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案内人を務めたリンナが、とある部屋の前で足を止めた。
「ここです」
本当にいいのか、と問う目差しに返事をしないでいると、彼は根負けして扉をノックする。ややもすればノーヴァの返答があり、さくらの心臓がどくんと嫌な音を立てた。
目の前が暗くなるような錯覚を覚え、小さくたたらを踏む。
ジンが気付いて手を差し出そうとしたが、さくらはそれを見ないふりした。
足音が近付く。
扉の軋みが聞こえて、わずかな隙間から顔色の悪い青年が姿を見せた。
「ああ、おはようございます。あの、あなたは確か、ローウェル殿だったかと」
リンナが応じる前に、さくらは一歩踏み出した。彼の視界に入り込み、挨拶もなく互いの目を凝視し合う。
「……皆さまおそろいで。──プリンシアも」
お目覚めになられたのですね、と彼は乾いた声で言った。取り繕われたその微笑みの表情に、寒気がした。けれど、どうも隠しきれない疲労感が瞳の濁りに現れている。目の下の隈、痩せた頬に血の気もなく、死刑執行を宣告される寸前の囚人みたいだ。
──意識体のようだったわたしがこの世に戻ってきたこと……本当は恐ろしいでしょう。それともやはり妹のことでなければ、どんな危機も怖くはないのか。
「少し、お話をよろしいでしょうか? 商人殿」
ジンがにこやかに、そのくせ有無を言わせぬ口調で促す。ノーヴァが断れないことを、さくらはわかっていた。プリンシアと医師を同伴しているジンを追い返せる理由など、彼にはない。妹の心配をしているふりで入室を断っても、疑いが深まるだけだ。
そう、彼はちゃんとじぶんが疑われていることを察知している。それでも逃げないのは、逃げられないからなのかもしれない。逃亡ルートが確定していないとか、あの小肥りの男や金髪の女に悪事の証拠を始末させている最中だとか、あるいは単純に、──妹の体調が良くない、とか。
ノーヴァは、にこっと笑ってさくらを見下ろした。
「もちろん。さあどうぞ。プリンシアがお目覚めになるのを、ずっと待っていたんです。そして真っ先に謝罪しなくてはと」
「プリンシアに謝罪を?」
「ええそうです。あの火事の中、私はプリンシアを助けに戻ることができなかった。私にとって妹は何よりも大切な宝なのです、けれど王の臣民である私は身内の宝ではなく国の宝を真っ先に守らなくてはいけなかった」
一行を部屋に招き入れながら、ノーヴァは自然に嘘をつく。壁際のベッドには、彼の言うところの宝が横たわっていた。簡素な白のワンピースドレスが、彼女の痩けた頬を異様に青く見せる。
「その件に関してはいずれ王から沙汰があるでしょう。……妹君は、どこか怪我を?」
ジンが気遣わしげに訊ねると、ノーヴァは首を横に振る。
「いいえ、今回の騒動では何も。妹は何年も前から眠ったまま、目覚めないのです」
リンナとジンにかすかな反応があった。王宮で深い眠りの底に沈んでいる姫君と、同じ状況にある娘が目の前にいるのだ。リンナは姫の眠りの原因を知っているから、心の中でさくらを疑っているかもしれない。ジンはさくらの祈りでどうにかできなかったのか、と思っているかもしれない。
けれど二人はさくらを振り返らず、こちらに背中を見せたままノーヴァと対峙している。
「一度も目覚めないのですか?」
「はい。他にこのような症状のある者も見つからず、ぶしつけながらプリンシアに我が妹をお救いくださるようにお願いしていたところだったのです」
「それで、実際に祈りを?」
「祈っていただきました。残念ながら妹の瞳が私を見ることはなく、そう日を置かずに盗賊に襲われたものですから実はまだ諦めきれないでいるのです……。しかし、プリンシアを助けられなかった私などが今一度彼女に頼み事をするのは無礼千万。もとより陛下の耳目から隠れるようにしてプリンシアさまに祈りを願い出たことは、お叱りを受けるべきことだと理解しております」
白々しい。
怒鳴り付けたい気持ちは、肉体があるという実感によって抑えられていた。実体のない魂だけでいたときはあんなに身軽だったのに、ひとたび器に戻れば喉が震え舌が重くなる。
さくらは煮えたぎる怒りを吐く息に乗せて、ゆっくりと深呼吸した。
老師がノーヴァの妹を痛ましげに見つめながら「初診のときにも申し上げた通り、その子に外傷はありませんでした。私は今年で七十になりますが、年単位で眠り続ける人を見るのは初めてです」と言った。そして改めて少女の診察を買って出た。
「診せていただけますか? 商人殿」
「老師」
ノーヴァが了承するより先に、さくらは老師を引き留める。
「ああ、申し訳ありません。あなたのお話を優先すべきでした、私としたことがつい……」
「い、いえ。大丈夫。そ、その子を診てもらうために、老師に一緒に来ていただいた、から」
「では先に診察をしてもよろしいのですか?」
「かまいません。た、ただ……」
「ただ?」
妹を想う盲目的な兄の、鋭い視線が痛い。
さくらは口がひどく乾くのを感じた。
「鼓動を確認してください。う、動いて、ない、かもしれない」
え……? とつぶやいたのは、老師だけではなかった。
「どういう意味ですか」
無礼をたしなめようとするみたいに、強めの口調でノーヴァが問う。リンナが腰の剣に手をかけたのが視界の端に映った。
「まるで妹が生きていないとおっしゃっているような物言いだ。いくらプリンシアといえど配慮に欠ける言動では?」
「商人殿、落ち着いて。今、確認していますから」
さくらがもう一度言い直す必要もなく、老師がすばやく少女の首や胸に手を当てて心音と脈を測り始めた。
だがなんの手応えもなかったのか、老師は静かに少女の身体から手を引いた。ジンが状況を察して苦い顔をする。
「老師、その子は……」
「残念ながら、鼓動の確認がとれません。……すでに亡くなっています」
ノーヴァの目がこれ以上なく見開かれた。
「……嘘だ、ありえない」
妹のそばに駆け寄り、肩を抱いて彼は呼吸を確かめる。妹の吐息で髪が揺れることもなく、芯まで凍ったような冷たさが少女の全身を覆っていた。兄に寄りかからなければ首が折れてしまいそうなほど、彼女の頭がぐらぐら揺れる。
「いつから」
冷たい遺体に隅々まで触れ、どこにも温かみがないことを悟ったノーヴァが呆然と呟く。
「いつから心音がなかったんだ」
「昨夜の様子は、」
「息はあった! 隣にいたんだ、間違いない。体温も、こんなに冷たくはなかったはずだ……」
老師が眉を寄せ「この時期、死後硬直がたった数時間で解けるはずがない。いくら子どもとはいえ、全身に硬直が広まるのだとて時間はかかります。ましてや、あなたがそれに気付かないとも思えないのですが」と言うと、ノーヴァはそれにすがるようにうなずいた。
「そうです、院長先生。妹は目覚めないだけで、死んでなんかいなかった! 昨夜も、いつもと同じように眠っていただけだ」
「──違う。いつもと同じじゃなかった」
さくらが、小さな声で彼の希望を打ち砕く。
鮮烈な憎しみの視線が向けられ、屋敷で負った心の傷がじくじくと疼いた。だが口をつぐむつもりは毛頭なかった。
ジンとリンナの影から出ると、ノーヴァのキツい眼差しはいっそう鋭くさくらを射抜く。守ろうと伸ばされるジンの手からも逃れ、スカートをぎゅっと握りしめる。
「あ、あなたはじぶんのしたことを、こ、この人たちに言ってない。ちゃんと言ってください。話は、そ、それから」
「なんの話です! 今はそれどころでは」
この期に及んでまださくらと向き合わないつもりか!
目蓋の裏が真っ赤に染まった気がした。
「いい加減にしろ!」
さくらは思いきり怒鳴りつけた。
体裁も何も、関係なかった。
「わたしはっ、おまえが自首するのをっ、待ってる!」
「何を怒っておいでです。今は私のことなど後回しでいいでしょう!」
「おまえが懺悔する最後の機会だと言ってるんだ! まだごまかすなら、わ、わたしが言う!」
老師が、落ち着いてください、と困惑気味になだめても従わない。
ノーヴァに自首する気がないのは明らかだったからだ。というより、じぶんの犯した悪行も含めて、妹の異変をどうにかするより優先すべきことなどないのだろう。
喉元まで、煮えたぎった感情がこみあげてくる。
「屋敷にいた女の子たちはみんな、被害者です! どこからか集められて、資金繰りの道具に、さ、されていた。地下の闘技場で戦わせて、その様子を買い手に見せて、売り飛ばすんです……──全部妹のためにやったとおまえは言うけれど、妹はそんなことを望んでなんかいなかったのに!」
「……プリンシア・サクラ」
ここで、リンナの制止が入る。低く、ざらついた声だった。もっとちゃんと順序立てて説明しろと言いたげだ。
さくらは彼らのほうを見る勇気がなく、静かに息を吐いて気を落ち着けた。
これ以上ここでノーヴァの所業を話しても無駄だ。最低限伝えるべきをことを話したら、あとは事件を担当している人にさくらの知っていることをすべて報告しよう。それでもう、さくらの出る幕は終わりだ。
こちらの真意を探ろうとするノーヴァの瞳を、睨み返す。
「あなたの妹はこちらに戻らないことを決めました」
「え……?」
「理子はわたしが元いた世界で生きています。八年前からずっと、向こうで暮らしている。だから、向こうにあるものを大事にすると言いました」
あなたのところへは二度と帰らない。
そう言うと、苛烈な眼差しがさくらを射抜く。
「くだらない。夢でも見たのでは?」
「あなたの妹の名前、理子で合っているんですね」
剣呑な目つきが解かれ、彼の顔から血の気が引いていく。
それでも気丈に、彼は笑ってみせた。
「以前、何かの拍子に名を言ったことがありましたかね」
「そう思うなら、す、好きに言えばいい。最後まで誰とも向き合おうとしないあなたのところへ、理子を連れ戻さなくて良かったと思うだけ、です」
「連れ戻す……?」
思い出せ、とさくらは目で語る。火事の夜、さくらがどんな姿をしていたか。どんな姿でノーヴァと対峙し、そしてどのようにして消えていったか。
──陰湿な思念に私をどうこうすることはできない、と言っていた。今でもそれを言えるか、おまえは。
「教会で……」
さくらがぽつりとヒントを与えると、彼の瞳孔は狭まった。青白い頬がこわばり、唇が震えているのがわかった。
「あのとき、あなたが悔い改めたんだったら、わたしは理子を説得したかもしれない。理子のためにすべてをなげうっている兄がいる、だから戻ってこないかって」
「あ、あなたは、妹に、なんと言ったのです」
「すべてを」
「……すべて?」
「おまえがやったことを、全部!」
めまいがしたかのように、彼は自らの額に手を当てた。
「そうしたら、理子は戻らないと言いました。今あるものを捨ててまで、あなたみたいな人のところには帰りたくないと言いました」
「そ、んな、そんなことがあってたまるか……」
「あなたの都合で苦しい思いをさせられた女の子たちも、それと同じことをあなたに言いたかったのではありませんか。わたしに、あなたを殺してくれと何度も叫んでいた。悪魔と呼ばれたこと、忘れたとは言わせません」
「だったらその願い通りに俺を殺せばいい! あの教会で俺の心臓を握り潰そうとした、その続きを今ここで!」
息を飲む気配がした。ジンか、老師か、あるいはリンナが?
だが、誰にも口を挟まないでほしかったさくらは、冷たく一息に切って捨てた。
「誰がおまえのために手を下すか」




