020頁
1
ギディオンはその報告を受けたとき、眩暈を感じてよろめいた。うっかり手をついた机から書類の山をなぎ倒してしまい、いそいそと拾ううちにさらに血の気が引いていった。
書類拾いを代わりにやろうとする面々を片手で制し、立ち上がる気力もなく紙を握りしめたまましばらくの間しゃがみこむ。
事件が起きてすぐに報告があがってくるのはとても良い仕組みだと思う。しかしだ、しかし、今回ばかりは事後報告でまったくかまわないから事件が解決したあとに教えてほしかった。王を名乗っているくせに、そっちでうまいことなんとかしてくれとつい言いそうになって、ごく自然に丸投げしようとしたじぶんに戦慄した。
いかんいかん、と思考を切り替え、ギディオンは立ち上がる。眩暈はもうない。
「屋敷の火事については自警団のほうが対処の仕方を知っているだろうから、支部長には必要な物資があればこちらで用意すると伝えてくれ。区役所で対応可能ならそちらから物資を受けとれるように手配させる」
報告をあげてくれた自警団の団員が深く頭を下げる。彼の斜めうしろに控えていた王宮の書官も会釈し、街区に置いた国の要所、区役所へと連絡を入れるために席を外した。
「それから、負傷者は国立の治療院に運んだんだな? ──医師の手配は?」
視線を巡らせると、すでに使者の用意がある、と答えがある。では治療院に召集せよと命じてから、ギディオンは事の真相を知っているであろう者たちのことをどうするか考えた。
「ひとまず屋敷にいた者に事情を聞かねばならぬ。掃除婦たちの怪我はひどいのか」
「火傷はさほどではありません。どちらかというと打撲傷や擦り傷のほうが目立つかと。ノーヴァ殿の話では賊が入ったとのことですので、重傷者がいなかったのは不幸中の幸いでしょう」
「そうだな、取り返しのつかないことになるところだった。今回の件は私の怠慢だ。賊の足取りは?」
自警団の団員は首を横に振り、痛ましげに眉を寄せた。
「いえ。あの森を抜けて地方に逃げられたといたしますと、追跡のための部隊を編成しなければなりません」
「地方の部族集落へは私が使者を立てる。人相書きを至急仕立てて書官へ渡してくれ」
「御意に従います。プリンシアについてはいかがなさいますか。自警団の屯所から護衛を向かわせることも可能ですが」
近衛騎士の小隊を向かわせる、と短く伝え、ギディオンは臣下たちに王の意思を託して誰より先に執務室を出た。
向かう先は、宮廷の片隅に追いやられた拘禁牢だ。
「無理にでも帰郷させよと王に奏上してくる者が現れた」
ギディオンは牢の前に着くなりそう言って疲れた顔をした。
牢の中で悠々と過ごしていたジンは苦笑し、まずベッドから腰をあげる。格子で隔てられた王との距離を詰め、事の次第を尋ねた。
「プリンシアのことで?」
「そうだ……。昨夜、プリンシアを預けていた屋敷が賊に襲われた。私の甘さが招いたことだと言っても聞く耳を持たない。これ以上ミュゼガルズを掻き回されるのは耐えられぬと少なくない数の賛同者を集めてな、署名入りで嘆願書が提出されたのだ」
おそらく前々から用意はしてあったのだろう。機会をうかがっていたところに、今回の騒動を好機とみたのだ。
プリンシア・サクラの軽率な行動のせいで、今後現れるであろう次代のプリンシアたちの印象まで悪くするのはまずい。宮廷内だけならまだしも、世間のプリンシアに対する悪感情が広がれば面倒なことになる。とは、前々から散々、本当に散々、言われていたことだ。
王にできることは、たぶんもう、限られている。
「もはや庇いきれん」
王は手の中に隠していた、鈍い銀色の鍵をジンの目にさらした。
「ジン。西端の街区へ行け。プリンシアが治療院で医師の診察を受けている、そこへ行ってこう言え」
南京錠が、音を立てて落ちる。
「故郷へ逃げろ」
ジンは牢を出た。表向きには拘禁牢の住人だったが、王の密命を受けて影のように王宮から抜け出し、そして影のように聖都を駆け抜けた。
プリンシアを預かると名乗りをあげたノーヴァという商人が、狙われたのか。あるいはプリンシアが狙われたのか。はたまた金銀財宝でも盗みに来ただけだったのか。西の森を背にして建つ屋敷で、事件は起きた。王は自ら警備体制の不備を認めたが、それをものともせず「またあいつか!」と思われてしまうプリンシア・サクラに、ジンはもはや同情を通り越して呆れてしまう。
彼女の故郷にはいったいなにがあるのだろうか。生まれてから二十余年、積み重ねたものや家族や友人がいたはずなのに、帰りたくないと思うほどのなにがあるというのだろう。
このミュゼガルズで、彼女と親しくしている者を見たことがない。それでも彼女を引き留められるものがこの世界にあるのか、とジンは不思議でしょうがなかった。上っ面だけの優しさに気付けないくらい能天気な人物ならまだわかるのだ。しかし彼女は四六時中考え事をしているような娘で、どんな些細な言葉にも敏感に反応を示す。軽くたしなめるだけで涙ぐむのだから、口調や声色に含まれた刺に気付かないはずがない。
賊に襲われ、火事に巻き込まれた今、さすがのプリンシアも帰りたいと思うようになっただろうか。
己に課された任務をどのように遂行しようか考え、ジンは馬上でため息をついた。
どうしてだか、なにがあろうと彼女は帰ろうとは言わない気がした。故郷へ逃げようなんて、それこそ絶対に。
極秘に治療院を訪れたジンは、ひとまず院の責任者と面会した。王から預かった御名御璽のある命令書をちらつかせ、現状の把握に努める。
「商人殿に怪我はありませんでしたが、妹君を心配なさって昨夜から一睡もせずにずっと側についておられるようですよ。掃除婦たちはこちらでお預かりして治療しておりますが、お会いに?」
「ええ、では少し」
かくしゃくとしてはいるものの、かなり老齢の院長が先頭に立って歩く。
王宮から休みなく馬を飛ばしてきたが昼もだいぶ過ぎた。気温の低い時期独特の、日差しが斜めから差し込むような黄昏時に似た空気が漂っている。人の声もほとんど聞こえず、呼吸の仕方を意識してしまうくらい静けさに包まれていた。
「こちらです」
院長が白髪の毛先を頬から払いのけながら、振り向く。
普段は毛布や簡易ベッドなどを置いているが、災害時には避難所として使う広間に案内されていた。
扉がなく、おもりをつけた布が垂れ下がっている。そこを小さくめくり、院長が中を覗くように言った。
ジンはその配慮を怪訝に思いつつ、言われた通りに内部へ視線を走らせ、
「掃除婦というから成人女性かと……」
眉を寄せて布から顔を離す。
思ったよりも幼い少女たちが十五人、床に敷いたマットの上に寝かされていた。まるで狙いすましたかのように、被害に遭った全員がほぼ同じ年頃のように見えた。
「十二、三歳くらいの子ばかりだ。良家の子女の行儀見習いというわけではないでしょう? 言っては悪いがノーヴァ家は一代で成り上がった商家です。弟子入りするならまだしも、幼い少女が習うものなどない。あるとしたら、慈善事業の一環ですか」
「ええ。下は十歳、上は十六歳まで、十五人全員が孤児です。火事のあった屋敷は異国の品を飾るために建てたそうで、客人の相手は難しくとも、掃除婦としてならある程度幼くともできますでしょう。プリンシアがいらっしゃるにあたって人手を増やしたところだったと商人殿はおっしゃってましたよ」
「そうですか。本宅のほうには……」
ジンが言いさして止める。廊下の奥から足音がしていた。
しばらく耳を澄ますと、角から現れたのは話にのぼっていたノーヴァの若旦那だった。若いはずなのに表情は重暗く、きつい眼差しをしている。顔色も悪い。賊に襲われ、屋敷を焼かれれば当たり前かもしれない。
彼はジンと院長に気が付くと、頬をゆるめた。ゆるめてみせた、といったほうが正しいだろうか。疲れているときの空元気のような笑みを浮かべて「こんにちは」と挨拶する。
「あの、院長先生。そちらの方は」
「ああ、ローウェル殿のご友人ですよ。彼を心配なさって、駆けつけてくださったそうです」
院長がさらりとごまかすと、ノーヴァは深く突っ込んでくることはなかった。
「それより商人殿、何かご用があったのでは?」
「ええ、あの、プリンシアさまのことです」
「まだ目覚めておられないようですよ。お見舞いはご遠慮くださるようにとローウェル殿から言いつかっておりますが、一度お声をかけてみましょうか?」
「やめておきましょう、あんなことがあったあとですから。ローウェルさまも、余計な人間を病室に入れるのは厭われるでしょうし。では、私は妹のところへ戻ります。お手数おかけいたしました」
「プリンシアさまがお目覚めになられましたら、お声かけしましょうか」
「お願いします、助かります」
ノーヴァは会釈すると、こちらに背を向けてもと来た廊下を戻っていく。
妹思いの、礼儀正しい青年。のように見える。
院長はノーヴァが来て去るまで、一度も表情をゆるめなかった。
「まだ、自警団の方にもご報告差し上げていないのですが」
ジンはうなずいて続きを促す。
「少女たちが怯えています。火事があったからかもしれません。賊に襲われたからかもしれません。けれどあの子どもたちは誰一人口を開かず、祈りばかり捧げているのです。まるで願いを口に出せば叶わなくなるというように」
「彼女たちに事情は聞いたのですか?」
「いえ。とても私からは……自警団の方が事情聴取をするというのでしたら仕方がありませんが、それまでは静かに過ごさせてやりたいのです。プリンシアさまも関わっておりますから、ことは慎重に運ばなくてはね。おそらく明日か明後日には正式に陛下から指示があるでしょう」
「そうですね、明日には。使者の用意は整っていたようですから」
院長はやわらかく微笑み、プリンシアさまとローウェル殿はこちらにおられますと言ってジンを促した。




