアが屋敷の外にいたのならそもそも火事の中へは行かなかったでしょう」
なんの感慨もなさそうにさらりと答えられて、せっかく誉めてやろうと思ったジンの次の言葉が腹の底へ戻っていく。結果的に助けたことは助けたのだから、素直にハイと言えばいいものを。
それにしても、あの臆病なプリンシアが命懸けで人助けとは。いったい彼女にどんな心境の変化があったのだろう。ノーヴァは彼女に、何をし、何を言ったのか。彼女の心根を変えるほどの何が、あのたった数日の間に起こったというのだろうか。
その答えは、すべて、リジアの調書に記されていた。
好奇心からプリンシアに何が起きたかと想像した数秒前の自分を殴り飛ばしたくなった。
「地下の闘技場──殺し合い──オークション──罵倒──」
ノーヴァの屋敷の地下でおこなわれていたほぼすべてのことが、この調書で説明されている。そしてリジアという被害者が加害者となり、プリンシア・サクラに放った罵詈雑言の数々が子細に書き取られていた。
「人身売買というからには只事ではないだろうとは思っていた。だが、これほどとは」
ジンは眩暈を感じて書類を遠ざけた。国王ギディオンが意見書を放り投げた気持ちがよくわかった。こんなものは暖炉にくべる薪の足しにもならない紙くずだ。
「この調書は自警団の方々の目には触れさせていません」
「そうか……できることなら今後も見せたくはないな。それよりもリジア本人が、これをおまえに話したのか?」
「ええ」
「だとしたらずいぶんと詳しく話してくれたものだな。よっぽどのことがなければ幼い娘がこんな罵倒の仕方を知っているとは思えないし、人にぺらぺら話してみせたりもしないだろうに。俺はいっそ、恐ろしい。この子はプリンシアを心底憎んでいたのか」
「おそらく。私は彼女の言葉を、一字一句違えたつもりはありません。脚色も補完もしていません。彼女が自ら話したものです。一応言っておきますが懺悔というふうではありませんでしたよ」
「じゃあなんだ、得意気に言ったとでもいうのか? まさか」
「そのまさかです。ただ、引っ込みがつかなくなっているようにも感じましたが」
宿の主人に不審がられないようなんとなく買い求めた酒瓶を眺め、勤務中のくせにこれを飲み干したくてたまらなくなった。どうせ安酒だ、酔いもしないだろうが胸くその悪さくらいは消せるかもしれない。
「……まあいい。いやよくはないが。リジアの葛藤はこの際どうでもいいんだ。問題は、ノーヴァがわざとプリンシアを傷付けようとしていたことだ」
「ええ、そこです。プリンシア・サクラの祈りが叶わないことはほぼ確信していたようですから、あの方を追い詰める手立てを用意していたと考えるのが妥当でしょう」
「それもおそらく複数の用意があっただろうな」
「窮地に陥れば祈りの力が戻るかもしれない、と考えたのでしょうね」
「胸くそ悪い話だ」
宮廷から孤児院へとプリンシアが移された際に、表向きの理由付けは公示された。薄まった祈りの力を取り戻すためと銘打たれた孤児院暮らしに横やりを入れ、非道な方法でプリンシアに祈りの力を使わせようとした。
宮廷を敵に回すとわからないような馬鹿な男だとは、ジンもリンナも思っていない。いち早くミミリアの謎の昏倒に気付き、プリンシアをもて余した王の苦悩を嗅ぎ当ててみせた男が、なんの勝算もなく貴人をかどわかすわけはない。
「──後ろ楯がいるな」
宮廷に。
それも、トカゲがしっぽを切って逃げるのと同じに、自警団に圧力をかけてノーヴァだけを断罪させられる権力のある者が。
むしろ、自警団と癒着している可能性がある。
プリンシア・サクラという、宮廷にとって、国にとっての厄介者を排除する──そういう名目の元に集った者たちがいるかもしれない。果たしてそれは、隊長クラスでの話なのか。それとも団長クラスでの話なのだろうか。
もしも団長が裏で糸を引いていたのなら、この件は手に余る。
王の後ろ楯があっても、ジンには手が出せない。
酒を飲む気力もなくなり、血の気の引いた指先から瓶が逃げそうになった。
ああ、逃げてしまうのが、一番手っ取り早いのかもしれない。
誰にも知られず、誰も彼らを知らない、果ての地まで行ければの話だ。
だがそれには、いったい何年かかるのだろう。
彼らが安心して暮らすための土地にたどり着くまで、どれほどの妨害があるだろう。
「ジン」
気の遠くなるような絶望に囚われかけていたジンを引き戻したのは、すべての予想をすでに一通り考えたはずのリンナだ。
どんなに絶望的な材料が揃おうと、彼の声色はいつもと変わらない。たぶん、彼のやるべきことが、何があっても変わらないからなのだろう。
「まずは、自警団の団長に渡りを」
「……腹の探り合いを、俺にしろと?」
「あなたにしか頼めない。私では立場が弱い」
こういうときに限って、敬語が外れる。
強烈に胃が痛いが、弟のようにも息子のようにも思える可愛い部下の頼みだ、団長たる自分が日和っているわけにはいかなかった。
「わかった。ただ、これだけは言わせてもらうぞ。自警団がノーヴァの後ろ楯と繋がりがあるなら、この件は俺たちの手には負えないと思え」
ほぼ孤立無援。王の権威も利かない。しかも、なんでもかんでも外部に話すことができないようなこの案件、誰に何を話していいのか考えながらの仕事になる。慎重に、しかし日をかけては事態が膠着する。
動くなら、一日でも早く。そうでなくては、ノーヴァとその後ろ楯を一網打尽にしつつ宮廷の空気を入れ替え、プリンシア・サクラの移住を公に認めさせることができなくなる。
すべてを一気にやり遂げるのは至難の技だ。
だがやらなくてはならないのだ。
なぜならこれが、好機だからだ。
「これから私たちがすることのことごとくがうまくいかず、誰の手も借りられなくなったそのときは──」
リンナ・ローウェルならばきっと駆け抜ける。
「大地の果てまで、あの方を連れて逃げます」
やっぱり彼は、揺らがない。




