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3




 目が覚めようとしている。

 覚醒前のまどろみの中、さくらはがっかりした。目を開けたくないと思ったが、たぶん少しすればまたアラームが鳴るだろう。

 繰り返される十月七日から、抜け出せない。まるで苦痛のただなかにいたあの頃のじぶんの人生のよう。でも今回は、何度死んでもなかったことにはできない。


 しばらく目をつぶったままでいたさくらは、一向に鳴らないアラームを気にし始めた。

 アラームをセットしていないわけはないから、起きたのが早かったのかもしれない。だが、待っているだけでは次第に焦燥が高まっていって、とうとう我慢できずに目を開けた。


 すると、さくらの視界には蛍光灯がぶらさがっていた。そよりとカーテンがひるがえり、ほのかに温かい風が腕に当たる。布団から出ていた腕はパジャマの袖を剥かれ、針が刺さっていた。点滴だ。


 のそりと起き上がり、見覚えのないブラウン管と小さな冷蔵庫、小テーブルやパイプ椅子が小部屋の隅に置いてあるのを見つけた。

 大きな取手のついたスライドドアの向こうで、がらがらとローラーのついた何かを転がしている音がした。足音も騒々しく、廊下は走らないでくださいと声を張り上げているのが聞こえた。


 ──病院、だ……。


 まだ夢の中にいるような気分でベッドヘッドを振り返り、患者名の札を読んだ。さくらの名前が書いてある。デジタル時計がくっついていて、十月八日午後一時と表示されていた。

 十月七日は終わっていた。


 立ち上がる気になれず、座ったままレースのカーテン越しに窓の外を見る。木しか見えなかったが、空は雲ひとつない美しい秋晴れだった。


「……生きてる」






 さくらの目覚めを知り、両親が病室にやってきたとき、ケーキやらお菓子やらを大量に買い込んできていて驚いた。しかも開口一番、今すぐに病院は辞めて好きなことをして生きなさいと父が言った。


「おまえが死なずに済むなら、それでいい」


 と核心を突いた。けれどもさくらの返答を待たず、あちこちの店で買ってきたおやつの説明に入る。母は肩をすくめて苦笑していたがそれを止めず、タオルやら何やらをベッドの横の戸棚にしまい始めた。どうやら一週間くらい入院することになっているらしい。


 一通りおやつの説明が済むと、気になっていただろうからと病院に来るまでの経緯を簡単に教えてくれた。


「川でおばあさんに会っただろう」

「あ、うん……」

「そのおばあさんに見覚えなかったか?」


 背筋の曲がっていない、背の高いおばあさんだったことは覚えている。しかし、顔まではよく見なかった。見たとしても他のおばあさんとの区別がつかないだろう。

 だが父は首をかしげ、こんなことを言った。


「おまえの勤務してた病棟の患者さんだったみたいだぞ」

「……えっ」


 さくらの所属する病棟には約五十人の患者がいた。四、五人ほどの相部屋が食堂を挟んで五部屋ずつあり、誰がどの部屋を割り当てられているかを覚えなければならなかった。食堂でも全員の席が決まっているから、車椅子で自走もままならない患者たちを毎回定位置まで連れていかなくてはいけなかった。

 だから、顔と名前は全員ぶん覚えているはずだった。少なくとも、現役だった三年前までは。


「たぶん抜け出してうろついてたところに、さくらがいたんだなあ。それで、そのおばあさんを探しに来たスタッフさんたちがおまえを助けてくれたんだよ」


 なんという皮肉だろう。

 いや、悪く考えるのはよそう。これは良い意味での因果応報なのかもしれない。


 父は小さなメモ帳をテーブルに置いた。


「お礼の手紙を書いておきなさい。あとでパパが届けてくるから」


 そう言って、父と母は夕方頃に帰っていった。

 メモ帳を取り上げてみると、手紙を書くには小さすぎて、ありがとうございましたご迷惑おかけしましたくらいの文章しか書けなかった。

 たぶん、父なりの配慮だと思った。





 翌日、母が朝からやってきて、夕方にまた父と一緒に来ると言い置いていった。今から仕事に行くらしい。

 さくらは味の薄い朝食を食べ、検温を受け、やることがなくなって窓の外を眺め下ろした。ちなみにこの窓は、少しの隙間しか開けられないようになっている。


 外の通りを車が何台も通っていく。庭なんて立派なものはないが、木だけは鬱蒼と生えていた。


 昼食の時間を過ぎるとさすがに外を見るのに飽きて、のんびりと惰眠を貪った。今の今まで休みなく働いていたような心地がして、すぐに寝入った。徹夜して仕事をしている人たちには怒られそうな話だが、本当に疲れていたんだなと思った。身体が、ではない。精神が。


 昼寝から覚め、両親がやってくると一緒におやつを食べた。暇潰しの本やゲームを持ってきてもらったので、両親が帰ったあとも暇をすることはなくなった。学生のときにやっていたモンスター育成ゲームを、夢中になってやる。朝起きて朝食を食べたあとも、ずっとゲームをやっていた。


 入院して三日目のとき、充電の切れたゲームを戸棚にしまいこみ、さくらは病室を出た。

 たすたすと乾いた音を立てながら廊下をうろうろして、一階にある売店に寄ってみる。おにぎりとパン、飲み物、お菓子、マスク、爪切り、コンビニのようにいろいろ売っている。お金を持っていないので冷やかすだけ冷やかして、またぽてぽてと歩き出した。


 外来患者が多いのか、ロビーは賑わっていた。というより咳き込んでいる人が多かった。

 半分くらいの人がマスクをしていて、小さな子どももいる。館内図を見てみると、小児科があるようだった。そして他に目についたのは、心療内科と精神科。さくらにはカウンセリングを受ける予定はないが、両親は受ける準備くらいはしているかもしれない。


 興味をひかれて、精神科と心療内科のある別棟へ足を向ける。パジャマを着て点滴をしていると、誰かに呼び止められたりしないので楽だった。




 カウンセリング待ちと思われる外来患者たちが、半透明なついたての奥で待っている。そんなに数は多くない。ほとんどの人が付き添い人と一緒だった。

 ふと、待つのに飽きたような風情で待合室から出てくる女の子がいた。中学生くらいだろうか。付き添いなのか患者なのかはわからなかったが、暇そうに手提げ鞄をぷらぷら揺らして廊下を歩き出す。視線は窓の外の駐車場だ。ここの駐車場は深森の里病院と違って舗装され、とまっている車も多い。救急外来もあるようだから、わりと大きな病院なのだろう。


 彼女は歌を口ずさむように唇をもにょもにょさせて、少し気分が晴れたみたいに軽くステップを踏んだ。細い身体だった。編んだ長い髪が背中で何度も跳ねる。


「あ」


 少女が立ち止まり、さくらを見上げた。点滴が珍しいのか、パジャマ姿の人間がいるのをおかしく思ったのか、人懐こく寄ってくる。


「お姉さんも待合室で待つの?」


 歳のわりには幼げな口調で、少女が問う。見ず知らずの人に話しかけられるコミュニケーション能力の高さにおののいていると、彼女はきょとんとして首をかしげた。


「ちがった? ごめんなさい、あたしと一緒かと思って」

「いえ、だ、大丈夫。ちがうけど……」


 いろいろ順番のおかしい返答だったが気にした様子もなく、少女は勝手にしゃべりだす。


「ねえねえ、病院ってすごく待たされるよね。あたしね、毎月来てるんだけどいつも二時間以上待たされるのね。でも友達が言うにはまだいいほうだってね、言うの」

「ふうん、そ、そうなんだ」

「お姉さん座りたい? あっち、あんまり座るとこないよ」


 さくらが患者然とした格好をしているせいか唐突に気遣われ、戸惑いながら大丈夫と答えた。話があっちこっちに飛んで、返事をする間もないほどだ。こんなに活発な子がカウンセリングを受けに来たのかといぶかしむと、彼女は自らわけを話した。彼女としては精神に異常をきたしているつもりはいっさいないらしい。


「六歳のときにね、バスの横転事故に巻き込まれたのね。そのときから前の記憶がさっぱりなくなっちゃったってワケで、ここに通ってるんだ。でもべつになくなったわけじゃないとあたしは思うのね」


 なんで、と訊ねると「だって六歳までの記憶がなくたってたいした問題じゃないでしょ?」と答えになっていないことを言った。


「あたしね、事故のあとに頭がおかしくなったと思われたんだよね。あれだよ、奇声をあげるとかそういうんじゃないよ。お話がうまくできなくなってね、書き取りとかもうさっぱりだめだったね」

「そ、それは、記憶喪失でってこと?」

「あたしは違うと思ってるけど、まあどっちでもいいよ。とにかく記憶がおかしくなってることは間違いなかった。お母ちゃんが言うには変なことをしゃべってたってさ」

「変なこと」


 あたしもわかんない、と彼女は笑う。母も聞き取れなかったというその言葉をやがて彼女自身が忘れていき、小学一年生としての勉強についていけるようになったらしい。だが相変わらず六歳までの記憶はなく、ごはんがちゃんと食べられるのってうれしいなーなんてのんきなことを言っていた。


「お母ちゃんはね、今までだってごはんバクバク食べてたでしょって笑ったんだけどね。おばあちゃんが迷信とか祟りとか信じる人でね、実は事故に巻き込まれる前にあたし、お墓で転んだのね。ほんとは足を切り落として置いてこないといけないって言われてたんだけどそうしなかったから、祟られたんだって騒いでもう大変。記憶がないのもごはん食べれるのがうれしいのも、ご先祖さまが怒ってとりついてるからだって」

「お墓で転ぶなって、わ、わ、わたしも言われたことある、よ」

「ほんと? こわいよね、あれ。でもべつにご先祖さまがとりついたわけじゃないと思うのね。確かに昔はごはんいっぱい食べられなかったらしいし、他の幽霊がとりついたらその幽霊の記憶とあたしの記憶がごっちゃになるかもしれないけどさ?」


 少女のおばあさんは彼女を寺に連れていったりなんだりと苦労したようだが成果は現れず、慰めにカウンセリングを受けるようになったらしい。それで記憶が戻れば御の字、そうでなくともバスの横転事故は凄惨なものだったようなのでフラッシュバックを起こさせないために受けて悪いことはない。たまに病院で他の被害者に会うこともあるという。


 そこまで赤裸々に話し、少女はけらけらと笑った。事故の記憶もないせいか彼女にとってはネタでしかないようだ。

 だがさくらが反応に困っていると、話の尽きた彼女がじいっとさくらを見つめた。何か言ってやらなくてはと思っていたら、少女のほうが先に諦めた。


「じゃあね、お姉さん。暇潰しに付き合ってくれてありがとね」


 名前を呼ばれた少女が待合室の奥の部屋へ駆けていく。

 かける言葉もなく立ち尽くしていたさくらは、いつもなら申し訳ない気分になるはずなのにそうはなっていないじぶんに気が付いた。


 彼女はさくらの言葉を待っていた。それだけがわかっていた。


 さくらはその場を離れがたく、しばしうじうじしていた。だが看護師が廊下の角を曲がってこちらにやってきたので、慌てて歩き出した。


 病室に戻って昼食を食べている間も、もやもやとした焦りのようなものが胸に渦巻いていた。






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