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騎士団塔がにわかに活気づき、大半の騎士たちが活動を始める前にリンナは窓辺から去っていった。彼はジンと合流して何かの準備をしなければならないようだった。数日間おとなしく応接室に閉じ籠っているようさくらに言い含め、それから戸を元に戻す方法を教えてくれた。
さくらは陽の光の入らなくなった部屋で、また例の書類に目を通し直す。新たな土地で、新しく人生を始めるのだ。この胸に痛い『意見書』はじぶんを変えるための指針になる気がした。
※※※
「これはなんだ」
王にしては乱暴な動作で書類を放り投げる。
国王ギディオンの眼前にはジンが厳しい面持ちで立ち尽くしていた。彼も、王に提出された『意見書』には目を通している。
「陛下に献上された各部所からの意見書でございます」
「なるほど。宮廷の噂話を集めた趣味の悪い目録かと思ったが、違ったか。私にはそんな下衆な娯楽が必要だと思われたのかと勘ぐるところだった」
あからさまな王の嫌みに、ジンは返答に困っている。
「それにしてもずいぶんとあちこちから掻き集めてきたようだな、このずさんな『意見書』とやらは。どんな思惑があるにせよ、人の悪口を何人もに書かせて、それでどうにかなると思っている諸官の舐め腐った態度が気に入らん」
「……おっしゃる通りです、陛下」
王の執務室には侍従も書官もいない。いるのはギディオンとジンだけだ。だからこそ憤りの言葉に容赦がない。王の痛烈な批判を受け、ジンは苦笑もできないといった風情で力なく首を振る。
「なあ、ジン。優秀な人材といえど人間は基本的にバカなのだろうか。私も実をいうとプリンシアの傲慢さが招いたことだと思ったこともあった。噂が尾ひれをつけて宮廷中を泳いでいるのも知っていた。そして宮廷人がそれを好物にしていることも、もちろん知っていた」
「ええ、陛下」
「だが、ここまで他人の噂話に影響される馬鹿者ばかりとは思っていなかった。仮にも王に奏上するものだというのに、内容のなんと薄いこと。本気で『意見』したいのなら、このような『友人の友人が昔やらかしたらしいエピソード集』など提出すべきではない」
ここでジンが押さえきれずに軽く吹き出した。一応断っておくが、笑わせようとしたつもりはない。
「……まったくその通りです。そもそもプリンシアは報告書に書けるほど大仰な悪事を働いてはおりませんから、どうしてもただの悪口を書いたようにしか見えなくなるのです。これまで誰も彼女を諌めることができず、苦汁を飲まされた者がいるのはここにゆえんがあるわけですが」
「法を犯していない者を罰することはできんからなぁ。だが長官らはその一線を踏み越えたのだ。尾ひれのついた噂をわざわざ文字に起こして、仲間を増やして、しまいにはこの私の目に触れさせようとは恐れ入る。これを書いた者どもを一人ずつ呼び出して、証拠を見せろと言ってやったらどうなると思う? なあ、ジンよ」
これにはジンも顔をひきつらせた。
配下を力でねじ伏せるような言動は、するべきではない。わかってはいたが、それくらいしてやらねば宮廷人たちの意識は変わらぬと王は確信していた。
宮廷とは、この国にとって非常に重要な、専門家の手を借りるべき案件を扱うために作られた場所だ。国内最高峰の頭脳、武力、礼儀作法、奉仕能力をもって王を補佐し、国を運営している。
だというのに、プリンシア一人によってたかって悪意ある噂話。陰口。挙げ句の果てには彼女と直接関わりもない部所の人間までもが、さも彼女に不当な扱いを受けたような報告書を提出してくる始末。
あいつがこう言っていたから、たぶんこんなことだってしているんだろう……そういう憶測が、まるで本当に実行されたように書かれている。しかも要約すればたいてい似通った内容のくせに、様々な人間が様々な言葉で書き連ねるから、あたかも宮廷中で多大なる悪事が働かれたかのように見える。そして結びはこうだ、このままでは宮廷は揺れる、と。
──大馬鹿者が! 恥を知れ!
王は怒りもあらわに、溜め息をついた。
宮廷人には、技術の粋が集められた場所で奉仕活動をしている矜持があると思っていた。じぶんの仕事に、誇りを持っていると思っていた。しかし現実には、人の噂話に花を咲かせ、踊らされ、共通の敵を作って攻撃して連帯感を得ている。なんと愚かで下衆なことだ。
いや、この報告書だか意見書だか陳情書だかを、まるきり無意味とは言わない。実際、こうして提出される前は、意見箱に投函された苦情を王も目にしている。だから全部が全部、想像だとかでっちあげだとかは思わない。プリンシアに悪感情を抱く者が宮廷内に多くいるなら、ただそれだけで宮中には波風が立つことだろう。
しかし、だ。
真実かどうかもわからないものを、この国の頂点に向けて差し出してくるという行為が、王には信じられなかった。下っ端の使用人といえど教養が高くなければ宮廷に召し上げられることはない。それでも下っ端だからこそ、意見箱に入れられた苦情は真に迫り、より切実なものであったはずだ。
だが今回王の手元にあるのは、各部所の長官が自らの部下の言葉をわざわざ集めて提出してきたもの。長官が分別のつかぬ者であるはずがなく、自力で解決できる立場にあるのにもかかわらず王に直接裁可を仰ぐとは。
──矜持も持たぬか、部下を率いる長ともあろう者どもが。
「おそらく、プリンシアという存在自体が疎ましいのでしょう。彼女が何をしようがしまいが、結局のところ長官たちには関係のないこと。役目を終えたらさっさと帰れ、と彼らは言いたいのです。国民が生身の人間を信仰するのなら、対象は王でなくてはならないと思っている」
ジンが冷静に分析する。
「あれでも一応、国や王のために動いているのでしょう」
「ならば彼らにそうまでさせたのは他ならぬ私だな」
「彼らに心労をかけたとお思いなら私からはなんとも。ただ、プリンシアが役目を終えたあともこの地に留まったことは未だかつてなかった。
……前例のないことで、皆手探りなのです。陛下、おそらく誰もが悪い方へ悪い方へと考えてしまうだけなのです。プリンシアが聖母のような人格者だったならまだしも、あれだけ幼い印象を振り撒いていては致し方ないことでした」
「そうだな……」
王家を思い、国を思うからこそ、争いの種になりそうな【祈りの姫君】を早急に排除したい、と宮廷の頭脳たちが考えている。プリンシア本人が騒動を起こさずとも、彼女を手中におさめ、この国に圧力をかけようと画策する輩がいないとも限らない。
彼女が宮廷中から嫌われるように仕向け、そしてその機会を逃さず王に揺さぶりをかけてくる。官吏とは恐ろしい生き物だ。
ここで王が、感情に任せて官吏を断罪してしまえば、今や一丸となっている宮中は王に疑心を抱くだろう。
真偽の定かでないものを王に突きつける暴挙に出たかと思わせ、その実、王にはさほど多くの選択肢はなかった。馬鹿者に見せかけた、狡猾なやり口。だからこそ、虚しさを伴った苛立ちが募る。
ギディオンは人払いしてあるのをいいことに、行儀悪く舌打ちした。さすがにジンが苦笑し、床に放り投げられた『くだらない意見書』を拾い始める。
「どうしてこうなったかを考えるのはもうよそう。問題は今後。宮廷に凝った悪意をいかに溶かすかだ」
彼が一枚一枚集めるのを見守りながら、密やかに問うた。
「プリンシアには、逃げるよう申し上げたか」
「はい。しかし、戻れぬ、と。向こうの彼女の肉体はすでに滅びているというような言い回しをなさっていましたが、いかがいたしますか?」
「……何もかもが異例のことだからな、正直なところ私にも判断がつかん。無理に向こうへ戻して死んでしまったのでは、逃がす意味もない。彼女の意思を問おう。彼女は今、騎士団塔に?」
うなずくジンに、王はずっと黙っていたことをそろそろ打ち明けねばならんと腹を括った。
「ジン、リンナに手を貸してやってくれないだろうか」
すると彼はすぐに王の意図を察したらしく、困ったように微笑んだ。
「御意。やはり、あの男に任せるおつもりで?」
「それが一番いいような気がするのだ。これ以上宮廷には置いておけん、かといって王たる私では目の届く範囲も限られる。せっかく近衛騎士にまで昇り詰めたのに申し訳ないと思うが、他に適任者が思いつかんのだ」
「私も同じ思いですよ。あいつは、友より権力を選ぶような男ではありませんから、ご安心いただいて大丈夫だと思います。あれほど情に篤い人間を、私は他に知らない。彼は心から『サクラ』のために動きます、必ず」
部下の誰より目をかけ、共に任務をこなしてきたリンナの上司がそう言うのだ、きっと間違いはない。
ようやく王にも笑顔が戻り、ジンから『意見書』を渡されてもまた放り投げるような真似はしなかった。
「プリンシアがリンナの提案を受け入れれば、彼らは遠く、山向こうの土地へと旅立つことになる。だが私が正式な形でそれを取り決めるには、味方が少なすぎる。ジン、動けるか?」
「私のすべてを懸けて善処しましょう」
「おまえには本当に苦労をかける。すまない」
「いつの時代も、保護者という立場の者は苦労するものです」
ジンは過去最高に苦い笑みを浮かべていた。




