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プリンシアの病室は、西陽の差す個室だった。
疲れきった血色の悪い顔が、ベッドに埋もれた宝物を神経質にじっと見つめている。まるで、目を離した瞬間に玉が割れてしまうとでもいうように。
ジンは表情を険しくさせ、院長の退席を願った。
「では、何かありましたら院長室へいらしてください」
うなずいて返し、やわらかな足音が遠ざかるのを聞きながら壁をノックする。最初から扉が開け放たれていたのは、おそらくわざとだろう。
顔色の悪いジンの部下が、鋭い目付きでこちらを振り返った。
「ジン」
彼は少しだけ頬のこわばりを解き、すばやく立ち上がる。歓迎するように近づいてきて、視線を伏せた。対峙する相手の目を見ないその疲労した様子に、さすがのジンも笑みが作れない。
「心中察する。おまえ、怪我は?」
「たいしたことはありません」
かすれた声でリンナが答える。火事の中を、プリンシアと掃除婦のために駆け抜けたというから、喉が焼けてしまったのだろう。それでも命に別状はなく、騎士としても問題ないと聞いて、ジンは心の底から安堵した。
正直に言って、ジンはリンナがヘマをするとは微塵も思っていなかった。こんなによくできた部下は、たぶんこの先一生現れないだろう。
だが本人は、きっと、うまくやったとは思っていない。
「よくプリンシアを助け出してくれた。陛下がこれをおまえに、と」
携えてきた親書を渡すと、リンナは一呼吸の間に読み終え、丁寧に畳んだ。
「プリンシア・サクラの周囲に厳重な警備を敷かなかったことを、陛下は深く後悔なさっています。他の誰がプリンシアを信じなくとも、王である者だけは彼女を信じ、公平に扱わなければならないと考えていたはずだったと。けれど今回の件、王がプリンシアを軽んじていたことの証明になってしまった」
「憤っているか?」
「なんの話です」
「おまえの話だよ、リンナ」
リンナは鼻の付け根にしわを寄せ、いつものような渋面をつくった。
「国にとって重大な役割を持つプリンシアの護衛を、民間任せにしたことをどう思っている? 今回の件、役目を終えたプリンシアに用はないと言っているようなものだろう。過去、ミュゼガルズに逗留したプリンシアがいなかったことや、ここ数年の彼女のふるまいが周囲にそうさせた。仕方なかったと言うのは簡単だが、おまえはそういう王宮の意向に対して憤っているか、と訊いたんだよ。リンナ」
「いいえ」
「嘘はいい」
「王は王らしく心を砕いておられました。宮廷の皆様の判断も、批難するつもりはありません。彼らは国を導いていく方々です、いくらプリンシア相手といえど、親が子にするようにはいかない。どんなわがままも飲み込めるほど、もはやミュゼガルズにおいてプリンシアという存在は奇跡ではない。民衆とて、厭えば王さえ追い落とすのです。それと同じことです、プリンシアすら替えが利くものと思っている。ですから、あれ以上はなかったと」
自制の利いた答えを返して、リンナはベッドに沈む娘に視線を向ける。
彼女は自己主張のままならない、いっそ泣きわめく赤ん坊よりもタチの悪い娘だった。
それでもジンは彼女を気の毒に思う。真っ白のリネンに包まれた頬は土気色で、二度と目覚めないのではないかというほど生気がない。放っておいたら、そのうちに千年を生きる樹木のようになってしまいそうだ。
「プリンシアのご容態は?」
ジンが簡潔に尋ねると、リンナはかすかに首を横に振った。
「あれから一度も目覚めません。医師の見解では、特筆すべき怪我もなく、とても火事に巻き込まれたとは思えないほどだと」
つまり、目を覚まさない理由がわからないようだ。彼女の顔色からして怪我がないようには見えないが、医師が外傷はないというのだからそれはそうなのだろう。
問題は、おそらく別のところにある。
「リンナ。詳しく話せ、屋敷で何があった」
ジンの優秀な部下は、うまく説明できないというような顔をして、指先をもてあそぶ。落ち着きのない子どもがするみたいなそのしぐさに、彼の焦燥が現れていた。
「わかる範囲でいい。おまえが思ったこと、考えたこと、感じたこと、そして見たものをそのまま話せ」
「……ジンは、私が城下で人を雇い、プリンシアの様子を伺わせていたことをご存知でしょう」
口重く、彼は話し出す。
「プリンシアが孤児院を出たあとも、買収したマザーからはいつもと変わらない定期報告を聞かされていたようです。プリンシアがいなくなったことを、彼女たちは私に隠そうとした」
「それはマザーの判断か、侍女の指示か……どちらだと思う」
「おそらく侍女でしょう。連れ戻せるようなら、わざわざ王へ報告しなくても済む。じぶんの失態を隠せますから」
「だがうまくはいかなかった、というわけだな。プリンシアは戻らなかった。おまえは彼女の意思ではないかもしれないと思っているんだろう? 陛下が感心しておられたよ、おまえは何に対しても公平でいられる」
「……人間らしくないと言われることもありますが」
ジンは苦笑して、彼の背中を叩いてやった。
昔からやっかみを受けやすい彼は、人に悪く言われることに慣れすぎている。そのくせ、人が誰かを悪く言うところに出くわすと、凍て風のごとく冷たい言葉と眼差しで厳しい態度をとるのだから、外面に似合わず愛情深い男なのだろう。
「それで? プリンシアの行き先を探るのに手間取ったのか」
「ええ。本邸のほうにはいらっしゃらなかったようです」
「だからおまえがじぶんで街に降りようとしたんだな」
「間に合いませんでしたが……」
プリンシアの横顔を眺めていたリンナが、ジンのほうを見る。
「街で探り屋の報告を聞いたときにはもう、屋敷は白煙に包まれていました。プリンシアが中にいるのでなければ、入るのを躊躇っていたでしょう」
そんなことはない、とジンは思った。
中に誰かが取り残されていると知った彼は、よほどの手遅れでなければ危険をかえりみずに飛び込んでいっただろう。
そしてプリンシアがいるとわかっているならなおさら、手遅れだとしても彼は助けに行ったはずだ。リンナ・ローウェルとはそういう男だとジンは知っている。不器用で愚直で、ときに冷徹で、それから、人よりずっと愛情深い。
「ノーヴァ殿がプリンシアと共に逃げ出していた可能性もあっただろうに。おまえはまったく無茶をする」
「あのときは、誰がその屋敷にいるかまでは把握する余裕がありませんでしたから。……あの方がいないならいないで、それでもよかった」
「……屋敷に火を放った賊は? 見たか?」
「いいえ、私は見ていません。これは今朝あらためて聞いた話ですが、探り屋は中庭から数台の馬車が出ていくのを見たそうです。煙があがったのはそのあとだと」
「それは掃除婦を乗せたものか?」
「あるいは金品を盗んだ賊が乗っていたものでしょう」
「そうだな。プリンシアのお命を狙っていた可能性は?」
「彼らが直接手を下すのを恐れた場合、炎の中へ置き去りにした可能性はあると思いますが……」
ジンは腕を組み、廊下ではちあわせたノーヴァの姿を思い出す。
妹を救い出すのに夢中で、プリンシアは後回しにされたのだろうか。実際の火事の様子を見ていないジンには想像もつかないが、誰にも助けてもらえずに炎に囲まれて死を覚悟するしかなかったプリンシアに、痛ましい思いがわきあがる。
「ノーヴァ殿は王からプリンシアを預かっているという自覚がなかったのか」
刺のある声色でつぶやくと、リンナは否定しなかった。批難はしないが、庇うつもりはもっとないという態度だった。
「まあ彼のことはこの際どうでもいい。罪過の調査と決定は自警団の領分だからな、俺たちが余計な首を突っ込むと方々から文句が飛んでくる」
「文句など言われる筋合いはありませんよ、ジン。今回の件に関しては、私たちの領分でもあるでしょう」
貴人の警護を主な任務とする近衛騎士団としては、護衛対象が事件に巻き込まれたとしても加害者を断罪することはできない。じぶんたちにできるのは、せいぜい証拠の提出くらいだろう。直接加害者を探したり捕り物に参加したりするのは、基本的にはしないことになっている。
この領分を軽率に犯すと、自警団側から即行で注意勧告されるのだ。
だが、もちろん例外は存在する。
リンナは自警団任せにするつもりがないらしいので、たぶんジンが自警団の団長あたりに頭を下げに行かないとならないかもしれない。
ま、それくらいはしてやるか、という気分で、リンナにうなずいてみせる。
「関わりたいなら好きにしろ。ただし無茶はするなよ、容赦はしなくてもいいがな。ノーヴァ殿や商家組合の肥えた要人どもが共犯だったら俺が表に出てやる」
さらりと告げた証拠のない憶測に、リンナは特に反応を示さず、ただジンの瞳を見返した。
「ついでに自警団の団長も、引っ張り出してやるかな」
あそこの長は強かだぞ、と笑ってみせると、リンナも少し頬をゆるめる。
「それでだ、リンナ。今後のことだ」
「はい」
「プリンシアをどうする」
プリンシアを一番近くで見守ってきた近衛騎士といえど、個人の一存で祈りの姫の行く先を決めていいわけはない。それでもジンが訊ねたのは、王のほうに『リンナ・ローウェルに一任する』つもりがあるからだ。
リンナはしばし黙ったあと、ひとりごとのようにこう言った。
「私はまず、プリンシアをお探ししなければならないかもしれません」
「うん? なんだって?」
さすがのリンナも乱心したのか、と一瞬疑いそうになったが、この状況だからこそ彼に限ってそれはありえない。ひとまず無神経な言葉を吐かないように唾を飲み込んだ。それからゆっくり息を吸って、止める。
(えーと……とりあえず、真意を確かめないことにはな……)
「プリンシアの、何を探すと?」
結局、迷いに迷ってそんなことを訊ね返す。気が利かない。
しかし少なくともプリンシアと呼ばれている娘は、彼とジンの目の前でベッドに横たわっている。仮に彼女が替え玉だとか他人の空似だとか言わない限りは、探しに行くものなどないはずだった。
だがリンナは言い間違いを謝らない。
ということはつまり、言い間違いではない。
「屋敷でプリンシアを見つけたとき、彼女に意識はありませんでした」
「ああ、それで」
「けれどあの方の声が聞こえていたのです。屋敷を出るまでずっと、傍らで私を止めようとなさっていました」
ジンは眉を寄せた。
理解が追いつかない。
話の腰を折るよりもいったん最後まで話を聞いてみるべきだろうと思って、しゃべりたくなる唇を噛んで止める。
「あれがなんだったのか、私にはわからない。ですがもしかしたら、魂魄のようなものだったのではないかと思うのです」
「まさか……彼女の?」
「ええ。あるいはあの方をお選びになった神そのものか、それに似たるものか……。ですが今はもう声が聞こえない。確かめようがありません」
真剣な眼差しで、抑揚のない声が神秘を語っている。
ありえない、と断じるには、そもそも異世界などないと証明する必要があるだろうと思った。異世界との道が開けるのなら、人の肉体から魂が抜け出てもなんらおかしくはない。祈りで世界が救えるなら、神が降りてきてもありえなくはないのだ!
「信じなくともかまいません。どちらにせよ、私はあの方の目覚めを待つことしかできないのですから」
「いや、おまえの話を信じないわけではないが」
「炎に巻かれて幻聴を聞いた可能性もあります。私ですら信じがたく思っているのですから、他に証人でもいない限りは陛下への報告も控えさせていただきます」
「おまえが助けたという掃除婦は? 何か言っていなかったのか?」
「あの子どもは完全に気を失っていましたから。仮に証言があったとしても、人の魂を呼び戻す方法など誰も知らない。祈りで人を救える貴き御子は、もうこの聖都にいらっしゃらないからです。そうでしょう?」
突拍子もないことを言っている自覚のあるらしいリンナが、静かに話を畳む。
ジンは眉間のしわを解いて、深く吐息した。
話の信憑性はともかく、プリンシアが目覚めないなら目覚めないで今後の方針を決めないといけない。
「ならばどうする。王宮で眠る至宝がそうであるように、いつ終わるか知れないプリンシアの眠りを傍で見守るか? 目覚めを祈ってくださる方はもういないと言う、おまえ自身が?」
二度と目覚めない可能性を匂わせても、リンナは顔色ひとつ変えない。
そうだ、彼は、そういう人物だ。
「祈りなどいりません。彼女が目覚めたいと思うまで、私が傍で守るだけです」
相変わらずぶっきらぼうで事務的な口調だったが、その言葉は彼の献身だ。
ジンは、何があっても揺るがない彼の芯の強さに、悔しくなるほど安心した。やはり彼はこうでなくては。
「わかった。ならしばらく俺もこの治療院に滞在するかな。どうせ城に戻っても牢屋の中をうろうろすることしかできないからな。手配は俺がしておく」
プリンシアのことは頼むぞ、と彼の肩を強めに叩くと、部下らしくなく嫌そうな顔をして「了解しました」とそっけなく答える。これぞリンナ・ローウェル、という反応の薄さに、ジンは笑った。
「さて、じゃあひとまず陛下へ事の次第をお伝えしなくてはいけないな。書簡を出しに行ってくる」
「はい。よろしくお願いします」
病室から辞するとき、ジンは扉を閉めずに部下の見送りを受けた。外の物音や気配が、眠っているプリンシアの気を引くことがあるかもしれないと考えたのであろうリンナの思考が切なくてならない。なんだかんだ言いつつ地味に細やかな配慮をしているはずの彼こそが一番プリンシアに怖がられているのが哀れなような、おかしいような。ちゃんと報われる日が来るといいなとジンは切実な思いに駆られた。




