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少女は名をリコと名乗った。漢字は理性の理に、子どもの子を使う。文字通りの由来を持った、凛々しくも可愛い響きの名前だ。
理子がノーヴァの妹かどうかは確証がない。彼女が覚えているのはミュゼガルズで馬車の事故に遭う六歳までの出来事だけで、そのあとのことを夢に見たりはしていないらしい。
「そもそも、別に特別な夢を見られるような特別な人間じゃないしね、あたし!」
理子はおかしそうに笑った。
彼女にとっての兄は、貧乏ながらどんなときも理子に優しくしてくれた唯一の家族だという。いつもにこにこしていて、田畑を耕すときも作物がダメになったときも、苦しい顔は見せなかったようだった。
「まあ、六歳っていったら赤ちゃんみたいなものだよね。事故に遭ってなくても記憶なんてそんなに残ってないっていうかね。お姉さんはどう? 六歳のときのこととかちゃんと覚えてる?」
「いや……断片的にしか」
「だよね、そんなもんだよね。それでもずーっと引っ掛かっててね、ほら、町並みっていうか雰囲気っていうか? 日本の湿っぽさみたいなの、ないじゃない? しかもうち農家じゃないし、両親揃ってるしね。兄なんていないでしょって言われちゃったら、アレ? ってなるよね」
「な、なるね……」
「そんでさ、そんでさ、言葉もさ、こっちに来たばっかのときはミュゼガルズ語的なものをしゃべれてたはずなんだよね! それが今じゃさっぱりだからね。お姉さんはまだ覚えてる?」
さくらはうなずき、理子の隣で手すりに腰を預ける。
「もともとわたしは、こっちの人、だから」
「へえ! じゃあ、向こうで言葉を習ったの?」
「ううん、喚ばれた、から……」
特別な方法で喚ばれた人間は、その世界で生きる人々が当然持つであろう基本的な感覚を与えられてから枠を越える。と、神官が言っていた。それを実感したことがあるのは言語だけで、その他の基本的な感覚というのは三年暮らしてもよくわからなかった。たぶん、風を受ける感覚とか、匂いの感じ方とか、色彩感覚とか、ウィルスの耐性とか、あるいは単純に味覚の修正とか、そんなものなのじゃないだろうか。
「最初から言葉はわかってた、から、すごく助かった」
じゃなかったら、誰ともコミュニケーションがとれず早々に日本に戻されてお墓に入っていたことだろう。
「ふうん。こっちから向こうに行くときのほうが、なんかオトクって感じだね? あたし、こっち来たのが六歳でよかったー」
理子は、プリンシアだからさくらには特別な措置があったとは思っていない。単に、日本からの移住のほうが、楽だという解釈をしたようだった。あえてそう思わせたさくらはそれ以上何も言わず、本題に入る。
「あなたのお兄さんかどうかはわからないけど」
前置きをして、さくらはノーヴァについて話した。理子が彼の妹じゃない可能性はおおいにあったが、妹に触れたせいでさくらの魂は昏倒したのだ。魂が昏倒するというのもおかしな話だが、とにかくミュゼガルズからここへ移動するきっかけになったのは確かである。
だからこそ、日本でミュゼガルズの話ができる彼女を、そして「リコ」と名乗った彼女を、彼の妹と仮定するのは間違っていないと思う。
身体と離れていても、魂にはわかっている。長い髪でみつあみをするのは、ミュゼガルズにいる肉体がそのようにされているからなのではないだろうか。兄の愛をちゃんと受け取っているのだとしたら、彼も少しは報われる。
だが、眠っているノーヴァの妹の顔は飽きるほど見たのに、あの痩せこけた姿と、笑みを浮かべて忙しなくしゃべる理子は重ならない。目元だとか鼻筋だとか、髪形だとか、そういうのは似ていると思えば似ているし、違うといえば違う。その程度のものだ。
「うーん、あの兄がそんなことするかなって思っちゃうね」
ノーヴァの所業を聞いて、理子は半信半疑のようだった。当然だ。
「それにさ、もう兄のことも遠い記憶過ぎて、すごく他人事みたい。ごめんね、最低野郎の兄をこらしめてやりたいところだけど、あっちに戻るのは嫌だなあ」
「も、戻りたく、ないんだね」
日本に馴染んだ理子は、両親のもとを離れがたく、そして今の生活も手放したくないのだと言った。彼女の両親もきっと、理子がいなくなるのは嫌だろう。
もとの理子の身体の持ち主がいたのかどうかはわからないが、どちらかの世界にしかいられないなら、選ぶしかない。
理子にはまだ選ぶ権利がある、とさくらは思う。今ならまだ、選べる、と。
だが、選ぶ余地があるかどうかは、また別の問題だった。
「兄には悪いけど、あたし、お父ちゃんとお母ちゃん大好きなんだよね。中二だけど、反抗期とかないのね。すっごい大好きなの。本当に、本当にね。これ、愛してるってやつかな?」
絶対そうだよ、とさくらは微笑んだ。
「だからね、そんなクソみたいなことやってるやつのとこ、行きたくないね。あたしのためにやったってお姉さんは言うけど、あたし、じぶんのためにいろいろやってくれたなんて思わないよ。世界が違うからね、価値観も違うのかもしれない。あたしは望んでないって一言で切り捨てることもできるけど、そうじゃなくてね、肉親のために人様を傷付けちゃえる人のところにあたしが戻ったら、それってご褒美じゃんって思うのね。そいつがやってきたこと、正しかったよってあたしが証明しちゃうことになるよ」
理子は、血の繋がりって案外もろいのかなと苦い顔をした。一緒に過ごす時間が少なければ、家族としての愛情も薄れてしまうのだろうか。
いや、許すつもりはないが、ノーヴァの愛は本物だった。笑い合えなくても、ノーヴァはいっぺんたりとも諦めず、一瞬たりとも愛さなかったことはなかっただろう。それぐらいの覚悟はあったように見える。
──おそらく、因果応報というやつだ。
「血が繋がってても、繋がってなくても、家族は家族だし、そうじゃない人たちも……いる。たぶん、じぶんと、相手が、どう思ってるか。それ、だけだと、お、思う」
さくらは手すりから離れ、理子の手を取った。
「あの人は、わ、悪いこと、した。すごく、悪いこと」
「……うん」
「だから、理子ちゃんは、あの人のところに行きたくないと思った。それ、は、因果応報っていう」
「因果応報? ……それ、学校で、習ったことあると思うよ」
「うん。悪いことしたら、じぶんに嫌なことが起きる。良いことをしたら、良いことが起きるって意味。あの人が妹を助けたいって本気で思ってたのは、わたしにも、わかった。だけど、妹が目覚めたときに、その妹が『目覚めたくなかった』と思うようなやり方をしたら、いけなかった」
だから彼の妹は、戻らない。二度と。
「理子ちゃんが本当にあの人の妹かどうかはわからない。でも、もしもあの人がお兄さんだったら、やり直す機会を与えてあげることはできる?」
「それはつまり、ミュゼガルズに行くってこと?」
「うん。行って、罪を償えと、言う気はある?」
彼女は、あちらに『戻る』とは言わない。あちらに『行く』かどうかを、たった三秒考えて答えを出した。
「そんな慈善事業みたいなこと、あたし、したくないよ」
当たり前の、ことだった。
さくらは理子の手の甲を撫でて、そして離した。
「恩知らずって、思う?」
理子が不安そうに顔を覗きこんでくる。さくらは首を横に振り、一歩下がった。
「正直、少しは思う。でも、そ、それが因果応報、だから」
不安に満ちた顔に悲しみがにじむ。
兄だって、家族だ。それでも、両親か兄かを選べと言われて、理子は両親を選びたいと思っている。保身の気持ちもあるだろう。
さくらに言わせれば、しょうがないことだと思う。だって六歳から積み上げてきた今日までのこと、全部捨てて、犯罪者の兄のところへ行きたいと誰が思うというのか。どんな聖人君子だったら、思えるのか。
「パパとママが大好きだって思う気持ち、大事にしてね」
「お姉さん、あたしがあっちに行かないと困る?」
「困らない。なんにも、困らない。大丈夫」
「きっぱり言い切られちゃうと、なんかちょっと悲しいけど」
「あっ、えっと、理子ちゃんに会えなくなるのは、悲しい。でも、パパとママが大事だと思うなら、その気持ちを大切にしたほうがいいと思うから。その気持ちが、ど、どんなに尊いか、わかるから。わたしはもう、親孝行できない、し」
理子が首をかしげ、そして次第に眉を寄せていく。夢かもしれないこの場所にいること、それからまだミュゼガルズにいると言ったことを、彼女はちゃんと繋げて考えたのだろう。
「もしかしてお姉さん、向こうの世界から、あたしに会うためにここへ来てくれたの?」
「そう。だから、きっとこれきりだよ」
「お姉さんのお母ちゃんとお父ちゃんは、どうしたの……?」
父と母を眼裏に思い描くだけで、目の奥が痛くてしょうがない。
鼻をすすり、あふれそうになる涙をまばたきで振り落とす。
だけど、あとからあとから涌き出てくるので、笑顔も作れない。
「お姉さん! お姉さん泣かないで。どうして泣くの?」
理子の手がさくらの頬に触れて、涙をぬぐってくれる。
世界はさくらに優しくないと思っていた。周りの人間みんな、滅んでしまえと思っていた。
だけど、世界がさくらに優しくないからさくらも世界に優しくしないのでは、永遠に平行線だ。
世界にはまだ、優しい人がいる。助けてくれる人がいる。今この病院に入院していられるのは、さくらを助けてくれた深森の里病院のスタッフがいたからだ。その人が、必死になって助けてくれたのでなければ、川はさくらを抱いて逃げただろう。テレビで流れるニュースのように、もしかしたら助けようとしたその人だけが死んでしまったかもしれない。それでも、人命救助を優先した人がいた。
はじめて、この世界を愛おしいと思った。
「理子ちゃん」
「うん、なあに?」
心配そうに見上げてくる彼女に、さくらは涙声で告白した。
「わたしはこの世界から逃げて、ミュゼガルズに拾われたんだ」
自殺したのだ、と言う。
理子の目が見開かれ、呆然としたささやきがもれる。
「死んじゃったの……? 本当に?」
「うん、そう」
「だけどさ、だけど、ここにいるのが夢とは限らないよ?」
「うん。でもきっとそう」
「なんで? 諦めちゃだめだよ、もしかしたら助かってるかもしれないでしょ? だってお姉さん病院にいるじゃん! だからあたしと会えたんじゃん! もしこれが夢でも、あたし探しにいってあげるから、そしたら大声で呼んであげる。お姉さん起きて! ここで一緒に生きてこうって! ね?」
さくらは嗚咽をこぼしながら、涙で濡れてしまった理子の手をさすった。
「ごめ、ごめんね……ごめんね……っ、でも、おねがい、ある、の」
「なに? なに? あたしなんでもするよ!」
「あの、あのね、わたしが……ほ、本当に、死んだのかどうか、確かめてほしい」
「お姉さん何言ってんの!? そんなことっ……だってお母ちゃんとお父ちゃんいるんでしょ? 泣いてるよ! お姉さんよりもっと泣いてるよ!?」
「わ、わっ、わかってるっ!」
泣いて、叫んで、顔はぐちゃぐちゃ。
さくらはそれでも、理子にすがった。
「ごめ、ごめん、ごめん……っ、パパとママに謝りたかっ、た……っ、わ、わた、わたしのことっ、生まれなかったことにしたいくらい、本当に申し訳ないって、思っててっ、」
「じゃあ、じぶんで謝りなよっ!」
「そうしたいけどもうできないんだ!」
きっとじゃない。たぶんじゃない。
さくらは死んでいる。死んでしまっている。
日本のさくらの肉体に、ミュゼガルズにいた誰かの魂が入っているのでなければ、あの身体は死んでいるのだ。
「因果応報、なんだよ」
たくさん迷惑をかけて、苦労をかけて、心配をかけて、その上でさくらはそれらを振り切ってじぶんを殺した。因果応報だ。謝ることで許されようなど、神は受け入れない。
謝る機会を逸した、これはさくらの罪であり、罰である。
「……パパとママのこと──愛してた。何よりも」
理子の手を握っていた指先が、すうっと透き通る。彼女の温かく柔らかな皮膚の感触を通り抜け、重みを失った。
「お姉さん……」
こちらに残ると決めた少女に、なんという重荷を背負わせたことだろう。
だが、せめて、今のさくらを知る誰かに、かつてのさくらの最期を確かめてほしかった。
理子が透けていくさくらに、彼女らしい活発さでこう言った。
「わかったよ! しょうがないからっ、確かめてきたげる! こんなとこまで来てくれて、あたしと兄のことで迷惑かけちゃったんだから、あたしお礼しなきゃいけないもんね? だから、いいよ、この病院中全部探すよ! もし見つけたらどうすればいい!?」
ノーヴァもこの少女と共にこちらの世界へ来られていたら、もしかしたら幸せな未来が待っていたかもしれない。
さくらは切なく、思った。
「がんばったねって、言って……」
言われた瞬間、お姉さんがんばったね! と叫ぶ理子に、さくらは苦笑した。
今じゃないよ、と言ったのが果たしてちゃんと届いたのか、さくらにはわからない。おそらく、この先、生涯を終えるまで。




