028頁
しばらくしてから、リンナはばつが悪そうに手を離した。
「……すみません。取り乱しました」
もそもそと言うのが、珍しい。
「あなたが生きていて、よかった……。本当に、そう思います」
彼の心に何かが響いたようなのがちゃんと読み取れて、さくらはじんわりとした幸福感を味わう。
孤児院でノーヴァの部下たちに「ここで私は変われるかもしれない」と告白したときは、金持ちの道楽だと失笑された。さくらをプリンシアという象徴として見ている人たちなのだから、その反応は当たり前なのかもしれない。
でも、ノーヴァの部下ではなくリンナ・ローウェルに告白したのであれば、きっと返される言葉は違ったと思うのだ。
リンナはさくらを、人間として見ている。一人の人間として。だからこそ彼は、彼だけは面と向かってさくらの傲慢な態度に難色を示し続けていた。
さくらは彼のそのまっとうな眼差しに、応えることができるだろうか。
目指すなら、彼に誇れるじぶんになりたいと思う。
さくらは白い寝間着のまま、床におりた。
「どうされたのです。何かご入り用でしたら私が」
「なにも要りません。だ、大丈夫、一人で立てます」
「せめて靴を」と眉を寄せるリンナに首を振って答え、裸足で立つ。身支度を整えている場合ではない。動き出すのに、ずいぶんと時間をかけてしまった。
「ノーヴァのところへ案内してください」
強く言うと、リンナはますます顔を険しくさせ「だめです、あなたはまだ休んでいなくては」とさくらをベッドに押し戻そうとする。手までは触れなかったが、片腕を広げて道をさえぎっている。
「幸い大きな怪我はありませんでしたが、私にはあなたがとても疲弊しているように見えます。顔色が悪い……」
「わ、わた、わたしはもうじゅうぶん休みました」
「じゅうぶん? ご冗談を。そんな血の通わない幽鬼のようなお顔をして何をおっしゃる。ノーヴァ家に関する事後処理は、あなたの領分ではありません。ですから我々に任せてくださってかまわないのです。近衛騎士団も自警団も、この件に関して手を抜くつもりはありません」
幽鬼はちょっとひどい表現だが、彼が強固に休めと言うくらいだから死人に近い相が出ているのかもしれない。
以前のさくらなら、ここであきらめていただろう。彼もきっと、さくらが強行するとは思っていない。
たとえ幽鬼になっても、やらなくてはいけないことがある。それをちゃんとやりたいと思う。やると決めたことを、あきらめたくないと思う。
さくらは、彼の目こそ見返せなかったが、後ろにさがることだけはしなかった。
「人に任せるのは、もうたくさんです!」
声を張って、訴える。
「あの人は悪いことをしました! わ、わたしがそれをっ、全部話します。ノーヴァの前で、です!」
ぐっとリンナは返答に詰まり、選びようのない選択肢を突きつけられたみたいに苛立たしそうな顔をした。
「ですが今のあなたは、」
「案内してください。あ、あの人は、ノーヴァはどこにいますか?」
いよいよ返事に窮したらしいリンナが、わずかに腕を下ろす。
「……こちらです」
ぺたぺたと廊下を歩いている途中で、騒がしい足音がした。同時に「リンナ!」と強めの口調で呼びかける声があり、さくらの前を歩いていたリンナが嫌そうな顔で振り向く。つられてさくらも背後に目をやり、そこに二つの人影を見た。
「プリンシアを連れてどこへ行くつもりだ、リンナ!」
何度言っても聞かない子どもに対するみたいに、困り顔をしたジン・ファウストが大股で駆け寄ってくる。もう一つの人影は白衣を着ていて、ジンの速さについてこられずに小走りで追ってきていた。
ジンは颯爽と追いつくや、申し訳なさそうな様子でさくらの前に膝をついた。
「プリンシア、お目覚めになってよかった。目が覚めなかったらどうしようかと気を揉んでいましたよ」
さくらの両手を取り、小さい子にするみたいに優しく握る。表情も眼差しも柔らかく、「ご無事で本当によかった」と三度繰り返すジンは父のようで兄のようだった。年齢的にはまだ三十代くらいだろうから、兄と言っておくのが無難だろう。
さくらはぎこちなく、にこ、とはにかみ、弱く彼の手を握り返した。彼の目がわずかに丸くなり、そして甘く細められる。
「それで、なぜ病み上がりのあなたがベッドを抜け出しているんです? まだ休んでいなくてはいけないでしょうに。またリンナがキツいことを?」
リンナが舌打ちしたそうに顔をしかめたのを、ジンの苦笑が受け止める。
「おまえな、目覚めて早々プリンシアに何をさせる気だ? あんなに死にそうな顔でそばについていたくせに、おまえというやつはあまのじゃくにもほどがあるぞ」
「ジン! あなたは本当に余計なことしか言わない。プリンシアをベッドに戻したいならあなたが説得してください」
「は? おまえが連れ出してるんじゃないのか?」
「私はそこまで鬼畜ではありませんよ」
顔を合わせるのも嫌だといわんばかりにそっぽを向いてしまい、リンナにはこれ以上説明する気がないようだった。
困ったジンが彼から視線を転じ、さくらを見つめる。どういうことか、と問いたげだが、さくらがリンナの前ではちゃんと答えられないのではないかとも思っているふうだ。さくらの口の重さを、彼はよく理解している。
そこへ、ようやく白衣の人物が合流し、思ったよりも低い位置からさくらの目を覗きこんできた。
「ああ、プリンシア。お目覚めになられたのですね……。私はこの治療院の責任者です。名で呼ばれることもそうそうないので、名乗るのが気恥ずかしく……差し支えなければ、老師とでもお呼びください」
見上げもせず見下ろしもせず、同じ目線で白衣の人は頬笑む。しわが多く、九十歳に近いくらいの老齢だというのはわかるが、彼、なのか、彼女、なのかは判断がつかない。
「火事の中から救い出されたとお聞きしたものですから、どんなにひどい怪我をされているかとひやひやしておりました。でもあなたはとても幸運な方ですよ。多少、声が出しにくいかもしれませんが、外傷はほとんどありませんでしたからね。他の方も、命に別状はなかったので本当に幸いでした」
「っ他の、人たちの怪我はどのくらい……」
「大丈夫ですよ、たいしたことはありません。そのへんで転んだか喧嘩したかというくらいの怪我です。ただ、少々気がかりがありまして……」
「わかっています」
言わんとしていることを察し、さくらはうなずいてみせた。
すると老師は口をつぐみ、自らもうなずいてみせながら次にこう言った。
「誰もが祈りを捧げています。何も話さず、泣かず、ずっとです。あなたは、その理由に心当たりがあるのでしょうか?」
核心に触れる質問だった。ジンが警告するように老師を呼んだが、さくらはリンナのうしろにもジンのうしろにも隠れるつもりはなかった。ここは、二人に庇ってもらう場面ではない。
ジンの袖を引いて老師から気をそらさせる。
「あります。だから、今、ノーヴァのところへ行こうとしているんです」
袖を引かれたジンはすばやくまばたきをして「本当ですか?」と問いかけてくる。さくらが首肯すると「何も今すぐでなくても……」などと困惑した様子でリンナを振り返った。
「リンナ、ひとまずおまえを疑ったのはすまなかったと言うが、まあ日頃のおこないのせいだ。自覚、あるだろ? 悪く思うな」
「そうおっしゃるだろうと思いましたよ。否定はしませんが。それで、説得はできそうですか?」
「意地の悪い質問だ。──プリンシア、ノーヴァとの面会はあまりおすすめしません。できれば取り止めになさったほうがいい」
さくらは即座に無言で拒否した。言葉なく誰かの提案を突っぱねるのは得意だ。
「ではせめて、日を改めるか、公式の場で立会人を置くかするべきかと」
「今すぐ、です」
常になく、声に出して言い切る。
「い、急がないと、いけない……から」
「急ぎのご用事ですか? いったいなんの?」
いぶかしげな視線を三対も受けて、さくらはおどおどと指先をもてあそぶ。
できれば、王の覚えもよい近衛騎士団の統括者であるジンに、協力してもらいたい。彼なら自警団の中でも立場の上の人間を呼び出せると思うのだ。どこぞの金持ちに買われていった少女たちの行方を探るにはやはり、なるべく立場ある人物を引っ張り出しておきたかった。
ノーヴァのことも、嫌がろうとどうしようと迅速に対応し、彼に荷担していた人たちをうまく探り出してくれるだろう。ジンに無理なら、プリンシアの名を使ってもかまわなかった。
「ジン」
ジン・ファウストの名は呼びやすい。でも、呼んだのは初めてといってもいいくらい、口にした記憶がなかった。
呼ばれた当人はやや驚いた様子で動きを止めている。そのうえに、
「一緒に来てください」
と続けると、彼はかつてなくさくらの言動に驚かされているようだった。
みんなにはふつうにできることでも、さくらには難しく思うことがたくさんある。話しかけたり名前を呼んだり、お礼を言ったり謝罪したり、とにかく人とのコミュニケーションがうまくとれない。
その甘えが、いったいどれだけの人を不快にさせてきたのだろうか、と思った。さくらが素直に誰かにお願いをする、ただそれだけのことをこんなに驚かれてしまうのだから、じぶんで自覚するよりもきっとずっとひどい態度だったのだ。
そしてそれを一年も、いや、三年間も続けていた。
周りから見ても、さくらはまともに口も開けない奴と思われていたことだろう。ジンの反応がそれを如実に表している。
この先、ジンのような反応をする人は多いと思う。
驚かれるたび、自らの恥を再確認させられる。
でもそれでいい気がした。以前の傲慢なさくらがしそうにないことをしたということだから、少しはマシなじぶんになっているという証になる。
リンナも驚いてくれるだろうか。
じぶんに向けられた言葉以外は聞こえていないんじゃないかと思うほど、彼はじっとなりゆきを見守っている。
彼の正義とさくらの正義が重なる限り、さくらは彼の手を借りることができるだろう。
彼はきっと躊躇わずさくらを助けようとしてくれる。共に地獄へ落ちると言った献身を、さくらはどうあっても受け止めたかった。だからリンナがそばにいれば怖いことはないと言う。彼に報いるためなら、前だって向ける。
確信めいた思いが生まれ、勇気が湧く。
爪先から指の先まで、血が騒ぎながら流れていく感じだ。
いつもの一歩より少しだけ遠くに踏み出せる予感がした。
「老師、あ、あなたも来てください」
「私が何かのお役に立ちますか?」
「お医者さまにしかできないことがあります。だから来てください、一緒に」
「もちろんですとも。プリンシア」
「あ、ありがとう」
さくらは小さく小さく微笑んで、お礼を言った。言えた。
よし、行こう。
前に、隣にいる人の助けを借りて、さくらは進むのだ。
茨の道の、痛みを越えて。




