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ジン・ファウストとリンナ・ローウェルの話す声が聞こえていた。
母と父の、さくらを愛してくれている人たちの声じゃなかったことに、涙があふれる。
胸が痛くて、痛くて、痛くて。苦しくて。
さくらはあえぎながら、目を覚ました。
「ぁぅ……う、ぅっ、あぁ……」
泣きあえぐさくらの枕元に風が吹き、人の気配が近くにやってくる。それがリンナ・ローウェルであることは、見なくてもわかった。
「どうなさったのです、どこか苦しいのですか?」
しっかりと耳に届く、わずかに焦りを含んだ男性の声。父ではない。リンナの声だ。
さくらの魂は、聖都ミュゼガルズに戻ってきたようだった。炎の中で死にかけた肉体に再び宿り、この世界の人の声を直接鼓膜で聞いている。
ああもう、元の世界には戻れないのだなとさくらはまざまざと感じた。じぶんが選んだことだ。他の誰でもない、神さまのせいでもない。やり直す機会を逸したその痛みと悲しみを噛みしめて、さくらは枕に顔を埋める。
硬い生地に歯を立て、凄絶な泣き声を殺すさくらに、リンナが苦渋の表情で手を出しあぐねていた。
「プリンシア・サクラ……私があなたを助けてしまったことは、そんなにもあなたの心を苦しめるのですか」
焼け落ちていく屋敷で、さくらは何度もリンナを止めた。助けてくれるな、死なせてくれ、そう言って彼の良心を苛んだ。
リンナがさくらを助けたこと、それが間違いだったのではないかと彼に思わせてしまうのも仕方のないことだ。
だが今のさくらは、彼の行動を、善意を、感謝することができる。
彼が助けてくれなければ、本当の本当に、さくらの生命は死んで終わりだった。
彼がいてくれてよかった。
さくらを見捨てないでいてくれてよかった。
過ちを正すことも、生きたいように生き直すことも、彼のおかげで諦めずに済むのだ。
それでも今このときだけは、やり直すことのできない元の世界での後悔を嘆くのに精一杯だった。
両親の愛を受け止めきれなかった親不孝を、叫ぶように謝る。
「ごめんっ、ごめんっ、ごめんなさい……っ」
愛していた、愛していた、愛してた、パパとママ。
かすれ声で、濁声で、発音も途切れとぎれのぐちゃめちゃで、だけども届かない相手にどうしても聞いてほしいその気持ちを、想いを、心の底から叫ぶしかなかった。
リンナはそんなさくらの様子を、ベッドの傍らに立ったまま見下ろしていた。痛ましげな表情で、安易に触れてはいけないというように身動きがとれないでいる。もしも恋愛漫画のヒーローだったら、頭を撫でるなり抱きしめるなりしたのだろうが、間違ってもさくらはヒロインではないし、リンナだってさくらの相手役ではない。
彼には彼の大事な人がいて、さくらにも今後、じぶんの生き方に納得がいくようになったら、そういう人に巡り会う機会があるかもしれない。
さくらが捨て、リンナが拾い上げてくれた、そんな幸福を夢見てもいい気が、今はしていた。
泣き疲れて一度眠り、次に目覚めたのは朝日の昇る直前だった。
窓の向こうで、一瞬、強い光が弾ける。
ぱあっと広がった朝の光が、寒々とした部屋の空気に染み渡る。
静けさと温かさがゆっくりと溶け合うあいだ、さくらは腫れぼったいまぶたをこじ開けて天井を眺めていた。
「目が覚めたんですね、プリンシア・サクラ……」
横合いから低い声がして、そちらに視線を転じる。
光が届いていないせいかひどく青白く、疲れきった顔をしたリンナが、うつむきがちに口を開く。
「火事のあった夜から、丸一日が過ぎました」
これまでの彼ならば夜通し立っていたかもしれない。でも、リンナはベッドの傍で椅子に腰掛け、うなだれてさえいるように見えた。目線もシーツの端に落とされていて、さくらの目を見ようとしない。
「もしも……」
小さなつぶやきを、彼はこぼす。
「本当に死にたいとまだ思っていらっしゃるのなら、私は」
ぐ、と眉間にしわを寄せ、言いたくないことを言わされているかのようなぎこちなさで言葉をつむいだ。
「きっとまた、止めるでしょう。何度でも。そのうえで、あなたの考えが変わらないのであれば……私はあなたの死に寄り添うことを厭いません」
「え……」
「私もあなたと一緒に地獄へ落ちます」
さくらはそれを聞いた瞬間、とっさに起き上がろうとして失敗した。
──この人に、ここまでのことを言わせたのはわたしだ。理由はどうあれ、この人はろくでもないわたしなんかに命を懸けようとしてる……。
力の入らない身体で寝返りを打ち、うつ伏せてから、ようやく背中を反らせて上体を起こす。シーツが肩から滑り落ち、冷えた空気に包まれた。
こんなに寒いところに、上着もなく座ったままでさくらの目覚めを待っていたのか。
肌は冷えたが、胸は熱いままだった。
彼のこの献身に、さくらはいったいどうやって応えたらいいのかわからない。
ベッドの上に膝をつき、中腰になってリンナに手を伸ばす。
じぶんから人に触れることなど、ほとんどなかった。
呼び止めたりするときのようにではなく、心に触れるのと同じ慎重さで手を伸ばしたことなんて、一回もなかった。
かつては、本当に一度たりとも。
直接肌に触れるのはためらわれ、さくらの中の最高の勇気をもってリンナの袖口を掴んだ。
リンナが驚いたように顔をあげる。
「たっ……」
痰が絡み、咳払いをしてからもう一度唇を開く。
「──助けてくれて、ありがとう」
信じがたいというふうに真意を読み取ろうとするリンナの袖を、引っ張る。
「だ、だから、あなたも死なないで。リンナ・ローウェル」
こぼれんばかりに目を見開く彼から、さくらは手を離した。彼の服がとても冷たくなっていたので、かけていたシーツを一枚譲ろうと思ったのだ。
けれども引っ込めた手を、リンナに引き留められる。捕まえられた右手から、冷えきったリンナの手へ体温が渡っていく。
彼はさくらが生きていることを手で触れて確かめたかったようだった。とっさに動いてしまった、という様子で、おまけに引っ込みがつかなくなったのかすぐには放せないでいる。
「あなたは……」
リンナは口ごもり、触れている手と手に視線を落とした。
どういうふうに訊けばいいのか、と思案しているのがよく伝わってきた。
さくらが夢のような世界で何を見て、何を聞いて、何を感じたのか、彼は知らない。だからこそ、さくらの心変わりを信じられずにいるのだ。
さくらには、すべてを説明するつもりはなかった。上手く話せる自信もないし、自ら進んで話したいことでもない。
だけども、彼がさくらを助けたことで罪悪感を抱いてしまうのなら、つたない言葉をいくつでも重ねてわかってもらうしかない。
彼にはどうか、さくらを助けて良かったと思ってほしかった。
「ゆ、夢を見ていました」
「夢?」
「幸せな夢、を」
「どんな……夢ですか」
「父と母に、あ、愛される夢です」
痛みを覚えたように、リンナが目を細める。
「故郷に、帰りますか?」
王宮で様々な人に訊ねられた「故郷に帰らないのですか?」という問いかけの、何倍もの重さが、リンナの問いにはあった。
さくらはしばし黙りこみ、そしてリンナの手を握り返しながら首を横に振った。
戻れば死ぬだけ、答えはシンプルだ。
さくらはここで生き直す。リンナが助けてくれたから、ここで生き直すことができる。
「元の世界で、わ、わたしは死にました」
「死んだ……とは」
「自殺、です。川に身を投げて、じぶんを、こ、殺した」
「……炎に身を投じた、一昨日の夜のように?」
さくらは怖々とうなずく。
「後悔はしてない、はずで……やっと死ねたとさえ、思っていました。でも」
頭痛がして、目頭が熱くなる。
何度も、何度でも、父と母に愛してもらっていたことを思い出すと、涙があふれて止まらない。
「じ、じぶんを、殺さなくても済む方法があったって、わかった……っ。パパとママがあんなにわたしを愛してくれてたこと、死んでから実感するなんてひどい」
ぼたぼたとシーツを濡らす涙の、熱い、熱いこと。
「ひどい、なんてひどい娘だって、お、思う! でももう、戻れない、から……戻ってやり直すことは、で、できないから、わたしはここで生き直す……! この、ミュゼガルズで」
どんなに不細工な顔であっても、逃げないようにしようと思った。
さくらはしゃんと顔をあげて、リンナの瞳を覗きこんだ。
部屋に充満した朝日を浴びて、彼の見開かれた眼は黄金に輝いている。
「あ、あなたが助けてくれたから、できることです」
そう言ったとき、彼は胸を射たれた人のように姿勢を崩し、さくらの手の甲に額を押しつけた。




