002頁
2
ミュゼガルズの城下は、冬の始まりであるにもかかわらず色とりどりの花やリボンで飾られ、祝福の歌で溢れていた。
内親王殿下の生誕祭が、始まろうとしている。姿見の前で髪をいじられながら、さくらは忙しそうに立ち働く使用人たちを眺めた。
今日は主役である内親王殿下の妨げにならぬよう、深い緑のドレスを着せられている。
サファイアブルーの鮮やかな衣装をまとうという内親王殿下とは、まるで対になるかのような配色。
歳はそこまで変わらないのに、明るい色彩と濃い色彩が、ふたりの若さと老いを表現しているようだった。もちろん、さくらが老いのほうだ。
抹茶のドレスは、形こそ華やかだが、二十歳そこそこの娘が着るにはまだ早いと思う。さくらの容貌が地味なせいなのだろう。落ち着いた色合いが、さくらには似合いだと誰もが思うらしい。だけど、さくらだって若い娘なのだ。ピンクやホワイト、レモンのドレスに心惹かれる。
――わたしが美人だったら、こんな思いはしなかったのか……。
考えるだけ虚しい。内親王殿下の美貌がうらめしくて、けれど、じぶんの身の丈には合わないものだということはしっかりわかっていた。暗い色のドレスも、きっとじぶんに相応しい。いや、ドレスを着せてもらえるだけ特別扱いだと思ったほうがいいのだろう。なにしろ、さくらはどこのご令嬢というわけでもないのだから。
「さあ、プリンシア、できましたよ。我が国の偉大なる聖母。あなたのご威光をほんの少し内親王殿下へお与えください。バルコニーに立てば、威厳あるそのお姿は民衆の眼に焼き付くことでしょう」
茶色い毛先を巻き、結い上げ終えた使用人たちが口々に褒める。ものは言いようだなと鼻で笑いたい気分だったが、それを実行するにはやはり勇気が足りなかった。
一月のあいだ、さくらはミュゼガルズの崩壊を願っていた。会うひと会うひと全員の不幸を、祈っていた。
それなのに、なにも起こらなかった。
任務を終えたあのときに、力をすべて使い果たしていたのか。あるいはそもそも力なんて持っていなかったのか。とにかく、忌々しいことにさくらはすでにひとの関心を集められる術を失っていたのだ。
心はますます荒んだ。
力を失ったことを悟られまいと、見栄だけが前に出る。虎の威を借る狐は、脱げかけた虎の毛皮を身体に巻き付け直すのに必死だ。
「あら、さっそく近衛騎士団の方がお迎えにいらしたようです。プリンシア、どうぞ足元にお気を付けていってらっしゃいませ」
わらわらと装飾品を片付けていた使用人たちは、部屋の隅に整列してさくらを送り出す。
今日、さくらを護衛する近衛騎士団の団員はジンでもリンナでもない。平団員の騎士たちはいたって事務的に、さくらを誘導してプリンシア邸を出た。
宮廷の敷地は広大だ。王のおわす宮殿を囲むかたちでたくさんの邸や施設がそこかしこに建っていて、それらすべてをまとめて宮廷といい、王の住まいを特に王宮といった。民衆を集めて行う儀式の類は城下に一番近いところにある聖陽宮が舞台となる。
儀式の日は、正面の正門を開放して、前庭に民衆を入れる。ひと部屋以上の広さがあるバルコニーがその前庭に面しているので、王族たちはたびたびそこに立って民衆に手を振った。このバルコニーがある建物が、儀式専用に造られた聖陽宮だ。
今日の式典は内親王殿下が城下の町をぐるりとめぐる特別仕様だから、バルコニーで一刻ほどかけて神祇官が祝詞を読み上げ国王が内親王殿下の成人を認めたら、すぐに馬車に乗って城を出発する。ジンもリンナも近衛騎士団の顔なので、今日ばかりはふたりとも彼女につきっきりの予定だ。
「本日はとても落ち着いた装いですね、プリンシア。よくお似合いです」
正門前の聖陽宮につくや、待機していた内親王殿下の家庭教師がにこやかにさくらを褒め称えた。有力貴族の出身で、弓もたしなむ淑女である。
彼女はシルエットのすっきりとした藍色のドレスを身にまとい、内親王殿下の到着を待っていた。
「そろそろ殿下がいらっしゃいますよ、ああほら、噂をすれば」
騎士の制服にマントを羽織り、勲章のブローチをいくつもつけた正装姿のジンに手を引かれ、麗しの姫君が階段をのぼってくる。
よく晴れた秋の空のように、清んだサファイアブルーのドレス。波打つプラチナブロンドの髪に華奢なラリエットを編み込み、控えめなティアラを乗せた繊細なヘアメイク。広く開いたデコルテを飾るのは、クリスタルブルーの宝石を抱いたプラチナのネックレス。
けれど、内親王殿下の限りなく色素の薄いベイビーブルーの瞳こそが、それら装飾品のなにもかもを凌駕する最高峰の宝石だった。
本日十六歳となった現国王のひとり娘、ミミリア・ヘレ・ミュゼガルズ内親王殿下。
彼女には文句なく、姫の肩書きが似合う。
不用意に触れてはいけないような細くて薄い彼女の身を、誰もが丁重に扱った。ジンがその小さな肩に触れそうで触れないぎりぎりの位置に手をかまえて「姫、こちらへ」とうながすのを呆然と見つめる。
ああ、なんてことだろう。
本物の姫が、いるではないか。
儚げな眼差し、儚げな細面、儚げな声。育ちがまるで違う。この姫が、自室へさがったあとにジャージに着替えてスナック菓子を頬張るだろうか? 答えは否である。彼女はきっと、自室にいても姫のままだろう。ベッドに寝転がってごろごろ転がってみたり、寝巻きでうろうろしたりはしないのだ。
さくらは、じぶんの姿の惨めさを改めて突きつけられた気がした。
あんなふうに、肩は細くない。
あんなふうに、腕は細くない。
あんなふうに、腰は細くない。
あんなふうに、身体は小さくないのだ。
さくらの体格は、間違っても華奢ではない。下半身デブなんて呼ばれる体型であったし、胴長短足で、肩幅もある。身長はあまり高くないが猫背だし、毛深い質なのでムダ毛処理も大変だ。おまけに角度によっては二重顎にもなるし、顔面はのっぺりして、目の色も髪の色も焦げ茶色で凡庸。せめて黒髪であれば、漆黒のなんちゃらなどと褒めそやされたかもしれないのに、世界最多の茶髪ときている。
ガラス細工のような生まれついての姫君と、いいところ野の花にしかなれない偶然に選ばれただけのプリンシア。
背伸びをして、見栄を張っても、この差は埋まらない。
さくらはプリンシアではあるが、姫ではない。役目を終えたら、そこまでの存在なのだ。
「足元、お気をつけください」
ジンとは反対側に、リンナが侍る。
近衛騎士団きっての偉丈夫たちが左右を固め、その後ろを見目のよい団員や専属の側付きが続いた。
バルコニーの手前で彼女の到着を待っていた一同は一斉に拍手で迎え、晴天広がる正門前へ彼女を導く。
ミミリアは、その場にいた全員に向けて会釈をした。髪を飾るラリエットがしゃらしゃらと揺れて、涼しげな音がした。
祝福を授けなくては。
さくらのそばに侍っていた騎士団員が、そっと耳打ちしてくる。「さあ、プリンシア・サクラも」わかっている。声を、かけてあげなくてはならない。【祈りの姫】が言祝ぐことは、重大な意義がある。
けれど、さくらが口を開くよりも早く、会釈を終えた姫君が真っ先にこちらへ来てくれた。
輝く瞳が、波間に反射する陽の光のようだ。
「プリンシア・サクラ! よくいらしてくださいました。心より感謝申し上げます」
素直な言葉に、素直な気持ちを垣間見る。
「わたくしもようやく成人です。この晴れの日にあなたが見守っていてくれるとは、なんという誉れでしょう! プリンシアのように、わたくしも皆のために祈ります。きっとです、きっと!」
それは困る。それでは困るのだ。祈りを捧げる姫はひとりでなくては。さくらがここにいる意味がなくなってしまう。
でも、ここで、彼女の頬をひっぱたくような真似などできるはずもない。
さくらは、笑った。今すぐ部屋へ帰りたいのを我慢して、くちびるを噛み締めたいのを押し殺して、周りが望むように笑ってみせた。
「殿下のご生誕を心から祝福します。十六回目のこの日を迎えられたことは、あなたの努力があってこそです。日増しにお美しくなられて、陛下もさぞ鼻の高い思いをされてらっしゃるでしょう」
ばかみたいな褒め言葉。なにが、らっしゃるでしょう、だ。似合わない、こんなかしこまった口調なんて。故郷の誰かが聞いたら、きっと笑うに違いない。おまえみたいなやつがなにを偉そうに喋ってるんだ、と言って。
「まあ。それはあなたさまの最大の褒め言葉と受け取ってもよろしいのですか? わたくし、感激して涙が出そうです」
本当に潤んだ瞳で、彼女は微笑む。
さくらは彼女の不幸も望んだ。なのに、この仕打ち。そう、これは仕打ちなのだ。
彼女の純粋な対応が、ふたりの格の違いを浮き彫りにする。いつもそう。折に触れては思い知らされる、今の居場所に分不相応なじぶん。
周囲は、着飾ったプリンシアと内親王殿下のやりとりを微笑ましそうに見守っている。
さくらひとり、醜い心でここに立っている。なんという、みっともなさ。
「プリンシアの今日の装いはいつもより淑女らしいですね。落ち着いていて、本当に聖母のようです」
ミミリアはなんの含みもなくそう褒めた。さくらは気まずく思っていたが、彼女のそばについているジンやリンナもさくらの格好を眺めて同意を示した。
「穏やかな気性のプリンシアには、落ち着いた色のお召し物がよく似合いますね」
やはりものは言いようだ、と思う。さくらは穏やかな気性の女ではない。どちらかというと苛烈だ。単に表立って暴れられないだけで、本音は相当に激しく刺々しく冷徹である。基本的に黙っている、というだけのことがさくらを「優しい」だとか「まじめ」だとか「穏やか」なんて評するのには、ヘドが出る。
地味な女には地味な服がお似合いだよ。
そう思われていることに、気がついていないとでも?
苦し紛れになんとか褒めようとするその同情めいた行動が、どれだけさくらをみじめにさせるか。いや、させてきたか。
「プリンシア。あまり顔色がよくありませんが。気分が優れませんか?」
リンナがまたも、無表情でそんなことを言う。どうして暴こうとするのだろう。このひとには、心で思っている腹黒いことをすべて見抜かれている気がする。
「いいえ平気です。おかまいなく」
「そんなわけにはいかないでしょう」
わざとなのか。
リンナが目配せすると、さくらの護衛のひとりが物陰から椅子を一脚持ってきた。
どうやら出番まで座って待機していろということらしい。
体調が芳しくないとわかっても、リンナはときどきこういうふうにさくらを逃がしてくれないときがある。本当に体調不良なわけではないことを察知しているからだとは思うが、他の人たちがするようにはやはり優しくないし甘くない。
ジンも止めには入らず警備体制のチェックを始めた。残念ながら部屋には戻れないし、精神の疲労が身体に現れるほどさくらは繊細ではなかった。どんなに落ち込んでも、忌々しいくらいにさくらの肉体はいつも元気だ。本当に忌々しい。いっそ倒れられたらいいのに。




