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さくらは空中をぐんぐん進む。暗くてなにも見えやしなかったが、音はやたらよく聞こえた。草むらをがさごそ鳴らす音だ。
屋敷周辺の木立を抜けると農家があり、畑があり、町があった。木板の揃わない粗末な家々、舗装されていない砂利道、時おり現れる堅牢な石造りの建物。どれも人の手で作られたのだとわかるような、整えすぎない武骨な雰囲気があった。材質やデザインが揃っていてもひとつとして同じものはなく、個性として受け取ってよさそうな歪みがある。機械的な冷たさを感じないというのは、それだけで気後れせずに済むから不思議だ。
外出をまったくといっていいほどしてこなかったさくらには見るものすべてが珍しく、ただひとつ言うなら、外灯のない静けさに少し不安を覚えた。故郷を離れて三年経った今でも、町中や道路には当たり前に灯りがあるものだと勝手に思い込んでいた。ここがミュゼガルズなのか、聖都の外の町なのかはわからないけれど、この世界に一晩中外灯を点している場所はない。少なくとも、見張りの衛兵が篝火を炊いているというのでなければ、ありえない。
さくらは誰もいない、寝静まった通りをすいっと行く。農家群を抜けると町らしさが濃くなり、おそらくこの近くの治療院にさくらの身体は運ばれたのだろうと思った。
けれども治療院に用はない。
なんとなくだが、さくらは行くべき場所を知っている。なぜ知っているのかはわからない。勘といってもいい。
肉体があったときはたいして鋭くもない第六感などまともに取り合ったことはなかった。しかしじぶんが魂だけの存在になってみると、ほとんど第六感しか残っていない気がしていた。視覚も聴覚も、嗅覚も触覚も、「実感している」のではなく想像と経験で補っているみたいに「わかっている、あるいは知っている」というふうな感じなのだ。実際には目も耳もない存在だから、周囲の物音や風の動きを第六感的なもので感じ取っているだけなのかもしれない。
ぞわりと奇妙な寒気が走ったが、それももはや身体が感じているのか魂が感じているのか判断がつかない。そのことが余計に怖い感じがして、さくらは何も考えないように努めた。やるべきことは明確だったので、さっさと目的地まで飛んでいく。
さくらがあっという間にたどり着いたのは、町外れの礼拝堂だった。周りには畑があり、屋敷のほうの木立と繋がっていそうな林が背後に控えている。
小さな尖塔に登ったさくらは、しばし地上を見下ろし、こそこそと動く気配を感覚で追った。顔はまったく見えないし、シルエットさえも掴めないが、何人いるかは断定できる。
「──外にいるのは十五人……」
息を殺し、ささやき声ながら人を脅すような強い語調で複数の気配を誘導する人物がいる。逆らえば殴られ、蹴られ、髪を掴まれ、引きずられる。泣き叫ぼうにも口には布が押し込まれ、後頭部できつく結わえてあった。くぐもった泣き声が礼拝堂に消えていくたび、吐き気のようなものを覚えた。
初代プリンシア像を抱いた尖塔からするりと飛び降り、彼らのあとを追う。
内部は宮廷にあった礼拝堂と似たり寄ったりで、規模が小さくプリンシア像や装飾柱がないくらいだった。ずらりと並んだ拝礼席に押し込められた十三人の小柄な気配から、震えを感じ取る。残りの二人は出入口で睨みを利かせたり、外に停めた馬車を動かしていたり、忙しない。
見てもいないのに全員の動きが手に取るように把握できた。
なんだかじぶんが人間でなく、生き物を超越した存在になってしまったような気がすごくする。神さまのようだ、と思えば聞こえはいいかもしれないけれど、世界の枠と枠の隙間に落っこちて誰もいない底無し沼に埋まっているような感じがした。幽霊ってそんなものなのだろうか。だとしたらひどく空虚だ。
このまま一生、世界が崩壊するまで独りきりで宙に浮かんだままだったらどうしよう。
──まあでも、あのまま生き続けているよりはマシか……。
さくらはこの先の展開を知っているような落ち着いた気持ちで、ふいっと礼拝堂内を飛ぶ。
前方の席にはリコーとノーヴァの妹が揃って座らせられていた。ということは総勢十七名。身を寄せあっている後方の十三名はまず間違いなく囚われた少女たちだ。
物に干渉することも、生身の人間に干渉することもできないさくらは、もしやと思い立ってノーヴァの妹に語りかけてみた。
「──わたし、さくらっていいます。聞こえていますか? もし聞こえているなら返事をしてほしい。あなたがどうして眠ったままでいるのか、わたしはどうしても知りたいんです。それに今のわたしなら、生身でいたときのわたしよりは何か役に立てるかもしれない」
彼女のネグリジェの肩に触れようとして、強い引力を感じた。めまいのようでもあった。深く触れれば意識が消し飛ぶような恐怖が一気に沸き立ち、さくらは慌てて距離をとった。
今のはいったいなんなんだ。
動揺するばかりのさくらに、ふと視線が突き刺さる。
「……だれかいるの」
リコーが薄目を開けてさくらを見ていた。眠り薬がどこまで抜けたのかはわからないが、声に揺らぎもかすれもない。きちんと現状に配慮した小声で、リコーは身じろぎせず話す。
「女のひと……?」
彼女は、はっきりとさくらを視認しているわけではないようだ。返事がないとみるや、わずかに視線を巡らせて幻聴かどうかを探っている。
さくらはおそるおそるリコーに手を伸ばしてみた。
「──わたしの声、聞こえる?」
触れられはしなかったが、ネグリジェのレースに包まれた彼女の手がぴくりと震える。さまよっていた瞳が動くのをやめ、一転して膝を熱心に見つめだす。
「……きこえる。聞こえます」
リコーは丁寧に言い直し、声のする方向を探るのではなくそっと目蓋を閉じた。
「あなたは何者ですか」
ほとんど唇も動かさず、彼女は問う。礼拝堂の後方では、二人の大人たちのもとへ一人の男が合流したところだった。彼は「子どもたちの拘束を解け。じきに自警団が来る」と指示している。
「──話は、あとに。ノーヴァが来た」
リコーの睫毛が揺れる。礼拝席に沈み込み、眠っているふりを貫く賢い彼女はまばたきだけで応えた。
屋敷で別れたときと変わらない格好で、ノーヴァが足早にやってくる。さくらの気配に気が付くことなく、妹の頬をするりと撫でた。愛しいものを慈しむ、本当に本当に優しいしぐさだった。そして厳しい表情で「すまない」と謝る姿の、なんとちっぽけなこと。たくさんの少女たちを地下に閉じ込め、さくらに毒を吐き続けた男とは思えない、純朴で優しく寂しげなただの「兄」のよう。
殺してやろうかと思った。
「すまない、下手を打った。こんなはずではなかったんだが、自警団に状況説明をするのに少し手間取りそうだ」
「──ぜんぶおまえがやったくせに」
怒りで呂律が回らない。いや、そうではないのだろう。言葉がうまく浮かんでこないのだ。それでもめまいのするような腹立たしさと憎しみの感情が、さくらに叫びをあげさせる。
「──おまえが望んでやったことのくせに!」
妹の頬を両手で挟んで額を合わせているノーヴァに、さくらは強い言葉を向けた。何人かの少女が、びくりと肩を揺らして周囲を見回す。
「──何が『すまない』だ……。そうやって最愛の妹には簡単に謝る! おまえの思いの強さばっかり押し付けて、平気な顔でわたしたちに地獄を見せるくせに。あの女の子たちをまだ連れ回しているおまえが、今この場で、よくもぬけぬけと謝れたな!」
はじめて、人に向かって怒鳴っている。
さくらは肉体などないのに、疲労感を背負いながらまだ言った。
まだ、こんなものでは言い足りなかった。
「──おまえが大事なのは妹だけ? 他人を傷付けてもかまわないほどにその子を慈しむことができるのに、その妹に対する思いやりの一片さえなんで他の人に向けられないんだ!」
妹から手を離し、肩を突かれたようにして振り向くノーヴァの胸ぐらを、さくらは掴んだ。掴めないはずのものを、掴んだ。
彼の怪訝そうな表情がすっと抜け落ち、やがて驚愕の色に染まっていく。
「誰だ……誰かいるのか」
礼拝堂の後方で、旦那さまと呼び掛ける声がした。金髪の大柄な女がこちらに来ようとして、しかし、足がすくんだみたいに一歩が踏み出せずにいた。彼女のとなりにいるずんぐりとした小肥りの男は、押し殺した声で「今すげぇ鳥肌立った」とつぶやく。
少女たちのすすり泣く声が、しんと静まった礼拝堂に響いた。一、二、三秒、さくらの気配に気付きかけた大人たちはそれを勘違いかと思ったようだった。だが、もちろん勘違いでは済ませてやらない。
さくらは強烈な嗜虐心に突き動かされ、ノーヴァの頭を殴るつもりで低く強く呪いの言葉を投げた。
「──おまえ、このまま生きていけると思うなよ」
この言葉は、はっきりと、礼拝堂にいる誰もに聞こえたらしかった。
おどろしい声がどこから聞こえているのかキョロキョロする小肥りの男を「下手に動くんじゃない」「いてっ。だってよぉ、今の声……」金髪の女が肘を打ってやめさせる。
「誰か厄介なやつが紛れ込んでるんじゃねぇの? 早く見つけて縄かけねぇとさ」
「人じゃないよ、縄なんてかけられない」
「えっ、人じゃないってなんじゃそら……」
もう一度、小肥りの男を肘鉄砲で黙らせて、金髪の女が神妙に口を開く。
「どなたか、いらっしゃるので?」
ノーヴァが首だけで軽く振り返り、金髪の女と目配せを交わす。身体ごと振り返れないのは、さくらに掴まれているからだ。しかし、こちらの姿までは目に写っていないらしい。
「──わたしのことを探るより先に、やるべきことがあるのではないの?」
今度こそ金髪の女は青ざめ、小肥りの男も顔を強張らせた。だが、ノーヴァは険しく眉を寄せて虚空を睨んでいる。
「その声、聞き覚えがあるな」
わざとのように弾んだ口調でそう言い、金髪の女がたしなめるのもかまわず続けた。
「まさかプリンシア・サクラ? あれから安否も知れぬままでしたが、こんな場所で姿も見せずに声だけが聞こえるということは、どうやらあなたは死んだらしい。死んで私のところへ化けて出たのですか?」
彼は笑った。
この期に及んでまだ、さくらを馬鹿にして、笑っていた。
「まったく畏れ入りますよ。あなたはある意味で一貫性がある。別れを惜しむ親しい者もないから、真っ先に恨みを晴らしに来たのでしょう? だとしたらなんとつまらぬ人か。なんとつまらぬ人生か。この私ですら同情をもよおすほどに、あなたは何も持っておられない。失礼ですが、ごじぶんが生まれたことを後悔したことはありませんか?」
「──だまれ」
死んでなお、これほど怒りの波に揉まれるとは。
死者に対してさえ、これほどひどい台詞を吐けるとは。
できることなら、今すぐに目の前のこのふてぶてしい男を火の海に投げ入れてやりたかった。
「旦那さま! それ以上はいけません。お控えを……」
「何を控える必要がある? 声だけの陰湿な思念に、私をどうこうすることはできないよ」
金髪の女の咎めも聞かず笑みを浮かべる彼に、さくらは身を引き裂かれるほどの怒りをもって言い募ろうとした、そのとき。
「殺してください」
震える小さな声がした。
「そいつを殺して」
半分泣いているような、か細い声が響く。
礼拝堂の冷えきった空気のなかに、少女の懇願がぽつぽつと放たれる。一人や二人ではなかった。悪い大人たちの咎めの視線を受け、実際に制止の手が延びてきても、また別の少女が声に出して祈りを捧げる。
「やめさせろ」
ノーヴァが苛立ったように早口で命令すると、金髪の女は弾かれたように素早く動き、容赦のない手付きで少女たちを床に這いつくばらせる。小肥りの男も手加減なく強い力で少女の頭を押さえつけてまわった。「礼拝堂で縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ、気味わりぃだろうが!」と男が舌打ち混じりに吐き捨て、手近にいた女の子の背中を蹴り飛ばす。
だが祈りの声はやまない。
「殺して」
「殺してください」
「うるせぇ黙れ、髪の毛引っこ抜かれてぇのか」
「そいつを殺して」
「黙れっつってんだろ」
「殺してください!」
「殺して!」
「黙れよ!」
高い高い天井までのぼって、そして礼拝堂全体に少女たちの声がかわるがわる広がっていく。震え声も枯れ声も泣き声も全部が絡み合って、重なっていく。
反響する強い祈りによって、礼拝堂が細かく振動しているような気がした。
そのなかで、リコーの揺らがぬ眼差しがさくらを捉えていた。
「……神よ、救いを」
静かな彼女の言葉がまっすぐにこちらへ向けられている。さくらはとっさに、彼女を視界から外した。
後列の礼拝席では、今や誰も彼も魂を吐き出してしまいそうなほどの叫びをあげて、罪人の断罪を願っている。そして彼女らのなかの一人が、床にひたいを擦り付けながらこう言った。
「我らが神。我らが母。聖別されし【祈りの姫君】よ! どうか我らをお救いください」
小肥りの男が彼女の華奢な身体を突き飛ばしたが、一度吐き出された言葉は本人でさえ二度と飲み込むことはできない。
「早く黙らせろ、口をふさげ!」
いつまでも鳴り止まない「神への合唱」に、ノーヴァがかつてない怒りを表す。
だが、金髪の女が途中でためらいをみせた。
「旦那さま……」
おののく彼女に感じるものがあったのか、小肥りの男のほうも気味悪そうに身を引きつつある。
「プリンシア・サクラ。どうかそこにいらっしゃるなら私たちと同じ祈りを」
リコーが低く声をあげた。
少女たちが図ったように口をつぐむ。
目尻の垂れた瞳がさくらを捉える。少女たちの命を懸けた強い懇願の視線を感じる。いっそ熱狂的といってもいい。
彼女たちが何を言おうとしているのか、さくらにも、おそらくノーヴァにも、わかっていた。
「その悪魔を殺して、私たちを救って」
神よ、とささやく少女がいる。
さくらを神と呼び、救済と断罪を求める者がいる。
礼拝堂に漂う神聖な雰囲気に、物々しい狂気の気配が混じっている。
今なら諸悪の根元を絶つことができるだろう。確信があった。
おそるおそるノーヴァの胸ぐらを放す。そしてその手をスーツの奥の生命の源へ伸ばした。
ノーヴァは全身を強張らせ、さすがの彼も信じがたいものを見るようにさくらを見上げる。ここにきてようやく、彼にもさくらの姿が見えるようになったらしかった。彼にはいったいどんなふうに見えているのだろうか。光か、さくら自身か、別の何かか……いや、そんなのはなんでもいい。
「──陰湿な思念に、おまえをどうこうすることはできないんだったな?」
皮肉を言ってやると、彼は顔色を悪くしたものの口元には笑みを浮かべた。
「……殺しますか? いいや、あえてこう訊ねましょう。あなたは私を殺せますか?」
どこまでもふてぶてしい男だ。
ずぷりと胸の奥へ指を沈み込ませる。肉を割る感触はない。わずかな圧迫感を無視して、悪魔の心臓に触れた。
ノーヴァが目をすがめ、唇を噛む。
「っ、あなたが今触れているのは心臓?」
「──そう」
「いつでも殺せるというわけだ。あなたの決心がつくなら」
「──高を括っている場合? みんながおまえの死を望んでる」
「だからどうだというんです? あなたは私を殺せませんよ。みんなのためと聞こえのいい言い訳をしても、結局のところじぶんが手を下すことをためらうでしょう。断言してもいい。なぜならあなたは人殺しになることを恐れている」
彼は心臓を掴まれてもなお、死に怯える姿はさらさなかった。
「あなたは神ではない。少なくともその自覚がおありになる。だとしたら今ここで私を殺すことは、単なる私刑だ!」
「──そうやってわたしを言葉で押さえつけようとするのはやめろ! おまえの生殺与奪の権を握っているのはわたしだ!」
「いいやあなたは何も手にしてなどいない。これまでもこれからも! さあ握り潰してみろ、あなたに人殺しの罪が背負えるものなら!」
指先を曲げていく。手のひらに包むと、それが生き物であることをさくらに教えた。
でこぼこしたやわらかな臓器が脈打っている。一分間に、いったい何回血液を全身へ送っているのだろうか。
たとえ持ち主が悪魔といえど、彼のためにこの心臓は血を全身に行き渡らせ続ける。今さくらの手の中にある心臓は、彼を生かすことに必死だ。ただ一生懸命、持ち主となった悪魔のために動き続けている。これまでも、これからも。
これを豆腐を潰すように握り込めば簡単にぺったんこにできるだろう。持ち主が悪魔だったばかりに、善も悪も関係なく公明正大な働き者だった心臓はさくらによって退治されてしまうというわけだ。
彼が「人殺しの罪を背負うことを恐れている」と言ったのは正しい。
正直に、怖いと言おう。
私刑であるというのも、うなずこう。
それでも少女たちの哀願は無視できるものではなく、ノーヴァが悔い改めないというのならば誰かが彼を裁かねばならない。
「──こんなことになってもまだ、おまえは妹を救えると思っている?」
ノーヴァは口の端をひきつらせて笑う。
「妹を救えるのは私だけです。どんなことになっても諦めない。たとえ私の肉体が死のうとも、目指すところは変わらないのです」
「──無意味と思ったことはないの」
「無意味と思えばそもそも身動きがとれなくなる。妹は必ず目覚めます。そのためにできることはすべてやる、私の誓いは生涯ただそのひとつだけ。それともあなたには他に秘策がおありになる?」
「──さあ。知っていても教えてやらない。でもひとつだけ言えるのは、今後、今までのようにいろんなものを犠牲にしてもおまえの妹は目覚めないということ」
ここでやっと、ノーヴァの笑みが消えた。
「何を根拠に」
「──教える義理なんかない。他者を陥れて罪悪感も覚えないようなおまえが、妹の目を見ることは二度とない」
ぎゅ、と手に力を込めると、ノーヴァは苦痛に顔を歪めた。金髪の女が息を飲んだが、駆けつけてくることはない。
「──死んだあともやることが変わらないというなら実際に死んでみるといい。陰湿な思念に、何かできることがあるといいけど」
「……っ、私とて罪悪感がないわけではない! だがそんなものに囚われていては永遠に目的が果たせないのです! ……あなたにだってあるでしょう!? 何を犠牲にしてでも叶えたい願いが!」
苦しげに彼は言う。
確かに願いはある。むしろいつも願っていた。
じぶんがよければいい、じぶんの家族が幸せならそれでいい。その他の人間なんて全部消えてしまえ、そう思うことがよくあった。
だから本当は、さくらはノーヴァを責められない。保身のためにミミリアを殺しかけたさくらに、罪悪感はないのかとノーヴァをなじる権利は本当はない。
少女の発破をかける声が悲鳴じみて聞こえる。興奮しきった声にも聞こえた。やれ、やれ! とじぶんたちの解放を望む切実な願いの声は、さくらの背中をぐいぐい押してくる。
抗いがたい。
けれど。
「プリンシア。あなたがそいつを殺してくれるなら私は他に何もいりません」
ひときわ耳に残るリコーの声でそう言われて、さくらの胸にひどく冷たい木枯しが吹いた。
ノーヴァを哀れんだからではない。
決心のつかないじぶんを情けなく思ったからではない。
少女たちの願いを叶えられないもどかしさからでもない。
ましてや、リコーや少女たちの期待を裏切ることに恐怖を覚えたからでもない。
──どうしてわたしの世界はいつもこんなに殺伐としているんだろう。
さくらにはずっとなりたいものがあった。ミュゼガルズに来ていっそう形を成し始めていた、さくらの本当の望み。今の今まで、はっきりと自覚はしていなかったと思う。自覚してしまったら行動に移さないといけなくなるから、わざと気付かないふりをしていたようにも思う。
お姫さまのように大事にされたい、それはじぶんが傷付かない、痛くない場所で守ってもらうための手段だ。
もしも何者にも脅かされず平穏に生きられるのなら、さくらは荒屋にだって住んだだろう。だから本当は、豪華絢爛な部屋もドレスも食事もなくて平気だ。
孤児院でゆるやかな時の流れを感じながら、静かに床を磨く日々が続けばいいと思った。その時間の中でなら、本当に穏やかな人になれると思ったのだ。
突き詰めればそれは、きっとこういうこと。
──わたしは、たぶんずっと、やさしいにんげんになりたかった。
間違っても、怒りに任せて人を殺すような人間じゃない。そんな殺伐とした人じゃなくて、もっと、ひだまりで微笑んでいるような、自らの傷や痛みに嘆くよりも目の前にいる誰かの苦痛を和らげてあげられるような、大切な人の傷に薬を塗ってあげられるような、そんな人にずっとずっとずっとなりたかったのに。
痛みが怖くて、傷が痛くて、じぶんの思いを口に出せなかった。人より先に攻撃し、人よりじぶんを優先しなくては安心できなかった。そういう弱さが、もうずいぶん長い間さくらを悪役に仕立てあげてきたのだ。
でももういい加減、甘えるのはよさなくてはならない。
人の言葉に流されず、自らの意思で自らの責任によって右か左かを選ぶのだ。それはみんながずっとやってきたことで、さくらがずっと怠けていたことだ。
こんなにギリギリまで気付こうとしなかった怠惰が、今になって悔やまれる。だが過去には戻れない。前に進みたいなら、さくらはその悔いを打ち払うしかないのだ。激しい痛みや深い傷を負ってでも。
さくらはかわいそうな心臓から手を離してやった。
虚を突かれたノーヴァが、苦痛の表情を解いて無意味にまばたきを繰り返す。
「やはり殺せない……?」
「──違う」
こちらを凝視する彼の視線を受けながら、さくらは姿勢を正した。
「──今ここであっさり殺したら、おまえは悔い改めもせずにこの世から解放されてしまう。でもそんなのは、わたしが許さない」
もしかするとさくらの魂は消えてしまうかもしれないが、それはそれでかまわなかった。
さくらは誰の視線も無視して、ノーヴァの妹に手を伸ばした。不思議な引力をやはり感じる。この先に何があるのか、確かめるのは少し怖かったけれど、ためらう気持ちはない。
萎みそうになる勇気を振り絞って、引っ張られるまま引力に飲み込まれていく。




