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 けたたましいベルが鳴っている。

 何時に目覚ましをセットしたんだっけ、と目をつぶったまま考えた。ほぼ無意識に布団から手を伸ばし、アラームを止めようとしたさくらは、ぎくりとして動くのをやめた。


 ──なんで、アラームが……。


 吐き気をもよおすほど血の気が引き、ばっと飛び起きる。めまいがして、視界が薄暗かったが、無我夢中でスマホを引き寄せた。就寝前から差しっぱなしだった充電器のコードがベッドの端に引っ掛かり、プラグが外れた。

 午前六時ちょうどを示す液晶画面を呆然と見下ろし、おそるおそる指を這わせる。


「平成**年、十月、七日……」


 心臓が嫌な音を立てた。

 夢でなければ、あるいはスマホの故障でなければ、この日は──


「……わたしが死んだ日、だ」


 カーテンの隙間に手を入れ、ベッド脇の窓を開ける。肌寒い風がすうっと首もとを撫で、部屋の中を駆け巡った。あまりにも慣れ親しんだ、埃っぽく苦い匂いがする。


 さらりさらりとそよぐカーテンに頬を打たれながら、さくらはまた画面に目を落とした。

 階下から、さくらを呼ぶ母の声がする。

 生前であれば、重怠い身体に鞭打って朝ご飯を食べに行っただろう。少なくとも運命のあの日、いつも通りに着替えて朝食を食べた。それから徒歩で駅へ向かい、電車に乗ったのだ。


 何から何までわけのわからない状況だったが、恐怖だけはしっかりと感じる。

 死んだあとのことがすべて夢だったとは思わない。そんなことじゃ恐怖は感じない。さくらが何よりも恐ろしいのは、あの日死にきれなかった可能性があるということだ。まだこの世界に生きているかと思うと、一刻も早くもう一度死にに行かなければと焦る。


 さくらはついさっきまで忘れていた「いつもの朝のしたく」をこなして、階下へ降りた。死に場所はちゃんと覚えている。






 朝の食卓に並んだのはスクランブルエッグを乗せたトーストだった。母はさくらの顔を見るなり、血色が悪いねと言って温かい紅茶をいれてくれた。父は「今日は風が強いからマフラーを巻いていったほうがいいよ」と言って、玄関にあるクローゼットをあさりはじめた。さくらが寒い思いをしないようにマフラーを探してくれるつもりなのだ。

 これから死ぬのに、という思いが先にきて、切なくなる。


「いってらっしゃい、気を付けてね」

「……うん」

「お弁当はちゃんと持ったか?」

「うん」


 いつもの朝。

 いつもの風景。

 いつもの母。

 いつもの父。

 変わらぬ、優しさと愛情。

 仕事を始めてから日に日に元気をなくしていくさくらを気遣い、おいしいものを用意して、ことあるごとに声をかける。おはよう、顔色が悪いね、寒い? おかえり、おなかすいた? ロールケーキがあるよ、さくらの好きなドラマを録画しておいたからね、お風呂に入っておいで、あったかそうなパジャマ買ってきたよ、布団寒くない? 毛布出してこようか? 明日の朝ご飯はホットケーキだよ、おやすみ。


 鼻をすすりながら、さくらは涙を飲み込んだ。





 駅まで徒歩五分。隣駅で降りて、勤務先へはまた歩いて十五分。さくらの働く自然豊かな深森の里病院は、小さな山の麓に建っている。ただ、そこは風邪をひいたときに受診するような種類の病院ではなく、精神病棟を併設した、半ば介護施設のようなものだった。各病棟の出入り口には鍵がかけられており、入院患者はおろか患者の親族やスタッフでさえ自由に行き来することはできない。患者の誰かが一人でもいなくなれば人手を集めて捜索隊を組まなくてはならないほど、人の出入りには気を使う。


 さくらはこの病院で、入院しているお年寄りのお世話をする仕事をしていた。いわゆる介護職員だ。日常生活がままならないレベルの認知症を煩い、かつ高血圧や他の病気を併発している高齢者しかいない病棟だったので、患者との会話が噛み合ったことはほとんどない。時々、電気の回路が繋がったみたいに「迷惑かけてごめんねぇ、今度息子に何か買ってこさせるからね」と明瞭な口調で話すくらいだ。しかも毎回だから次の瞬間にはそう言ったことも忘れているのだろう。少なくとも、何度名乗ってもさくらをさくらと認識できる人は一人もいなかった。


 だが食事の介助やおむつの交換、廊下にぶちまけられた大便を片付けるのも、さくらにとっては苦ではなかった。患者の半数以上が寝たきりで、ベッドから車椅子、車椅子からベッドへと移動させるのにはかなり骨が折れたし、腰を痛めて数日歩けなくなったこともある。それでも死ぬほどの苦はなかった。


 さくらは懐かしささえ感じる、深森の里病院の外観を遠目に眺めた。

 クリーム色で、四階建てで、二棟ある。

 駐車場がやたら広くて、コンクリートで舗装されていないせいか田舎の病院という感じがすごくする。あれが全部埋まることは、絶対ないと思っていた。


 三年経ったはずの、地球の、日本の、とある片田舎の、平成**年十月七日。

 あの日、駐車場に車が何台とまっていたかは覚えていない。駅から病院までの十五分の間に、どんな人とすれ違ったのかも、記憶にない。

 けれども、意識的に思い出さないようにしていたこの病院での日々が、今、黒ずんだコールタールのようにねっとりとよみがえってきた。決して鮮やかさはない。昨日のことのようには思わない。

 苦しくて、痛かったという感覚が、あの日よりも重たくさくらの胸に沈みこむ。これはたぶん、一生消えない杭だ。


 さくらは道路を挟んだ向かい側にある「かつてじぶんを苛んだ忌まわしき場所」に背を向けた。病院の近くには山から流れ落ちてくる川があり、ときたま雨で増水し氾濫することがあった。道路に飛び出すよりも、薬を大量に飲むよりも、病院の屋上から飛び降りるよりも、あのとききっと一番死にやすかった。


 二度目の十月七日、さくらは三年前のじぶんを追いかけるようにして川に入った。




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